ただの器

星野道雄

前編

    KAC2023お題⑤『筋肉』

 

       「ただの器」

 

          ◯

 景虎は照りつける日差しに目を細めた。今日は五月の半ばほどに暖かくなるらしい。

 歩いているとじんわりと汗ばんでくる。既に、着てきたはずの黒いスーツジャケットは脱いで腕にかけていた。

 

 今日はこれから街の教会に行く予定だ。その教会は、駅から少し離れた住宅地にひっそりと建てられていて街の人間でもその存在を知らない者が多い。だが、そんな人知れない教会にわざわざ足を運ぶ、景虎という男は別に信徒ではない。ただその教会の牧師と友人なだけだ。たまに仕事の話や、人生の助言をもらいに行く。今日もそれが目的だった。

 

 

 神父は施設内の庭でベンチに座り桜の木を眺めていた。特に何をしているでもない。脇に箒と塵取りが立てかけてあったので枯れ葉や花びらを掃除していたのかもしれない。景虎は声をかけた。神父も景虎に気づいたようだ。

 

「よう、元気そうだな」

 

「ええ、貴方も。今日はまた話を聞かせにきてくださったのですか?」

 

景虎は「いや」と答え、神父の隣に腰掛けた。ベンチに座ると桜の木を見上げる事ができる。それは立派な姿であった。

 

「実は今の仕事で“作家先生崩れ”みたいな奴に小説のネタを出してくれと依頼されているんだ。あんた何か面白い話もってないかな、と思ってさ」

 

「なるほど、それはそれは。しかし小説のネタ作りですか。そうですねえ──……」


 神父は目を細めて桜と、そのさらに上にある青空を眺めた。そして、その穏やかな声でゆっくりと語り出す。

 

「景虎さん、『筋肉』とは何だと思いますか?」

 

「身体の一部だろ、鍛えれば強くなる。使わなきゃ衰える」

 

「私もその点は同感です。では『精神』とは?」

 

「心だ。──なんだ、やけに哲学っぽい話だな」


景虎が眉間に皺を寄せ嫌そうな顔をすると神父は笑った。

 

「そんな立派なものではありません。筋肉とは身体。鍛えれば強くなる。しかし鍛えても強くならず、衰える一方だとしたら……身体というものは邪魔ものになってしまうのではないか。

 これは、私の知り合いの殺し屋の話です──……。」

 

          ◯

 昔、キラ松本と呼ばれる殺し屋がいた。彼は日本人だがドイツ人の祖父をもち、日本とドイツを行き来しながら依頼された「仕事」をこなす毎日を送っていた。

 彼はありとあらゆる殺しの技を持ち、材料さえあれば武器も道具も全て自作できる程に賢く、また器用だった。

 

 その筋では「キラ松本が出たら退け」と言われるほどの一流の殺し屋。何人も刺し殺し、何人も撃ち殺し、何人もの顔を覚えては忘れた。

 

 

 だが、そんな彼もついにしくじった。

 その時のキラは一年契約で大金を積まれ、ある大型マフィアのお抱えとして活動していた。だが、キラはそこのボスの娘と関係をもってしまう。

 

 ボスは怒り狂い、キラを殺すように自分の娘に命じた。奴の飲み物に毒を混ぜろと。娘は、従わなかった。彼女は自分の飲み物に毒を混ぜたのだ。

 彼女は言った。

 

「先に行くわ。貴方も毒を飲んで、後を追ってきて。愛しているわ私の人。父には勝てない。だから一緒に逃げましょう、追ってこれないところまで」


彼女はキラの目の前で毒を飲んで死んだ。そして、キラの目の前には毒の混ざった水入りのグラスと、ぴくりとも動かない娘だけが残る。

 

 キラは薬を飲まなかった。

 

 ────。


 マフィアに追われ、傷ついた彼は逃げ隠れ、小さな田舎町に辿り着いた。その町は山々に囲まれた陸の孤島とも言える場所で、まるで外の世界から切り離されているようだった。

 

 彼は身分を隠しただの「マツモト」として振る舞った。旅の途中で事故に巻き込まれて怪我をしてしまった、と。

 町の人々は「マツモト」を受け入れた。

 

          ◯

 彼は、心底自分の生きる世界が嫌になっていた。殺し殺されその人生を終える。あの娘は自分の為に死んだ。なぜだ? 俺が愛しているという、後を追うという、そんな保証もないのに。もう殺し屋は辞めた。キラ松本であることも辞めた。

 

