10 炭酸水をもらう

 気付けばもう七月初頭。週末前。

 伊十峯の部屋を訪れる事になった、その発端を紐解こう。


 常に除湿器を稼働させておきたかった梅雨時期の気候から一転、初夏のからりとした気候へと移り変わっていたのは、空中廊下で伊十峯がウィルキンソンの炭酸水を手に持っていた事からそれとなく気付いた事だった。

 暑いとそういうの飲みたくなるよね。わかるよ。


 今季はグラデーションのように季節の境目が曖昧だったけれど、それでももう気温は無視できないほどだ。


「最近、ちょっと暑くね?」

「最近てか先週からなー」


 少し離れたところで、見知らぬ男子達がそんな会話をしている。


 その一方で、さっきからじーっと炭酸水の入ったペットボトルを、怪しげに見つめる伊十峯が俺の横にいた。この豚肉、どこ産なの? と輸入事情を疑ってかかる主婦みたいな眼差しが、その黒縁眼鏡の奥から放たれていた。


「今日少し暑いね、伊十峯」

「うん」


「お、お腹減ったよな?」

「……うん」


 今日は空中廊下に備え付けのベンチに腰掛けて、昼食をここで取ることにした。

 向こうのほうで、地べたに座り込みお昼のパンにがっついてる男子もいるが、俺はあまりあのスタイルが好きじゃない。


 教室で食べる事も一瞬考えたが、ギャル軍団の制汗剤によって局所的な大気汚染が始まっていたのだから仕方ないだろう。


 よく俺と一緒に昼食を取っていた降旗は、他の男子と食べるからと言って今日は教室を先に出ていっていたし。特に示し合わせたわけでもないが、伊十峯と空中廊下で鉢合わせてそのまま一緒に昼食でもという流れになった。


 ただなぜか、いつまでたっても伊十峯は持参していた弁当に手をつけなかった。

 いよいよしびれを切らした俺が尋ねる。


「ご飯、食べないのか?」

「はぁ……ううん。本当は食べたいの」

「なんで食べないんだ?」

「実は私……炭酸とか飲めなくて」

「……え?」


 伊十峯はそれから、手にしていた炭酸水をやっぱりじっと見つめている。


「やっぱりご飯には飲み物が必要でしょ……?」

「なんで飲めないのに持ってきたんだ?」


「あのね……今日の朝、慌てててっていうか……間違えてカバンにこれ入れちゃって」

「うん? 間違ってって。……飲めないけど炭酸水買ってたの?」

「え? だってほら」


 伊十峯はその長い黒髪で覆われている耳のあたりを、ちょいちょい、と指差してみせた。

 なるほど。ASⅯRで使う炭酸水を間違えて持ってきたと。


「飲む用じゃない、と」

「そうなの」

「へぇ……。じゃあ俺が飲もうか?」

「え、いいの?」

「ああ。代わりにこれ飲む? 口開けてないし」

 そう言って、俺は朝買っておいたぶどうジュースを手渡した。


「ありがと、月村君!」

「いや全然いいよ。俺は結構好きだし。炭酸水」

「そうなんだね。……私はそもそも炭酸の飲み物自体、苦手だから……」

 伊十峯から炭酸水のペットボトルを受け取る。

 十代の男子にしては変わってると言われるけど、割と本当に炭酸水は好きなほうだ。


「あっ、そうだ!」

 伊十峯はハッと何か閃いたような顔をしながら、こちらに顔を向けた。


「月村君、うちにある炭酸水、よかったらいらない?」


「え、でもそれ、アレ用のじゃないのか?」


「うん。……そう思ってこの前通販で頼んだんだけど、ちょうどお母さんが箱買いしてきちゃって……」


 どうやら炭酸水の箱買いが被ったらしい。そんな事あるんだ、すごくね?

 もしかして伊十峯一家は、伊十峯本人以外全員炭酸水にハマってるのか?

