薬師・熊一紅《ユウ・イーホン》の西国知見行

小石原淳

エピソードの1:地方の空気も美味しくはない

第1話 旅の理由

 日はとっぷりと暮れ、夜空を星が埋め始めていた。

 そして細い細い月が、遠慮がちに浮かぶ。それこそ研ぎすぎた半月刀を思わせる細さだった。黄色や白ではなく、青みがかって見えた。

「船旅を選ばず、陸路を行くと決めたのは、そういうわけだったんですね」

 リュウ・ナーは、師匠であるユウ・イーホンに尊敬の眼差しを送った。

「頼まれたからには応えないとね」

 イーホンは白い歯を覗かせて返事したあと、匙で汁物をすすった。

 宿に隣接する食堂で卓を囲み、四人で舌鼓を打つ。この街を出ると、しばらくは野山を行き、野宿が続くだろう。食事も質素になって行くに違いないので、今晩ぐらいは奮発してよい店で好きな物を注文した。

「尤も、頼まれたのは半分で、残りの半分は自分自身のためでもあるのだけれど。西域に向かう道すがらでないとなかなか見付からない草花や種があるから、この好機を逃す手はないわ。――そのせいでご苦労を掛けます、ケイフウさん」

 イーホンが右隣から正面へと視線を移した。その席に座るスィン・ケイフウは一瞬きょとんとした目付きをしてから、口元を拭う。

「別に自分は何とも。仕事をもらえてありがたいくらいですよ」

「でも、仮に船で行くことになっても、あなたの同行は必要になった可能性が高いと思う。もしや、ホァユウにうまく言いくるめられたのでは?」

 兄の名前が飛び出て、リュウ・ナーは眉間にしわを寄せた。が、すぐにしわを解いた。若い彼女だが、この癖を早い内に直さないと、将来険のある顔つきになってしまうよと周りから言われて気にしている。

「どうなんです、ケイフウさん? ほんとに兄が嘘八百を並べて……?」

「はは、そんなことは断じてない」

 食べるのを再開しようとしていたケイフウは、また箸を止めて答えた。

「俺の方から志願したようなもんだから、ナーもズールイも気に病む必要はない」

「よかった」

「ナーは分かるけど、どうして僕まで」

 イーホンの左隣の椅子に収まるマー・ズールイが、まだあどけなさの残る瞳をケイフウへ向けた。

「リュウ・ホァユウは君の師匠だろ。師匠の不始末は弟子の不始末とは思わないか?」

「普通、逆でしょ」

「細かいことは気にするな。――もう水が空だ」

 竹製の器を逆さにするケイフウ。重要な使命を帯びての旅路を前に、酒は慎んでいる。その分、喉を潤すためにいつもより早い調子で飲んでしまったらしい。

「だめ元で聞いてみますか。――おーい、水のお代わりはいくらになる?」

 懸念する枕詞には理由がある。今年は雨があまり降らず、水不足の気が強まっていると出発前から噂に聞いていた。この街に入ってからは、いよいよ現実味を帯びており、途中で見掛けた茶屋でも、お茶一杯が通常の倍の値付けとなっていた。

「あいすみません、お客様。飲み物はお一人一杯までとさせていただいております」

 奥から出て来た店主の妻と思しき女性が、手を重ねて頭を下げてきた。

「どんなに払っても無理?」

「はい……申し訳ございません」

「いや、いいんだ。参考までに聞きたいんだが、今の季節の天候はどうなるか分かるかな。この先、旅をするとしたらどの程度で荒原を抜けて、次の街に着けるか、把握しておきたいんだ」

「さあ、一介の料理屋ですので、お天気のこととなると確かな話は何とも。ただ、今年がいつもよりも厳しいのは確実です。それに、西はここよりもさらに乾いているのもまた確かでしょう」

 夜の時間帯の割に店が空いているせいか、話に乗ってきたおかみさん。

「ほう、何故そう思うんだい?」

「もうひと月になりましょうか、竜の石を探しに行くとかで、えらい学者先生とお医者様の二人が、例年通りの装備で出掛けて行かれましたが、約束した期日になっても宿に戻りませんでした。捜索の一団が出たんですけど、三日探して見付からず、戻って来た有様で」

「じゃあ今も行方不明のままか」

「はい。お客様方も行かれるのなら、充分にお気を付けて」

「ん、ありがとう。あまりにも危険だと感じたら、とっとと引き返すとするよ」

 ケイフウは笑って話を切り上げた。が、向き直り、ユウ・イーホンに話し掛ける段になると、また厳しい顔つきになる。

「まさか遭難者が出ているとはね。けれども簡単に中止したり、引き返したりできる旅じゃないんですよねえ」

「無論です。でも、足止めを食らうのは仕方がありません。何日かかろうが、着けばいいんですよ。向こうに到着しないことには、話が始まりませんから」

 そう述べたユウ・イーホンには、先行きに対する不安など微塵も見られなかった。希望に満ちている微笑は、他の者も勇気づける力があるかのようだ。

 ――この時代、交通経路の拡大と移動手段の多様化により、遠く離れた国同士の間でもやり取りが盛んに行われるようになりつつあった。

 やり取りは物質だけでなく、知恵や知識の行き来も当然ある。生活を便利にする発明の類はもちろんのこと、身体を健全に保つ医学や薬学についての知識も大いに交流し、発展を続けている。友好国間に限られるのは断るまでもないが。

 ユウ・イーホンやリュウ・ナーらの生まれ育ったヌァイシン国はこの時代、いや、もっと古くから検屍・法医学については世界の最先端に立っていた。何が原因なのかは詳らかでないが、考えられる可能性の一つに、人口の多さ、そしてそこから来る事件や変死などの多さが真相解明の要求を膨張させ、検屍術の発展につながったのかもしれない。

 一方、医学や生物・植物学もそこそこ発達はしているが、ある種の偏りが見られるのも紛れもない事実。西国の方面でまったく別の流れとして発展を遂げた医学や生物学の知識を得ることは、非常に有用であると考えられた。

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