 彼はその町の教会に入る事にしたのだった。殺しも告白すれば赦されると思ったからだ。そして神に赦されれば、きっとこの抱えた胸のざわつきも、自ら背負った罪の意識も、みな救われて消え去るだろうと。

 

「マツモト、子供たちと遊んであげなさい」

 

その教会は身寄りのない子供たちをたくさん引き取っていて、孤児院の役割もしているらしい。責任者である神父の男は薄い白髪の小柄な人物で、いつも笑顔を絶やさず穏やかな雰囲気だった。

 そして、よくマツモトに言うのだった。子供たちと遊んであげなさい、と。


 マツモトは最初嫌だったが、交流を重ねていくうちに少しずつ子供たちとも打ち解け合えるようになった。だが、それでも極力子供たちに触れる事はしなかった。共に過ごしその純粋さを目の当たりにするたびに、自分の汚れた手で触れるべきものでないと感じたからだ。

 

 子供たちは里親として貰い手が見つかる度にその教会から出て行くのだった。そしてまた新たな孤児がやってくる。それは周期的なものの様だった。

 マツモトはその孤児の受け入れと送り出しのサイクルを疑問に思ったが、特に気にはしなかった。別に情が湧いていた訳じゃなく、自分はただここで隠れて生きていければいい。

 教会に入るのは自分の生きているうちの罪を少しでも軽くして死後救われたいが為。それだけの事だからだ。

 

 

 

「貴方にリリを任せたい」

 

 マツモトが教会で暮らしてから半年ほど経った頃だった。神父はある時そう言った。

 

 引き取られた子の中に、リリという車椅子の少女がいた。

 彼女は身体の末端から全身へと少しずつ筋肉が衰えていくという不治の病に侵されていた。その病はじわじわと体を蝕み、いずれ指一本動かせなくなる。そして最後には心臓すら動かせなくなり死に至る。今や足はほぼ動かせず歩く事はできない。身の回りの世話をする人間が必要だった。医者は月に一度の定期検診しかここへやって来ないからだ。

 迷う事もなかった。


「ええ、分かりました」

 

マツモトは了承した。多くの子供たちと交流して罪の意識を大きくするより、一人の子の面倒を見ていたほうが楽だと判断したからだ。


          ◯

 リリは子供たちの中で唯一、一人部屋を持っていた。ベッドと衣装台一つだけの簡素な部屋だ。ベッド脇には車椅子が置かれている。

 彼女はそのベッドに寝かされていた。マツモトが部屋に入ってすぐに目が合う。彼女は警戒心を目に宿したまま言った。

 

「あなた、半年前からここにいる日本人ね」

 

「ああ、マツモトだ。君の世話をする事になった」

 

「“世話”って言うのはやめて。私は自分の事はなんでも出来るわ」

 

「出来ないだろ。君は一人で歩く事も出来ない。だから俺がいる」


 マツモトが言うと、リリは眉間に皺を寄せた。


「気分が悪いわ、出てって」

 

「今日は散歩の予定だと神父から聞いた。君を連れて行く」

 

 マツモトは「嫌」だとか「離して」だとか言って騒ぐリリを抱え、さっさと車椅子に乗せた。

 

 ────。


 今日の外はとても気持ちが良かった。春の日差しと少し冷たい風が爽やかで、自然豊かな緑の町を引き立てていた。

 だが、リリはぶすっとして口をきかない。景色を眺めて不機嫌そうにしている。マツモトとしてはそれで良かった。話をする方が大変だ。そんな状態でリリの乗る車椅子を押して一時間ほど町をぐるりと回った頃だった。

 

「あなた、無口なのね。普通は何か気の利いた事の一つでも言うわ」

 

リリが口を尖らせて言うのでマツモトはため息をついた。

 

「今までの世話人はそうだったのか? 悪いが俺は話をするのが好きじゃないんでね」

 

 神父が言うには、リリが我儘に振る舞うので今まで雇った世話人や介護人はみな辞めてしまったらしい。ならば神父が世話をすれば良いとマツモトは思ったのだが、きっと神父もやりたくないのだろう。みんな厄介者は遠巻きにしたいものだ。

 マツモトが冷たくあしらうが、しかしリリは調子を崩さずに言葉を返した。

 

「私、退屈なの。なんでも良いから面白い話をして」

 

「……話すのは苦手だ。退屈なら君が話せ、それで俺が聞こう。どうだい?」

 

殺し屋だった自分が子供に何を話せると言うんだ。

 マツモトが「聞く」というとリリは満更でもなさそうに「ふうん」と呟いた。

 

