筋肉の幽霊

虫十無

1

 おかしいの、誰かがそう言った。それはそうだろう。あれは何だろうなんて言葉が無意味に思える。

 空に筋肉が浮かんでいた。


 筋肉と言ってもどこかわからないようなものじゃなく、上半身首から腰までくらい、腕はあるけれど手首から先はない、ボディービルダーくらいの筋肉量のものがなぜか浮いている。もちろん何かにつるされているわけでも下に透明な台があるわけでもない。

 最初はあの有名なスクランブル交差点の上。そこからは色々な場所にどんどん増えていった。東京を中心に半径百キロメートルくらいの円の中、点々と上空に筋肉が浮いている場所がある。大体三十メートルくらいの高さに浮いていて、最初に見つかったところなんかは上から発見する方が早かったらしい。

 その筋肉は範囲内なら建物の中にも浮いてることがあるみたいだけれど、そういうやつも近くで観察はできるけれど触ろうとするとすり抜けてしまうらしい。だからあの筋肉たちは筋肉の幽霊と呼ばれている。


 筋肉の幽霊はもう数秒に一回くらいはSNSで発見されていて、総数がどれくらいかなんて把握している人はいないだろう。けれど意外とこの範囲は広いみたいでまだ筋肉で埋め尽くされてはいない。意外と空は見えて、そこにぽつぽつと茶色……逆光で黒くなった筋肉が見える。

 この筋肉の幽霊はいつまで増えるのだろう。この範囲の地面から三十メートルくらいの高さが全部埋め尽くされたらどうなるのだろう。横に広がるなら、まだいい方だろう。けれど上に、下に広がったとしたら。多分その時に本当の恐怖を連れてくるのだろう。いくらすり抜けるものでも迫ってきたら、怖いものになってしまうだろう。


 ビー、音が鳴る。機械音がそのあたり一帯の全てのスピーカーから出てくる。スマホのスピーカーも、町内放送のスピーカーも、お店のBGMを流すスピーカーも、全部が全部同じ音を発する。

 それと同時に筋肉の幽霊が動き始める。あの最初の一つに集まるように動いていく。そこにたどり着いたものはとりこまれていく。全部が全部最初の一つにとりこまれていく。全ての動きが終わったとき、最初の一つは中心を同じ高さにしたまま地面につくほどの大きさになっていた。

 大きくなった筋肉の幽霊が少し身じろぐ、違和感を覚える。動いて、もう何もないはずの向こう側が見える場所が真っ暗で、空気も光もない。ゆらり、今度は大きく動く。やっぱりそうだ、筋肉の幽霊がいるところには何もなくなるのかもしれない。それに気づいた人が我先にと逃げ出す。人通りの多い場所でそんなことになるともうどうしようもない。転ぶ人、それを踏んでしまう人、壁の近くで押しつぶされる人、そちらにさらに行こうとする人。誰も他人の事なんて見えていない、きっと自分の事すらわからなくなっている。今ここにいる人がわかることは筋肉の幽霊に触れられるときっと死んでしまうことだけ。誰も死にたくない、あれに殺されたくない。

 ああ、また筋肉の幽霊が動き出す。

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