第9話 ルイーズの大好物
四章 ちびっこ聖女と二度目の旅立ち
「行く。ルゥ、魔界行きたい」
久方ぶりにしっかりとした朝食を摂っている最中。
再会したばかりの父から投げかけられた「魔界へ共に行くか」という問いに、ルイーズは食いつくように答えていた。悩む間もなく、ほぼ反射的だった。
「即答だな」
「だって、パパ行っちゃうんでしょ? ルゥも一緒がいいよ」
「そうか。ならばそうしよう」
もちろんルイーズにとって、このルエアーラ幽谷にある我が家は大事な場所だ。
物心ついた頃にはすでにここにいたのだ。たった五年、されど五年。母とディオンに愛されて過ごし、かけがえのない思い出がたくさん残っている。
けれども、グウェナエルの封印を解くためにルエアーラ幽谷を出ると決意したそのときから、ルイーズのなかでひとつの区切りはついていた。
なにせ、もう二度と戻らない──否、戻れないと思っていたから。
「しかし、危険はないのか? 魔界とは悪魔の棲む地だろう」
ルエアーラ産の花々から抽出した特製のハーブティーを注ぎながら、ベアトリスが心配そうに口を開いた。
「危険がないとは言いませんが、少なくとも人里に降りるよりは魔界に渡った方が安全かと。無論、グウェンさまの存在ありきですけどね」
しれっと答えたディオンに、グウェナエルは苦笑しながら肩を竦める。
「ま、対悪魔戦ならば俺としても対処はしやすいからな。人相手でなければいくらでもやりようはあるし、そもそも魔界は全土、俺の庭のようなものだ」
「……人ではダメだと?」
疑問符を浮かべるベアトリスに対し、グウェナエルは胡乱気なため息を返した。
「人と悪魔の間には、古より数多もの掟が定められているだろう」
「教会が取り仕切っているアレですか」
「ああ。人界と魔界の天秤が平衡に保たれるよう互いの世界への干渉は許さぬ、とかな。人と悪魔が結ばれてはならぬというのも、掟により定められたものだ」
ルイーズは、以前母から教えられた〝約束事〟について思い出した。
人と悪魔の間に交わされている掟。これは双方における〝絶対〟であり、対立する二つの世界を繋ぎ、そして切り離すための楔なのだという。
反故にした場合、破った者にはさまざまな制裁が待っているそうだ。
(……そうだ。ママとパパは、掟に背いたから引き裂かれちゃったんだよね)
掟とは、長い年月をかけて作り上げてきた世界の秩序そのもの。
ゆえに、これらが破綻しないよう掟の違反者に罰を執行する者たちがいる。
それがふたつの世界の狭間に作られた〝リグアーナ教会〟だ。
人と悪魔のそれぞれが所属しており、世界の均衡を保つための中枢機関として機能している組織──とはいうが、その実態は謎めいているという。
「前にね、ママが言ってたよ。悪魔は人よりつよつよだけど、立場だけは弱いんだって。掟は〝弱きモノ〟の人間のために作られてるからって」
「また小難しいことを教えるな、ミラベルは」
「でも、ルゥはね。それって、ちょっとずるいなって思ったの」
ルイーズはちゃんと理解していた。
理解できてしまったからこそ、不平等極まりない約束事に違和感を覚えた。
「だって、約束って。どっちもおんなじことを守るから、約束なのに」
「そうですね、姫さま。ディーもそう思います」
うんうんとなぜか誇らしげに頷く従者を横目に、ルイーズは続ける。
「掟ってよくわかんないよ。パパ」
「……そうだな。実際、水面下ながら長いこと問題視されてきたことではある」
グウェナエルはどこか答えあぐねたように言葉を濁す。ルイーズ相手にどこまで話すか悩んでいるのか、食事をやめて眉間を指先で揉みほぐし始めた。
「しかしまあ、この〝教会〟がある限りは変わらないだろうな」
「どして?」
「アレの実態は、俺にすらわからんが。……大魔王を封印する術を持ち合わせている時点で、まあお察しだ。掟には人も悪魔も容易に逆らえん」
(たしかに……大魔王が封印されちゃうって、改めて考えるとすごいことかも)
大聖女ミラベルと大魔王グウェナエルの掟破りは、前代未聞。
それこそ、世界をひっくり返すような異例の事態だったと聞いた。
一般の民ですら許されないのに、よりにもよって人を導く立場である者たちの掟破りだ。それぞれの世界に激震が走るのも想像は容易い。
「なんにせよ、今後も二つの世界が必要以上に交わることはないはずだ。悪魔が闇に属するのなら、人は光に属するモノ。表と裏は普通、相容れない」
「でも、パパとママは……」
「……ああ。いやなに、俺とミラベルは少し特殊だっただけさ」
珈琲を啜りながら苦々しい顔をする父の様子を、ルイーズはじっと見つめた。
(普通は交わらないし、相容れないはずの相手を好きになっちゃったんだ)
前世の記憶を頼りに、難しい大人の言葉を理解することはできる。だが、感情はちがった。言葉にできないことを正しく読み取るのは、とても気を遣う。
(人の、ママ。悪魔の、パパ。……ルゥは、そんな光と闇の両方を持ってる?)
