卓越した剣術は魔法より優れるのか
おいしい塩
卓越した剣術は魔法より優れるのか
東方海岸線 港町ダリナス
記憶を縛られた少年
朝焼けに染まる港街には、すでに活気のある声が響いていた。波止場では漁師が威勢よく水揚げをし、露店では魚を焼く香ばしい匂いが漂う。どこを見ても“日常”を忙しそうに生きる人々の姿があるのに、なぜか自分だけがその流れに取り残されているような感覚があった。
「んで……ここ、どこだ?」
深く被ったフードの陰から、大通りを見回す。鼻を刺す磯の匂い、聞き慣れない喧噪が、まるで別世界だと訴えている。
——それもそのはず。どうして自分がここにいるのか、思い出せないのだから。
唯一の手がかりは昨夜の出来事だけだった。
「夢じゃない、よな」
潮と魚の生臭さは妙に生々しく、いっそう不安を煽る。フードの奥で顔をしかめながら、昨夜のかすかな記憶を辿ろうとする。
ひっかかるのは、あの“女”の存在。冷たい瞳と、まるで自分を所有物のように扱う言葉。
『これであなたは私のものね……』
そう言ったときの、無邪気な笑み。それが、どこかゾッとするほどに美しかった。
それに——あの金色の鎖。首筋に巻きつき、意のままに操られているような屈辱感。思い出すだけで奥歯を噛みしめてしまう。
「くそ……これもあの女のせいか?」
苛立ち混じりに、頭を掻きながら呟いたところで、答えは返ってこない。代わりに、魚を焼く匂いに胃が鳴った。
匂いの先に視線を向けると、露店の炭火で焼かれている魚がじりじりと音を立てていた。きつね色の皮に脂が光り、焼きたての湯気がふわりと立ち昇っている。
思わず喉が鳴る。いつから何も食べていないのかも思い出せない。だからこそ、この焼き魚の匂いが余計に堪える。
「腹減った……」
懐をまさぐると、硬貨の冷たい感触が指先に触れる。見慣れない刻印のある、厚みのある金貨。
今朝、眠りこけていたあの女のもとから持ち出した物だ。黙って持ち出すのは、少し気が引けたが、見知らぬ場所で無一文は不安だった。
——向こうだって、俺をオモチャ扱いしてたんだ。ちょっとぐらい許されるはず……!
自分に言い訳するように、露店の焼き魚へと足を運ぶ。
「おう、兄ちゃん!焼きたてのカジキ、どうだい!」
店主が豪快な笑みを浮かべて、こんがり焼かれた魚の串を掲げる。湯気の立つ脂が鼻孔をくすぐり、思わず目が潤むほどに美味そうだ。
「ん!一つちょうだい!」
「よっしゃ!待ってな、焼きたての所をやるからよ!」
店主は網の上で焼き上がった魚をひっくり返しながら、にやりと笑う。
「兄ちゃんも魔術師様かい?最近は優秀な魔術師も少ないって聞くが、若いのに立派だねぇ!」
「魔術師……?」
焼き魚に意識を奪われていた俺は、不意に言われて一瞬固まった。思わず店主の方を振り向くと、彼は俺の外套をしげしげと眺めている。
「違げぇのかい?そのフードと外套、立派な刺繍じゃねぇか。つい、旅の魔術師かと思っちまったよ」
そう言われて、改めて自分の着ている外套を見下ろす。深い藍色の布地に銀糸の細かな模様。少しばかりの使用感はあるものの、見るからに高級品だ。
それでなくとも、頭からすっぽりフードを被っている姿は、辺境の港でそうそう見かけないのだろう。腕の長さや肩幅に合っていないところをみると、これは元々自分のものではないのかもしれない。
「……そもそも魔術ってなんだ?」
自分でも驚くほど自然に口をついて出た言葉に、店主は目を丸くする。
「はあ?魔術を知らねぇのか?兄ちゃん、どこの田舎から来たんだよ」
訝しげな視線を向けられ、俺は慌てて言葉を濁す。そもそもどこから来たのかすら覚えていない。何かを誤魔化そうにも、嘘すら思いつかない。
「ま……いいか。さあ、焼き魚だ。熱いから火傷すんなよ!」
「あ、ああ、あんがと……」
串ごと受け取った途端、脂の香ばしさが鼻を直撃し、たまらず喉が鳴った。じゅうじゅうと染み出た脂に塩がはじけ、立ち上る湯気が視界を白く霞ませる。思わずかぶりつきそうになるが——
「おっと……お金お金」