 それとも家族全員がASⅯR配信をやってるのか? んなバカな。


「じゃあもらおうかな?」

「うん! あ、でも……」

 伊十峯は一度、何かに躊躇していたようだったけど、すぐに言葉を繋げた。


「じゃ、じゃあ明日お休みだし、うちに……来る……?」

「⁉」


 伊十峯は、お弁当を入れていた巾着袋のしぼり紐をいじりながら言った。ピンク色で桜のあしらわれた可愛い巾着袋だ。


 伊十峯の家か……。

 さっき何かを躊躇していたのはそれかと合点がいった。

 予想外のお誘いに、俺はすぐ答えられなかった。


 伊十峯の家にお邪魔って……。


 もしかして部屋の中まで? それとも玄関とか軒先くらいまで? それに、母峯とか姉峯に出くわす可能性もあるよな。けど炭酸水もらうだけなら行っても問題無し……?


 いくつかの疑問が、頭の中を駆け巡る。

 まあ飲み物を受け取るだけだと判断し、俺はその誘いに乗る事にした。


「わかった。……明日行く」



 翌朝の空は曇り模様で、気温も最近にしては比較的マシなほうだった。

 伊十峯家の住所については、昨夜のうちにキャットークで送られてきていた。


『月村君、純喫茶ろぱんっていうお店わかる? そのお店のはす向かいにある白い家なんだけど』


 その連絡を頼りに、俺は今まさしく伊十峯の教えてくれた白い外壁の一軒家の前に立ち尽くしていた。


 特徴的な切妻屋根は、白や茶の明るい色の瓦で葺いてある。

 窓や玄関の前には、いくらか目隠しになる背丈のレンガ塀が部分的に立っていた。


 母親の趣味がエクステリアなのか、その塀の外側には色とりどりの花を咲かす植物の鉢が提げてあった。


 表札にはしっかり「伊十峯」の苗字が刻み込まれていて、ここから普段伊十峯が学校へ通っているのかと思うと、不思議な気持ちになった。


 しかし、伊十峯の家、新しそうな上に大きいな!

 実は結構お金持ちだったのか……?


 その実態はわからないが、何にしても、この表札のすぐ横に取り付けられてるインターホンを押すべきだよな……?


 ――ピーンポーンッ。


 どこの家でも聞きそうなインターホンのメロディが流れると、すぐに玄関の扉が開けられた。


 開けたのは俺を呼び出した張本人、伊十峯小声だった。


 普段と何も変わらないロングストレートの黒髪と眼鏡をかけた姿だったけれど、私服姿は初めて見る。白のTシャツに、黒のオーバーオールドレスといったシンプルな服装。その下にスッと色白の足が伸びていた。モノトーンで落ち着きを出しつつも、可愛らしい印象を与える私服だった。


「つ、月村君、こんにちはっ!」

「こんにちは」


 初めて休日に会うせいか、伊十峯はいつにも増して緊張しているようだった。

 俺も少し緊張してるしな。


「ど、どうぞ」

「ああ。お邪魔します……」


 伊十峯に促され、俺は家の中へ招き入れられた。


 あれ……中に入っていいのか……?

 この思春期真っ盛りの俺達の年齢で、異性の家にあがるのって、割とためらいがあると思ったんだけどな。俺の気にしすぎ?


 てっきり玄関先で炭酸水を渡されるものかと思っていたけど、そういう事ではないらしい。


「私の部屋、二階なの」

「あ、うん……」


 成り行きで、俺はそのまま伊十峯家に足を踏み入れてしまった。

 外観通り、中も総じて新しかった。

 清潔に保たれつつ、ほどよく生活感の伺える住まい。


 伊十峯に「これ使って」とスリッパを履かされると、彼女に案内されるまま、俺は階段へと進んだ。


 他のご家族の気配は一切なかった。もしかしたら出掛けているのかもしれない。

 階段をそのまま上がりきってすぐの部屋。この白い扉の向こうが伊十峯の部屋との事。


「ど、どうぞっ」


 ガチャリとドアノブを回し、伊十峯が先に部屋の中へ入っていく。

 その後に続いて俺も部屋に入ったけれど、視界に飛び込んできたそのガーリーなお部屋に思わず足を止めてしまった。


「おいおい、マジか」

 つい小声でつぶやく。


 パステルカラーのピンクやミント、単色の白で家財品の統一感を計り、ふわふわ・もこもことしたぬいぐるみや、壁飾りなんかが散見される。


 総合的に見て、柔らかく、甘ったるい雰囲気に包まれたお花畑空間が、俺の目の前に広がっていた。ここに来るまでの内装とのギャップがありすぎ!

