第32話 芦和良理人 1

 ——ピンポーン。インターホンの音に反応して、兎佳子うかこはいつも出たがる。


「だから、もしも悪いやつだったらどうするんだよ。向こうに行ってろ」


 楼義ろうぎが扉を開けると、そこには理人りじんが居た。


「おお、どうしたんだ?」

「ふらっと立ち寄っただけだよ。兎佳子うかこさん、居る?」

「居るが……」


 楼義ろうぎはただならぬ気配を察していた。


「なんの用だ? 俺が聞いておくぜ?」

「いや、直接話したい。できれば、二人きりで出掛けたいんだ」

「もう4時過ぎじゃあねえか。保護者としてそれはお断りだ」

「彼女のためなんだけどね」

「また今度な」

楼義ろうぎ

「ん?」

「やけに冷たいね。いつもなら、まあ入れって言ってくれるのに」


 二人で押し問答していると、楼義ろうぎの後ろから声が掛かる。


「あれ? リジンだ! おかえりー!」

「ただいま。じゃあお言葉に甘えて」


 上がってこようとする理人りじんを、膝を上げて太ももでブロックした。


兎佳子うかこ! 後ろの窓から逃げろ!」


 楼義ろうぎが怒鳴ると、兎佳子うかこは彼の真剣さを察してなにも言わずに踵を返した。


 ——ガラガラッ!


 と豪快に掃き出し窓が開けられる音がした。


楼義ろうぎ、君がそうだったのか」

「そう言うお前もな」


 葬儀屋の仮面をずらしたときに見えた、二重瞼の垂れ目が変わらずそこに在った。


「機関から伝わって来た情報とは齟齬があるけれど、ある程度の間違いは仕方ないか。それじゃあ」


 理人りじんは扉から手を離し、方向を変える。兎佳子うかこを追いかけに行く気だ。その腕を掴まえる。


「行かせねえよ」

楼義ろうぎ、僕は君が好きだ。たとえ葬儀屋と逆葬儀屋で考え方が違っても、友達であることに変わりはない。そして兎佳子うかこさんも友達だ。僕は、友達として彼女を救わなければいけない」

「俺は灰化葬はいかそうが救いだとは思わねえ」

「言うと思ったよ。でも、僕は行く。離してくれないかな。君を傷付けたくないんだ」

「随分調子こいたこと言うじゃねえか!」

「あのね、楼義ろうぎ


 語気の荒い楼義ろうぎとは逆に理人りじんは落ち着いていた。気まずそうな苦笑いを浮かべて楼義ろうぎに向き直る。


「君は、弱いよ」


 いつものやさしそうな表情はそのままに、垂れた目尻の先にほんのりと殺気を乗せている。なるほど仮面を被っているときはこんな表情をしていたのか、と呑気なことを考えていた。


 不意に掴んでいた腕が持ち上がる。力を込めて押し返そうとするが、びくともしない。そのまま押し上げられ、体勢が崩れそうになったので手を離した。理人りじんの手は固く握られており、顔へ迫ってくる。楼義ろうぎの両手は開いてしまっている。ノーガードだ。

 楼義ろうぎは額でガードするため顔の位置を素早く移動させる。が——


理人りじんの拳が砕けちまう!)


 ギリギリのところで拳を躱し、仰け反るようにして後退した。素手の拳なら、額で受ければ潰せる。だがそれは同時に、親友の指を複雑骨折させると言うことだ。


「いい判断だ。楼義ろうぎ


 口調が、葬儀屋のときのものに変わっていた。声は理人りじんのままで。

 彼の手を見ると、拳が解かれていた。開かれて、指がくの字に曲がっている。顎へのアッパーカットに見せかけた、掌底と目潰しの合わせ技に切り替わっていたのだ。あのまま額で受けようとしていたら、失明していた。理人りじんは、本気で来ている。傷付けたくないというリミッターは、楼義ろうぎが譲らなかったことで外れてしまったようだった。

 だがここは、楼義ろうぎに分のある場所だ。アパートの廊下は狭い。体を大きく動かすような技は使えないうえ、左右へ避けることもままならない。これはボクサーが最も得意とする戦場とも言えた。

 しかし理人りじんは表情一つ変えずに、掌を上に向けてクイクイッと曲げた。

 楼義ろうぎは手の中にボックスを作って、ステップを踏んだ。

 右、左、とウィービングをしながら距離を詰めた。

 じりじりと距離はつまるものの、お互いに攻撃を仕掛けることはない。楼義ろうぎの額には汗が浮かんでいた。

 今まで何度か戦ってわかったのは、良煙寺りょうえんじ流は攻撃の受けに長けていると言うこと。容易にストレートやアッパーカットのような隙を作る攻撃は打てない。楼義ろうぎはとにかくジャブで牽制して、相手の隙を作ることにした。

 左手が空気を切り裂いて理人りじんの頬に迫る。理人りじんが右掌で受ける。すぐに戻して連続でジャブを打つ……つもりだった。が、放たれた左手は帰ってこなかった。ストレートを打つつもりはなかったのに、振り抜いてしまっていた。理人りじんの右手に触れた瞬間、まるで粘着剤にくっついてしまったように左手が離れず持って行かれ、速度を増して勝手にストレートになってしまっていたのである。体勢的には戻そうとしていた形を取っている。そのため、左手だけが投げ出されたような格好だ。

 理人りじん楼義ろうぎの肘に、上から下へと掌底を振り抜いた。鞭のような一撃。


「——があああっ!」


 楼義ろうぎの肘は外れた。本人の意思とは関係なく伸び切ってしまった腕。関節はこれ以上ないほど外れやすい状態にあった。その伸び切った関節に対して理人りじんは容赦がなく正確だった。

 うめき声を漏らしながら壁に寄り掛かった楼義ろうぎに、理人りじんは悲しげな微笑を預ける。


「ごめん楼義ろうぎ。スポーツで武術と戦おうとする君は勇敢だけど、同時に無謀でもあるよ。今だって本当なら君が死ぬまで攻撃することも出来た。でもしない。その代わり、追ってこないでくれ。僕は兎佳子うかこさんを救いたいだけなんだ」


 踵を返して走り去る理人りじんを、楼義ろうぎは追えなかった。


 部屋の中に入り、スマフォを手に取る。もう迷っている暇はなかった。

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