知っているのはこの空だけ
維 黎
Please remember me
知っているのはこの空だけだった。ずっと
本当に周りの誰も気付けなかったのだ。あまりにも彼女が普通でいたから。
(――嗚呼、何度目だろう。『冬華』から『中西さん』に戻ってしまったのは)
美しい女性だった。
きめ細やかな肌と艶やかに光を纏う黒髪は、稀有な職人の手による最高級の日本人形を思い起こさせるほどに。
「――中西さん。なんだか嬉しそうだね。美術館……正解だったかな?」
「え? あ、うん、そう。私、絵画とか彫刻が好きなんだ。自分では全くそっち方面の才能はないのだけれど。でも見るのはすっごい好き。だから――ありがとう。柿崎さん」
「どういたしまして。中西さんが喜んでくれたならよかったよ」
少しだけぎこちなさを感じさせる二人の会話。
冬華は悠馬との初デートが故に。
悠馬は冬華との何度目かの初デートが故に。
冬華が美術鑑賞が好きなことは何年も前から知っている。他のことも。
犬よりかは猫派。でも猫舌。
お酒も苦手なのに甘いも物も得意ではない。
夏より冬が好き。
海より山が好き。
蜘蛛が大の苦手。
お寿司が好物。特にエンガワ。
冬華と付き合った過去の経験から知っている。
何度別れることになっても、やっぱり諦めきれなくて。
「――少し早いけど食事にする? それともどこかでお茶してからにしようか?」
悠馬はスマートウォッチで時間を確認する。表示は17:50。
「そうね。お茶しちゃうとご飯食べられなくなっちゃうかもしれないから、少し歩いてどこかのお店に入りましょうか?」
「ん。わかった。何か食べたい物とかある?」
「今日は特にって物はないかも。お任せしちゃって……いい?」
「おっけ。じゃ……」
悠馬はそう言って左肘を曲げて冬華の前に差し出す。
一瞬、躊躇を見せた彼女は、それでも少し恥ずかし気に悠馬の腕を取った。
付き合い初めの時に見せる少女のようなあどけなさは何度見ても心を浮き立たせ、繰り返し繰り返し悠馬を魅了する。
『沼らせ女』
男の気持ちを手玉にとり、海の妖女セイレーンのように魅了という鎖で縛る。男は顧みず、女にハマり溺れていく。
その美貌を以って何人も。何人も。
ハマった途端、知らない他人のように切り捨てて。
彼女がこれまで何人の男性と付き合ってきたのかは知らないが、そのことごとくを知らない赤の他人と言ってフッてきたらしい。
中西冬華は『沼らせ女』よ。
そんな周りの声も聴き知っている。
それでも柿崎悠馬は中西冬華を愛することを止められない。
※ ※ ※
『やめてッ!! なんで? なんでそんなこと言うのよッ! 私はなんともないわ! おかしいところなんてない。そんなことを言う悠馬の方がおかしいのよッ!!』
冬華がそう叫んだのは二回目に付き合った時だっただろうか。それとも三回目か。
デートを重ね、時間を重ねて互いの気持ちを育み合う内に自然と名前で呼び合うようにもなる。口づけを交わすようにもなれる。だけど、一度も身体を重ねたことはない。
悠馬は冬華を抱きたいと強く思う。
それは愛情の表現としても性の欲求としても。だけど叶わない。
『――誰ですか、貴方は?』
『いいかげんにしてくださいッ! 警察を呼びますよッ!』
そんな言葉を浴びせられる。
赤の他人に。知らない男に向けて放つそれ。
初めてフラれたときは訳が分からなかった。突然の豹変に腹が立った。
真意を確かめようと、往来にもかかわず問い詰めると大声で叫ばれたりもした。
悠馬は腹立たしく納得もいかなかったが諦めようとした――けれど彼女を忘れることが出来ず。
冬華が悠馬のことを知らない振りをするならそれに合わせて初めから付き合う振りをした。
そしてまた初めて会う他人のようにフラれる。
悠馬を知らない――覚えていないかのように。
『本当に覚えてないのか? 俺達ずっと付き合ってきたんだぜ? それなのに何度も突然、知らない、知らないって――なぁ、冬華。一度病院へ行ってみようぜ』
あまりに異質。悠馬のことだけ覚えていない。
記憶喪失。
そんな言葉が浮かんだ悠馬はネットで調べてみた。
”精神的なトラウマによって引き起こされる、一時的な記憶喪失の状態”
小説やドラマの中だけでなく実際にそんな症例があるという。
過去に辛い経験などをした時、自衛本能的にある特定の記憶を消去、あるいは忘却してしまう。
彼女の過去に何かがあったのかもしれない。しかし悠馬はそれを知らない。冬華は昔のことを話したがらないから。
病院に行ってみようと薦めても拒絶される。
そもそも冬華本人に記憶喪失の自覚はない。まして、悠馬以外の記憶は全く問題なく覚えているのだから尚更難しい。
言葉も道具の使い方も時勢など世の中のことも記憶している。誰も彼女が”変”だとは気づかない。知らない。
だから彼女は怒る。自分はおかしくない。記憶喪失などではない――と。
逆にそんなことを言う悠馬の方こそおかしいと批難する。
怒った冬華はしばらく悠馬との距離を取ったりもした。最終的には悠馬がもう病院へ行くようには言わないと謝って仲直りをしたが。
この時は怒って距離を取っただけで忘れたわけではない。
(――何でだ? 何で俺のことだけ急に忘れちまうんだよ。一体、
※ ※ ※
カラン、カランとイタリアンレストランのドアを開けると思いの外、寒さが二人の身を包む。
「――寒ッ!?」
思わず声に出した悠馬の腕を抱えるように冬華が自分の腕を絡ませてくる。
「こうすれば、ほら――温かい?」
薄っすらと桜色に染めるその頬は、寒さのせいか照れくささからか。
「うん」
どちらにせよ可愛らしくて温かい。
じんわりと心が。
変らぬ――否。ますます愛おしくなる冬華への想い。恋ではなく愛。
悠馬は思う。
冬華は――彼女は自分への想いはまだ好意なのだろう、と。
このままゆっくりと時間をかけてそれは恋へと変わる。でもそれは愛にはならない。なれない。
忘れてしまう。忘れられてしまう。
(胸が張り裂けそうだ。大声で叫びたくなる。どこかに閉じ込めて力づくで抱きしめたくなる。どうか――どうか忘れないで欲しい)
悠馬は切に願う。
でもそれは今は叶わぬ願い。
彼女は――冬華はきっと悠馬を
誰も知らない。
悠馬も。
冬華自身でさえ。
中西冬華は愛する人を失う恐怖から逃れる為、愛した人を忘れてしまうのだと。
今はまだ――
知っているのはこの空だけ。
――了――
知っているのはこの空だけ 維 黎 @yuirei
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