 夢系女子って奴か?


「お、お邪魔しまーす……」

「ソファにどうぞ」

「あ、ああ」


 伊十峯に言われるがまま、俺は二人掛けのソファに座る。

 座り心地と肌ざわりの両方に配慮された、高級感のある白いソファだった。


 あんまりじろじろと部屋の中を見てしまうのは良くない。が、落ち着かないなこれは……。

「こんぺいとうってどこで作ってると思う?」って小さな女の子に聞いたら、きっとこんな部屋を思い浮かべそうだ。


 落ち着くためにもひとまず、この部屋の中で最も見慣れている伊十峯本人を見ておこうと思った。(これはこれでおかしいんだが)


 しかし、すぐに視線がある物に吸い寄せられてしまう。

 それは、デスクの脇に置いてあるものだった。

 この部屋の雰囲気に似付かわしくないそれは、一目でどういった用途の物なのか、すぐに理解する事ができた。


 頭がちょうど入る程度のダンボール箱から、何本か細いコードが伸びていて、それがデスク上のパソコンに繋がっている。


 ダンボールの外側しか見えないけど、おそらく内側からマイクが仕込んであるはずだ。

 あれが、いわゆる自作ダミーヘッド君なのだろう。たぶん伊十峯なりに試行錯誤してあれを作ったのだと思う。俺も詳細は知らない。


「月村君の横に置いてあるダンボールの中に、炭酸水が入ってるよ。その箱一つ、丸々持っていっても大丈夫なんだけど……」

「え……え? これ、箱ごと⁉」


 伊十峯の言葉に驚愕した俺は、チラッとソファの脇に置いてあった別のダンボールを確認した。中身は伊十峯の言う炭酸水で、ペットボトル九本が規則的に入っていた。


「うん。箱ごとお母さんと買い物被っちゃったから……」

「さすがにちょっと多いな。ははっ。せっかくだけど、今日は一本だけにしとくよ。ありがとう、伊十峯」


「ううん。……と、ところで月村君……」

「どうした?」

「さっきから「これ」……やっぱり気になる?」


 伊十峯は俺の視線に気付き、デスクの脇に置いていた自作ダミーヘッドマイクを両手で持ち上げた。

 その動きに合わせてマイクのコード部分が宙づりになり、Uの字にたわんでいる。


「少しな……いや、かなり気になる……」

 伊十峯、あまり動くとピンク色のスタンドライトにコードが引っかかってしまうぞ。

「そうだよね」


「自作ってそんな感じなんだなー。その横につけたマイクに色々話しかけるんだよな?」

「そう。バイノーラルマイクっていうんだけど、臨場感がすごく出るの!」

「へぇ~。そういうマイクがあるんだ。知らなかった……。もっとそういうASⅯRで使ってる機材とか道具ってある?」


 俺は単純に興味本位から、配信環境について色々聞いてみたくなっていた。

 自分が楽しみにしていた現実逃避の裏側。


 それを知ってしまうのは、少しだけ怖い気持ちもあった。

 けれど、すでにマイクを見せてもらっていたからなのか、今ここで裏側を知ったとしても視聴の際は割り切れるような気がした。


「うん! こっちは、シャンプーの時に使ってる手袋とシャンプー液で――」


 伊十峯は先ほど玄関で見せていた緊張から一転し、楽しそうに話していった。

 眼鏡の奥に控えた瞳の目尻が、笑顔に合わせて度々くにゅっとひしゃげる。


 自分の部屋が、最も素の伊十峯でいられるんだろうな。

 そこに居たのは、学校ではお目にかかれない非常に表情豊かな伊十峯だった。

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