慌てて懐から金貨を取り出した。見慣れない紋章が刻まれた、大きくて重い金貨。渡そうとすると、店主は目を見張り、思わず手を止める。
「おいおい、なんだこりゃ。金貨には違ぇねぇが、この港じゃ見たこともねえ」
疑わしげに透かしてみたり、歯で噛んでみたりと丹念に調べている。俺の方も何となく嫌な予感がして、落ち着かない気持ちになる。
「本物じゃないのこれ……足りない?」
「足りねぇっていうか……高すぎるんじゃねぇのか。なんぼ何でも釣りが出せねぇほどの大金ってことだろ、これ」
店主は困惑した表情のまま、金貨を俺に突き返す。つい先ほどまで豪快だった口調は影を潜め、どこかよそよそしい。
「悪いな、兄ちゃん。ちょうどいい細かい金がないと受け取りようがねえ。どっか大きな店でも行ったらどうだ。あるいは両替できる所を探すか……」
そう言われても、どこでどう両替したらいいのか、そもそもそんな店がこの港にあるのかすら分からない。腹の虫が絶えず鳴いているが、仕方なく焼き魚を返そうとしたとき、店主は少し申し訳なさそうに呟く。
「魚は……もう焼いちまったしな。悪いが、ウチも商売でやってるんでただって訳には……」
「……わかった」
焼きたての魚を目の前にしながら、それを諦める羽目になる。苦い思いを抱えつつ、店を後にするしかなかった。握りしめた金貨が、妙に重く感じられる。
大通りを抜け、人気の少ない場所を探すように歩く。何度か別の店を試したが、結果は同じだった。皆そろって怪訝そうな顔をして「こんなの見たことねぇ」「うちじゃ釣りなんか出せねぇ」と、俺を追い返すのだ。
「くそ……これじゃ腹も満たせない。人の財布を当てにしたのが間違いだったか」
呟いてもやはり答えてくれる人などいない。行き交う人混みを避けて細い路地に入り、建物の壁に寄りかかった。釣り銭が出ないほど高価な金貨。それって一体どんな代物なのか。
金貨を取り出し、指先でくるくると回してみる。軽く弾いてみると、硬貨特有の澄んだ音が響いた。
「これからどうしよう……」
木箱が積まれたまま放置されている片隅に腰を下ろし、頭を抱える。
これからのこと、過去のこと。色々なことを考えるが頭がずきりと痛むだけ。“あの女”……漆黒の髪と冷たい瞳だけが妙に鮮明だ。まるで隙あらば首筋を冷ややかに撫でてくるような悪寒が消えない。
そうして蹲るように考え込んでいると、路地の入口から声がした。
「はあっ、どこもかしこも磯臭くてかなわんな。息が詰まりそうだ……」
「ここらじゃこれが当たり前っスからねぇ。温室育ちのガルドリスさんには、ちょっとキツいかもしれないっス」
聞こえてきたのは男と女のやり取りらしい。どこか厳格だが品の良さそうな声と、軽薄そうな返事。そっと視線を向けると、銀糸で飾りの入った外套を羽織った初老の男と、その傍らで腕を頭の後ろに組む、軽そうな身なりの女が歩いてきた。
「こんな辺境で黒魔女探しよりも、帝都でぶらぶらしてる方が楽っスよねー」
「違う、私にはもっと……お前も少しは真面目にやれ!」
黒魔女に帝都?何か大事そうな話をしているようだが、俺には聞き覚えのない単語ばかりだ。気配に気づいたのか、初老の男が鋭い目でこちらを睨む。
「そこの小僧……なにを見ている」
「えっ、いや——」
言いかけた瞬間、男の視線が俺の手の中に向けられた。しまった。いつの間にか、俺は握りしめた金貨を指で弾いて遊んでいたらしい。
「おい、その手に持っているものは何だ?」
「これ?いや、その……」
思わず言い淀みながら、隠すように懐に押し込む。だが、男の手が素早く伸びて、俺の手首を押さえ込んだ。横にいる女も、こちらへ身体を傾けて興味深そうに覗き込んだ。
「痛っ……なんだよ、離せって!」
俺の抗議を無視し、手首を強引に捻り上げ、握っていた金貨を露わにする。視線がその金貨に向けられた瞬間、隣の女が声を上げた。
「ちょっ、帝国金貨じゃないっスか!」
隣の女が驚きの声をあげる。彼女の名はリックスと言ったか。軽い身のこなしで俺の手にある金貨を覗き込み、目を丸くした。一方、初老の男——ガルドリスはさらに顔を険しくして、金貨を凝視する。
