第四話・振り返る(其の一)

 鈴木さんは、部屋の隅にある折りたたみ式の小さなテーブルを手に取った。テーブルを部屋の真ん中に置こうとしているのを手伝おうとすると、

「いいのよ。今日くらいはお客さんの気分で過ごしてほしいから」と、鈴木さんは微笑んだ。

 何もしないと文句を言う人は、ここには居ないんだ。知らないうちに、手が震えていた。私はその手をぎゅっと握りしめる。

「座ってていいのよ。肩の力を抜いて」

 鈴木さんが、テーブルの上に書類を置いた。急須と湯呑みはお盆にのせたまま、置かれている。

「明後日の会のシェルターで知り合った利用者の事はもちろん、シェルターの場所、他言無用でお願いしますよ、っていう書類ね。あと、免許証か何か身分証になるようなもののコピー、とってきてもらえたかしら?」

 免許証のコピーを差し出したあと、いろんな書類に名前を書いた。

「それと、辛いかもしれないけど、パートナーとのこれまでのこと、話してもらえる? 電話である程度、話を聞いているけど、時系列に文書化しておくと、これからどう対応していけば良いか、見えてくるから。私達の会は、DV防止法が施行される前から活動してきたの。この県ではいろんな事例を自治体と協力して、対応してきてる。この町に住民票があろうがなかろうが、全力でサポートするから安心して」

 私は、ありがとうございますと言いながら頭を下げ、記憶を辿ることにした。



 ──風が強くなってきたらしく、鉢が倒れた音が聞こえた。時計の針は、深夜一時を差していた。まだまだ夜は長い。

 あの町に着いて、鈴木さんに私の話をした後、久しぶりに六時間程、眠ったかな。それまで、数時間しか寝られないか全く寝られないかのどちらかだったのに。もう、怯えなくて良いんだと、安心したんだろう。



   ✳  ✳  ✳



 深呼吸した後、私は梶川春哉かじかわはるやとの出来事を話し始めた。


 大学時代のバイト先の先輩が、はるや。知り合った当時は、いくつかバイトをかけもちしていて、どの職場も社員の打診が来るほど、デキる人という印象だった。

 付き合うようになったのは、私が大学三年の時。両親の離婚問題で、落ち込んでいるのを見かねた春哉が、気分転換で遊びに連れ出してくれるようになった。春哉は、バイト先の社員になってから、私に告白してきた。定職に就かないと、気持ちに説得力がなくなるから、だとか。

 それからは、春哉が一人暮らししていたアパートでほとんど一緒に居るようになる。

 大学四年の春、私が父親側についていくことを告げると、母親は出て行った。両親は家庭内別居状態だったから、どちらについていくというより、実家に残る側についたという形だったのが本音。そうなってから、父親は小言が多くなり、私は春哉と同棲することにした。父から逃げたかったのだと思う。

 家事が完璧な晴哉は、私が卒論と就活に専念できるようにしてくれていた。その頃の晴哉は、優しい印象しかない。一緒にいるのが楽しかった。ずっと一緒に居たい人だと、心からそう思っていた。

 内定通知が来て安心してから、卒論と残りの単位とバイト、残りの学生生活を楽しもうとしていた矢先、春哉は変わった。


「大学の友達、バイト先の仲間、誰と会うにも、春哉の許可が必要になりました。それがイヤで別れようと話をしたら、泣きながら謝るんです。束縛しないから、別れないでくれって。私は実家に帰りたくなかったので、別れるのをやめました。それから許可を取ろうとしなくなって、安心していたんです。卒業旅行の話が出た時、初めてお腹を蹴られました」

 鈴木さんはそこで、ボールペンを持つ手を止めた。私の呼吸が酷く乱れ始めたからだった。

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