第二話

 気がつくと、俺は薄暗い部屋の床に横たわっていた。古い木材と磯の香りがほのかに鼻につく、どこか陰気な部屋だった。


 窓から差し込む月光が、古びた木製の机に影を落としている。机には年代物の雰囲気のある革鞄が掛かっていて、使い込まれてはいるもののしっかり手入れはされているようだ。


「ここは……」

「あら、目が覚めたのね」


 小さく呟くと、部屋の隅から冷ややかな声が返ってきた。浜辺で出会ったあの少女だ。ちょうどどこかから戻ったようで、両手で銀色の盆を抱えて立っていた。


 ゆっくりと身を起こす。身体は思ったより軽いが、頭の中はまだぼんやりとしていた。


「あんたが助けてくれたのか?」

「……そう。あの浜辺近くの町よ。ここは宿屋ね。それと、あんた、なんて呼んじゃダメ。私にはアリシアという名前があるの」


 アリシアと名乗った彼女は、少し高圧的に座ったままの俺を見つめている。


 指示するような言い方は気になるが、一応は命の恩人みたいだ。


「……うん。ありがとう、アリシア」


 そう言うと、彼女は満足そうに小さく頷き、手元の盆から料理を取り上げて差し出してきた。


「ほら、お腹空いてるでしょう。口を開けて?」

「んぁっ……んっ?」


 不意に口が勝手に開いた。閉じようとするが、顎が動かない。そのままアリシアはスプーンを突き出し、何かを俺の口に押し込んだ。


「んがっ……あっ?」


 塩気の強い味が口中に広がり、涎が出る。だがそれどころではない、口が閉じられない。舌の上にその何かを乗せたまま、涎が溢れないよう少し上を向きじっと固まる。


「あぁ、難しいわね……食べなさい」


 その一言で、口が再び勝手に動き出す。何かを咀嚼し飲み込み始めた。異様な感覚と、口にしたことのない刺激的な味に混乱する。


「んぐっ……な、なんなんだ?」

「魚を輪切りにして煮込んだ、この町の伝統料理よ」


 アリシアは淡々と答えるが、そんなことを聞いている訳じゃない。


「違う体が……なんかおかしくて……」

「何がおかしいの? 傷も癒えてるはずだけど……」


 彼女は軽く溜息をつき、肩をすくめた。


 たしかに。言われてみれば、あれほど疼いていたはずの痛みがどこにもない。胸を押さえてみるが、鈍痛さえ感じない。


 俺は目の前のアリシアに問いかける。


「……っ、お前がやったのか?」

「口の悪い子ね……『私のことはアリシアと呼びなさい』」


 疑念をよそに、アリシアは冷ややかな表情で俺を見下ろし、淡々と答えた。


「あのとき使ったのは従属魔法のひとつよ。貴方の命を救うことを引き換えにした、とても強力なもの。だから傷も癒したし、こうやって食事もあげてるの」


 聞きながら、次々と運ばれる食べ物を飲み込む。


「ふふっ、小鳥みたい……」


 アリシアは口元に小さく笑みを浮かべる。確かに、まるで餌を与えられる雛鳥のようで、屈辱的だった。


「んぐっ。待て、従属魔法?ってことは……っ、アリシアは魔法が使えるのか?」


 身体も自由に動かせないし『あんた』と呼ぼうとしても声が出ない。これが『魔法』ってやつなのか。


「まぁ……それなりに。でも、魔法使いがそんなに珍しい? そう、貴方どこから来て、どうしてあんなところで倒れていたの?」

「それは……あれ……?」


 なにか重大な理由があった気がする。だが、記憶に霞がかかったかのように思い出せない。記憶を辿り、思い出そうとすると急にそこから引き戻されるような。


 俺はどこから、なぜここに来たかったんだろう。


「あれ、俺は……なんで……」


 アリシアは俺が黙り込むのを見ると、どこか不思議そうに微笑んで言った。


「言いたくないのなら聞かないわ……さて、今日はもう遅いし、私は寝るわ。重たい魔法をいくつも使ったから少し疲れちゃった……」

「どうして俺を助けたんだ?」

「ふぁ……面白そうだったから。それに、ちょうど従者というか、遊び相手が欲しかったのよ」

「なんだそれ……あっ、おい待て寝るなっ」


 俺が食い下がろうとした瞬間、アリシアは静かに指示を出す。


「今日は床で悪いけれど、朝まで静かに寝てなさい」

「……ん、ぐっ……」


 その言葉が耳に届いた瞬間、身体から力が抜け、思わずその場に倒れ込んだ。冷たい床が頬に触れるが、どうにもならない。


 かろうじて眼球だけを動かして見上げる。横になったアリシアが布団を抱きしめ、眠りにつこうとしているのが見えた。声も出せずにただ睨みつける。


「おやすみ、ノア」


 その言葉を皮切りに、瞼が重く閉じていき意識が遠のいていく。


 逃れられない支配の中で、屈辱と不安を抱えたまま、眠りへと沈んでいった。

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