「やはりそうか……」
「少年、どうしてこんな物を?拾ったっスか?それとも盗んだっスか?」
「ど、どこで……って……」
たしかに“あの女”の懐から拝借はしたが、彼女が何者なのか、そしてこの金貨の正体もまったく知らない。曖昧な状態では、何を話しても怪しまれるのは目に見えている。
答えに詰まり、視線を彷徨わせるていると、ガルドリスの目がさらに鋭さを増す。
「いや、重要なのはこの金貨が“誰のものだったのか”だ。出所を知る必要がある」
そう言いながら、腕を捻り上げられ、たまらず悲鳴が上がる。
「答えろ。どこで手に入れた?」
「痛い痛いっ!」
あの女の名前を出すべきなのか、それとも適当な嘘をつくべきか。口を開けば開くほど自分の立場が悪くなりそうで、声がうまく出なかった。
「まぁまぁ、ガルドリスさん、そんなカリカリしないで。まだ子供じゃないッスか」
軽い口調で宥めるように言ったのはリックスだ。とはいえ、その唇にはどこか楽しげな笑みが浮かんでいる。まるで“尋問”という状況を、娯楽のように捉えているようだった。
「口を挟むな、リックス!この辺りで目撃情報はあるんだ、繋がってるに決まってるだろう!」
聞く耳を持たないガルドリスに顔を近づけてそっと耳打ちをする。
「ここは人目があるっス。目立つのは避けた方がいいんじゃないっスか?」
「むっ……」
知らぬうちに、周囲に集まり始めた人々の視線に気づき、ガルドリスは少しばかり手を緩めた。その瞬間——
「なっ、おい待てっ!」
俺は痛みをこらえつつ、全力で腕を振りほどいた。金貨を掴んだまま、すぐさま路地の奥へと駆け出す。
「ガルドリスさん、逃げたっス!」
「言われなくてもわかっている!」
怒声が背後から響いたが、振り返る余裕はない。周囲に集まっていた野次馬たちも驚いたように声を上げるが、考えている暇などなかった。とにかくこの場を離れないと、もっと厄介なことになる。その危機感が足を突き動かす。
「おい、小僧!逃げ切れると思っているのか!」
「どこまで追いかけてくるんだよ……!」
狭い路地を曲がり、さらに奥へと進む。複雑な道が続くこの場所で、いい加減に逃げても、いずれ袋小路に追い詰められる気がしてならない。
「うぇっ!?」
手当たり次第に角を曲がると、目の前に現れたのは道を塞ぐ荷車だった。積み上げられた木箱には魚が詰まっており、生臭い匂いが鼻を突く。
「もうっ……!」
立ち止まる余裕もなく、全力でジャンプして箱を乗り越えようとする。勢いよく木箱の上を蹴り、反対側へ飛び越えようとした瞬間——
「追えっ、『結晶狼撃』!」
背後から響く、何かを命ずるような掛け声に、つい振り返ってしまう。視界の端に映ったのは、青白い結晶で形取られた狼のような姿。
「なっ!?」
その狼が一度だけ、後ろ足で強く地面を蹴ると、空を切るような風切音と共に足元の荷車に直撃する。閃光が辺りを染め、結晶が砕けるような炸裂音が耳を貫いた。生魚や木片が宙を舞い、俺は吹き飛ばされるように箱から転がり落ちる。
「痛って……なんだ今の!」
呻めきながら、耳鳴りを振り払うように頭を振る。振り返ると、荷車の残骸がまだ青白い光を帯びてじんわりと焦げていた。その向こう側から、ゆっくりと足音が近づいて来る。
「逃すなよ、リックス」
杖を握ったままのガルドリスが、冷徹な視線でこちらを睨む。呼ばれたリックスは片手を挙げ、ひょうきんな調子で応じた。
「ういっス。いでよ、便利な触手ちゃん!」
リックスが路地の壁へと掌を当てると、そこから黒々とした液体が染み出し始めた。見る間にそれは蠢く無数の触手を形づくり、まるで生き物のようにうねり始める。
「な、なんだよ……」
呆然とその光景を見ている間に、触手はにゅるにゅると伸び、外套の隙間から腕を掴む。冷たく湿った感触が肌を這いまわり、激しい嫌悪感が湧き上がった。
「うわっ、気持ち悪い、やめろって!」