こちらでの小麦粉、マクトラスの粉で作られたディオン特製〝スペシャルミニパンケーキ〟をもぐもぐしながら、ルイーズは小さな頭を回転させる。
(でも、ルゥは聖光力しか使えないよね。ディーとかパパみたいな闇魔法って、練習したらできるようになるのかな?)
糖分が欲しくて、ほぼ無意識に手を伸ばす。
掴んだのは、シードル花蜜が入った瓶だ。ちなみにシードル花蜜は、ハチミツほど甘さがしつこくなく、メープルシロップよりは癖がない。
シードルはルエアーラ幽谷に大量に咲いているため、我が家では常時ストック品ナンバーワン。とにかくなにと合わせても絶妙に合う、優秀甘味調味料なのだ。
(それとも、パパが言ってたみたいに人寄りだから使えない、とか)
瓶をひっくり返して、両手でぎゅぎゅっと圧迫する。
花蜜がパンケーキの表面をまんべんなく覆い、とうとう皿の方まで流れ出したところで、ベアトリスが「る、ルイーズさま!?」と慌てて立ち上がった。
「さすがにかけすぎでは!? そんなに糖分を摂取したら、身体に悪いです!」
「……? ルゥ、太らないもん。だいじょぶ」
「そういうことではなく!」
ルイーズは極めて華奢な体躯だった。
おそらく同世代よりもひと回りほど小柄だし、手足も頼りなく細い。食べる量は普通どころかむしろ多いくらいなのだが、とにかく肉がつかないのだ。
代謝がいいのか、あるいは他の要因か。
なんにせよ、こうして止められたのは初めてのこと。
「いくらルイーズさまが悪魔の血を引いているとはいえ、人の身体を持っているのです。この成長期まっただなか、栄養面をしっかり考えて健康的な食事を摂らなければ、将来お身体に支障が出てしまうやもしれません」
「……うー」
「ベアトリス。それは姫さまの大好物ですし、もう少しくらい……」
ルイーズが頬を膨らませて俯くと、慌てたようにディオンが仲裁に入ろうとする。
だが、ベアトリスは断固として譲らなかった。
「ディオン、保護者の立場であるのならおまえも気をつけろ。いまおまえが甘やかしたことで、数年後、お命に関わる病が発症してしまうかもしれないんだぞ」
「ぐっ……」
「なのでどうか我慢してください、ルイーズさま」
誰も注意してこないし子どもならいっか、と楽観的に考えていたのだけれど、ベアトリスの言うことはもっともだ。
それに。
(病気……)
その言葉を聞くと、どうしても母を思い出して、心の傷がざわめきだす。
「……わかった。じゃあ、これで我慢する」
「姫さま……」
「ディー、これ〝きゃらめりぜ〟して」
「っ、はい。お任せください!」
ルイーズの要望にすぐさま首肯したディオンは、闇魔法で指先に炎を灯した。
弱すぎず強すぎない絶妙な火加減でシードル花蜜の表面を炙っていくと、芳醇な焦げの匂いと共に、カリッとした黄金の膜ができあがる。
「ほう。なんだこれは、見事だな」
やり取りを見守っていたグウェナエルは、初めて目にする光景だったのか、興味深そうに身を乗り出して覗き込んできた。
「きゃらめりぜ、っていうんだよ。表面を溶かして、カリカリにするの」
「姫さま考案なんですよ! 誠に姫さまはすばらしい閃きをお持ちなのです」
絶妙なタイミングでキャラメリゼを終えたディオンは、どこかドヤ顔である。
(パンケーキもキャラメリゼも、前の世界であっただけなんだけど……)
この世界では〝あるもの〟と〝ないもの〟の基準がわからないので、ルイーズは意図せず『閃きの天才』扱いをされて困ってしまう。
とはいえ、グウェナエルが興味を示してくれるのは純粋に嬉しい。
「パパ、食べる?」
フォークに刺した一口パンケーキを目の前に差し出せば、グウェナエルは「いいのか?」と虚を衝かれたように双眸を瞬かせた。
「うん。パパ、あーん」
「あーん、か」
さすがにそれには苦笑しながらも、グウェナエルはキャラメリゼされた贅沢パンケーキに食いついた。カリ、と小さな咀嚼音が響いて、ルイーズはそわそわする。
「どう?」
「……ん、甘いな。だが、わずかな焦げがいい味を出している。食感もさまざまで飽きないし、これは美味い」
「!! でしょでしょ」
予想以上の食レポが返ってきて驚きながらも、ルイーズは破顔した。
そんな娘の様子になにを思ったのか、グウェナエルは額を抑えて天を仰ぐ。
「……いかん。うちの娘がかわいすぎる」
「パパ?」
「いや……冷めないうちに食え。ひと休憩したら、魔界へ飛ぶからな」
小声で紡がれた言葉は聞き取れなかったが、ルイーズは素直に頷いた。
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