「まあ、良いわ。なら話してあげる」

 

 そこからリリは本で読んだ話や見た映画の話をゆっくりと語り出した。マツモトはそれに適当な相槌を打って相手をした。

 これが、マツモトとリリの交流の始まりだった。

 

 

 

 それから毎日、マツモトは車椅子を押してリリを外に連れ出した。彼女は今まで話し相手がいなかったのか、散歩の間は常に話をしていた。本や映画の話、いつか行きたい場所の話。マツモトが唯一持っている故郷の桜の写真を見せてやると、リリはとても喜んだ。

 彼女はいつしかよく笑う少女になっていた。本当はこうだったのかも知れない。いや、こうあるべきだった。マツモトの胸の奥が少し痛んだ。初めての感情だった。

 

 二人で散歩する毎日を過ごし、医者の定期検診の時にはマツモトは必ず側で見守っていた。医者が言うにはあまり病状は良くないらしい。たしかに、以前より身体の動きが鈍くなったと感じていた。前は滑らかに書いていた文字も絵も、少し線が震えるようになっている。

 

 

 その日は、町のはずれにある湖に絵を描きに来ていた。

 リリは鉛筆で湖とほとりの絵を描いていく。上手いのだが手が震えて思うようには線が引けないらしい。少し辛そうにしているリリにマツモトは優しく告げた。

 

「今日はもう帰ろう。少し冷えてきた」


マツモトが言うと、リリは震える右手を抱いて「そうね」と呟いた。

 ────。


 帰り道、町の通りを歩いていると、車椅子のリリを見かけ、男が道の反対側から声をかけてきた。

 

「おい、リリじゃねえか。何してる、戻ってこい! 俺のもとに戻ってこい!」

 

 リリはその声を聞いてどきりと肩を震わせた。

 

「早く行って、マツモト。あいつの事は気にしないで、早く行って」

 

 男は酔っ払いのようだ。リリの事を半狂乱で繰り返し呼んだかと思うと、その場で転けてしまった。なるほど、何となくマツモトにも理解できた。車椅子を少し足速に進めた。

 

          ◯

 リリは元々父と二人でこの町で暮していたらしい。だが、父はある時から酒に溺れ、働かなくなり、リリに暴力を振るうようになった。

 そんな中、近所の住人が虐待を目撃して通報し、警察の捜査が入った。結果リリは保護された。やっと解放されたと思った。だが、そんな時に病気が発覚したのだった。

 

「私は解放されたと思ったわ。でもそれは勘違いだった。私の筋肉は、この身体は、もう生きる事を止めようとしている。心はこんなに生きたいと思っているのに、私はまだまだやりたい事があるのよ」

 

 リリは月明かりに照らされながらベッドの上で寂しそうな目をしていた。ベッドに座るリリの側にはマツモトが立っている。

 

「さっき町で声をかけてきた男が父親か」

 

「そうよ。私は怒鳴られて、殴られてた。だからもう、いっそ死にたいって思ってたの。そしたら神様が言う事を叶えてくれたのかしら。本当に意地が悪いわね」

 

「よせ、神なんかいない」

 

「マツモト、あなた神父になるんでしょ? 信じてないなんて変だわ」

 

「そうじゃない。本当に神がいるならば、なぜ君は歩く事が出来ないんだ。好きな本のページをめくるその僅かな希望さえ奪われようとしている」

 

「あなた、本当は誰なの?」

 

リリの目は月明かりに照らされて光った。マツモトは、その目に捕まるともう隠す事は出来なかった。

 全て、リリに話した。

 今までどれだけの人をこの手にかけたのか。罪のある者も、罪の無い者もいた。その全ての人々と出会い、そして忘れた。そうしなければとても立っていられなかった。

 

 リリは最後まで話を聞くと「そう」とだけ言った。そして、静かに言うのだった。

 

「なら貴方、私を殺せる?」

 

「できない」

 

「どうしてよ」

 

「生きてほしいからだ」

 

「このまま口も動かなくなって、話も出来なくなったらどうしよう。貴方は無口だから私が話さないといけないのに」

 

 リリは優しく微笑んだ。その目には涙が伝った。十四歳の少女とは思えないほど美しく、魅惑的な表情だった。

 マツモトは決意した。彼女を救おうと。ここを連れ出して、日本へ連れて行こう。良い医者もいる。桜も見せてやりたい。殺し屋のキラ松本もいない。病気に侵されたリリもいない。そんな場所に行きたい。ここは牢獄だ。彼女のやりたい事をやらせてあげたい。

 


───後編に続く

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