必死に手で振り払おうとするが、触手は容赦なく腕や胴を巻き込み、あっという間に壁へと押し付ける。苦しさで声にならない悲鳴が喉に絡んだ。
「ぐっ、くそっ、離せ……!」
「相変わらず、便利でかわいい触手ちゃん!」
リックスは楽しそうに笑い、指先を巧みに動かして触手の動きを自在に操る。一方、ガルドリスはそれを見て小さく鼻を鳴らした。
「相変わらず、気色の悪い魔術だ」
「そんな、こんなにかわいいのに!ふふ、少年はどう?感想を聞かせてほしいっス!」
リックスがわざとらしく肩をすくめる。俺の方はというと、全身を縛り付ける触手の不快感に耐えるだけで精一杯だった。まともに返事などできるはずもない。
「貴様が持っていたのは帝国金貨……この辺りじゃ滅多に出ない代物だ。なぜそんな物をお前が持っている?」
「そ、それは……」
しぼり出すように声を出すが、その先が続かない。まさか盗んだなんて正直に言っても、事態が良くなるとは思えない。
「リックス、もっと締め上げろ」
「はーいっス!」
軽い調子で返事をするリックスだが、その手をかざすと、応じるように触手がさらに強く身体を締め付ける。
「ぐっ……うぅ……」
視界が徐々に暗くなる中、空気を求めて無意識のうちに首筋を押さえた。
そのときだった——
金色の光が首輪のように浮かび上がり、眩い輝きを放ち始める。
金色の光はやがて鎖の形を成し、封じられていた力が解き放たれたかのように眩しく輝き始めた。その輝きのあまりの強さに、思わず手で目を覆いかけると、傍らでリックスが声を上げる。
「離れるっス!」
「ぐわっ!」
同時に、リックスは咄嗟にガルドリスの襟元を掴み、ぐいっと引き戻した。その瞬間、鎖がまるで意思を持つかのようにしなる。しなりを上げた鎖は、鞭のように黒い触手を一閃した。
切り裂かれた触手は黒い煙のように霧散していく。身体を締め付けていた圧迫感は、嘘のように消え失せた。
「またあの鎖だ……!」
肩で息をしながら、自分の首元から伸びる鎖へと目を向ける。すると、鎖は唐突に震え始めた。そのまま、まるで見えない何かに引かれるように空へと伸びる。
「な、なんだよこれ……!」
鎖の動きに驚きながら、どうにか手で押さえつけようと試みる。しかし、その反発力は想像以上だった。掴もうとした指先をあっさりすり抜けると、さらに高く伸びていく。そして——
「うわっ!」
次の瞬間、鎖は俺の身体をふわりと引き上げた。足元の石畳がみるみる遠ざかり、重力から解き放たれたように宙へ浮く。背後ではガルドリスとリックスの焦った声が小さく聞こえた。
「ガルドリスさん! なんスか、アレっ!」
「知らん! とにかく追えっ!」
彼らの困惑した様子が視界の端に映るが、こちらは落ちないようにするのが精一杯だ。鎖はまるで滑るように空中を進む。
必死にもがき、身を捩って抵抗するが、まるで制御が効かない。高所を恐れる余裕すらなく、ただ風の音が耳を劈く。
「ちょっ、高い高いっ! 止まれってば!」
自分で叫んだ言葉も空しく、鎖の力は緩むことを知らない。まるで異国の街を俯瞰する鳥になったかのように、見慣れない風景が広がっていた。
「どこへ連れて行く気なんだ……?」
疑問を呟いても鎖は当然答えなどくれない。しばらくの間、恐怖と混乱に翻弄されながら空中を滑るように飛び続けたあと、ようやく勢いが衰え始め、地上へ下りていく。
どうやら、そこまで遠くに運ぶつもりはなかったようだ。街外れの広場にゆっくり降ろされると、そのまま鎖の導きで数歩ほど地面を引きずられ、ぽたりと止まった。
「あっ……」
顔を上げれば、そこには冷たい眼差しがこちらを見下ろしている。心臓が嫌な鼓動を打ち、息を呑んだ。肩口までの黒髪を風にたなびかせた、一人の少女。
見覚えがある。昨日、どうしようもなく支配された、あの“女”。
「お出かけ、楽しかった?……ノア?」
女——アリシアは冷ややかな笑みを浮かべ、まるで全て想定通りとでも思っていそうな様子で俺を見下ろしていた。
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