有隣堂しかない世界 ~失われたザキを求めて~

下方陸

1周目

悲鳴が聞こえる——。



気が付くと私は有隣堂の1階に立っていた。

有隣堂の名所、吹き抜けの上の2階の売り場を走る郁さんの姿が見える。

郁さんが私に向って叫ぶ。


「今、上から悲鳴が!」


私の耳にも聞こえた。

形容するなら、寝る前に枕元に置いたヴィンテージ眼鏡を、寝起きに誤って踏んで壊した時に上げるような悲鳴である。


「何かあったのかもしれません。僕が見てきます。郁さんは2階で待っていてください」


私は郁さんを2階に残して階段を駆け上がった。


有隣堂は不気味なほど静まり返っている。


誰もいない。

異変が起きた様子もない。


5階に着いた時、売り場の方に初めて人の姿を認めた。

プロレスの佐藤さんである。

本の品出しか何かをしているらしく、平積みにされた本の山が床にいくつもある。

悲鳴を聞いていなかったのだろうか?


だが、佐藤さんに声をかけている暇はない。

有隣堂の最上階は6階で、何かあったとすれば残るはそこしかない。

私は最後の階段を駆け上がった。


目の前の凄惨な光景に私は思わず息を呑んだ。


荒らされたスタジオに夥しい量の血が飛び散っていた。


いや、それでは生々しすぎるので、大量のインクがぶちまけられていたことにしよう。

源光庵の血天井色のインクである。


割れたヴィンテージ眼鏡。蓄光のガラスペン(蛍光)。

先ほどの悲鳴は本当にザキさんだったらしい。


ガラスペンの近くに緑色のノートが落ちている。

表紙の真ん中に、三つ鱗を逆さにしたようなマークが箔押しされている。

中を開いてみると、最初のページに以下のように記されていた。


  有隣堂しかない世界へようこそ。


  これは有隣堂しかない世界から元の世界に脱出するゲームです。

  今、元の世界では時間が止まっています。

  有隣堂しかない世界で私が動いているからです。

  私の時間を止めてください。


  ゲームのプレイヤーはそれぞれ異なる能力を持っています。

  中には私の時間を止める能力を持つプレイヤーもいます。

  このノートに自分の名前を書くことで、

  プレイヤーは自分の能力を知ることができます。

  各プレイヤーは能力を一度だけしか使えません。有効に使ってください。


  最後に。

  大事なことなので、もう一度、

  私の時間を止めてください。


ページをめくると、すでにザキさんの名前が書いてあった。

その結果がこの惨劇だとするとまるでデスノートだが、ザキさんの名前にはまだ最後の一画が入っていない。

岡﨑弘了になっている。

名前を書いている途中、ザキさんの身に何があったのか。


少しの間、私は思案した。


試しに名前を書いてみようか。

筆記具の持ち合わせがなかったので、私はガラスペンを拾い上げて床のインクを吸わせた。


その時。


ふいに下の階が騒がしくなった。

階段で5階に下りてみると、売り場の方から佐藤さんが必死の形相で走ってくるのが見えた。


「逃げてください!」


そして、私は見た。


佐藤さんの後ろの正面。

色違いの斜視の目玉をギョロギョロと回しながら、虹色の羽角を振り乱して巨大な怪鳥が驀進してくるのを。


ブッコローである——。


体長は2メートルはあろうか。

オレンジ色の羽毛にはまだ乾ききっていないインクの痕。黒い嘴にもべっとりとインクがこびりついている。

トレードマークの逆さの三つ鱗は、まるで間仁田さんが描くブッコローのイラストのように、危険を示す放射状のハザードマークへと変貌していた。


まさか、ザキさんを食ったのか?

このブッコローを止めろということか!


先ほど拾ったノートの内容を思い出した私は、咄嗟に指に唾をつけてノートをめくり、ザキさんの名前の下に自分の名前を書いた。

命からがら逃げてきた佐藤さんにもノートに名前を書かせる。


「このノートに名前を!」

「そんな場合では——」

「いいから早く!」


名前を書き終えた佐藤さんの、その柔和な表情が精悍な漢のそれへと変わった。


「下がっていてください」


そう言って私の前に立つ佐藤さんの頼もしい後ろ姿は、さながらリングに上がる時のプロレスラー、三沢光晴のようであった!


赤コーナーのブッコローが獰猛な嘴で襲い掛かる!

青コーナーの佐藤さんは果敢に躍り出た!


「時間よ、止まれ‼」


ああ! もしも、この瞬間が動画になるとすれば、いつかの週刊プロレスを彷彿とさせる渾身のテロップが入ったであろう!

ブッコローを止めるための切り札、『時間を止める能力』を佐藤さんが引き当てたのである!


だが。


どういうわけか、ブッコローが止まらない。

それどころか、キツツキのような凄まじい動作で打ち込まれた連撃が、有隣堂の築65年の老朽化した床を粉砕してしまった。

ほんの1秒前に佐藤さんが立っていた場所である。

すっかり恐れをなした佐藤さんは、さながら小橋建太にマシンガンチョップを浴びせられた三沢光晴のような表情で逃げ帰ってきた。


「全ッ然止まってないじゃん!」


私がツッコミを入れると、佐藤さんは心外だという表情をした。


「かなり止めたつもりですが——」

「いや、全ッ然止まってなかった!」


佐藤さんは少しだけ思案した後に「ひょっとすると——」と言った。


「僕が時間を止めている間、他のプレイヤーはそのことを認識できないのかもしれません。だから、時間が止まっていないように見えてしまう——」


私には認識できなかったが、佐藤さんだけが動けていた時間があったということか。


「その間に、佐藤さんはいったい何を?」

「それが、僕の時間も止まってしまうみたいで何もできず——」

「一緒じゃん! 止まらなかったのと!」

「申し訳ない——」


目の前では、ブッコローの両目が私と佐藤さんを同時に睨んでいる。


「二手に分かれるしかない!」


私は断腸の思いで佐藤さんに叫んだ。

ヤバい色の目の方は佐藤さんを睨んでいたからである。


「ですね!」


私は6階へ、佐藤さんは4階へ。

案の定、ブッコローも4階に消えてくれた。


階下から断末魔の叫びが聞こえた。


逃げ切れなかったか。

まあ、おかげで私は助かったが。

安堵したのも束の間、私はすぐに青ざめた。


しまった!

郁さんを2階で待たせている!


私は運よく6階に止まっていたエレベーターの前に走った。ボタンを押して扉を開く。

ザキさんのインクがエレベーターの中にまで飛び散っている。

なるべくインクを踏まないようにしながら、私はエレベーターに乗り込んだ。


間に合えばいいが。


やがて2階に到着した私を、しかし、郁さんは待っていてはくれなかった。

そこには、ただパフュームインクのローズが飛び散っているだけだった。


「郁さん——」


私は呆然と立ち尽くすしかなかった。


どれほどそうしていたことだろう。

ふと気配を感じて振り向くと、巨大な嘴が目の前にあった。


「オツカレサマデシタ」


変声機を使ったような独特の鳴き声でブッコローが鳴いた。

むさぼり食われた私のインクが飛び散る。


「マズクハナイデス。45テン」

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