『アリス』の断片4 不思議の国に どうぞおやすみ、③
頬の刺青以外には外傷がなかったオレは、数日と経たずに動き回れるようになった。
オレの快復をまるで我が事のように喜ぶアリスに、擽ったさを覚える。
反面リヒトは勿論、シャンには特に警戒されているのか、鋭い視線を向けられることがあった。
二人はどこかに勤めているようだが、当然職種を話してくれることはなく、また揃って家を空けることもなかった。
これはオレを監視するためではなく、まだ幼いアリスを一人にはできないからだ。
アリスは今年十歳になるが、学校の類いには一切通ったことがないらしい。ずっと家にいることが気に掛かり、彼女に尋ねたことがある。
「うーんとね、学校にはまだ通っちゃ駄目なんだって。お母さんが言ってた」
「駄目? どうしてだ?」
「あたし、他の子達より魔力が強いんだって。何かあった時に、周りの人を傷付けちゃうかもしれないから。だからもう少し大きくなって魔力が落ち着くまでは、学校に通えないの」
天真爛漫そうなこの少女に、そんな事情があったとは。
ちょっとした怪我に回復魔法を行使するアリスの姿を、何度か見たことがある。確かに年の割に魔力が多いなとは感じていたが……人は見掛けに寄らないものだ。
「でもね、勉強はお母さんが教えてくれるから全然大丈夫なんだ! お母さんは頭が良いの。それにお父さんも……外遊びをたくさん教えてくれるし!」
「それは……」
アリスが若干言い澱んだことから察するに、リヒトは勉強が得意ではないのだろう。
オレは皆まで言いそうになるのを必死に耐え、何とかその場を乗り切ることに成功した。
ある時。アリスに誘われて森の散歩――彼女曰く『冒険』らしい――をしていると、意気揚々と歩いていたアリスが、突然「あれ何だろう?」と小道の先を指差した。
よくよく目を凝らして見ると、彼女が指し示す先に何か黒っぽい塊が落ちている。
それは瀕死の鳥だった。時折僅かに身動ぎするため、辛うじて生きていることが分かる。
捕食されそうになった所を、命からがら逃げ出したのか。獣のものと思われる生々しい爪痕が残る羽は、酷く傷付き血塗れだった。
「……アリス、こいつはもう助からない。苦しみを長引かせるのも可哀想だ。お前は目を瞑るか、後ろを向いてくれないか?」
オレは、この鳥を殺してしまうつもりだった。
幼いアリスには酷なことだが、悪戯に苦しませるよりはマシだろう――そんな憐憫は、人間のエゴでしかないのだろうが。
だがアリスはオレの静止を振り切ると、血で汚れるのも厭わずに、最早虫の息である鳥を両の手で持ち上げた。
ぐったりとしている鳥に、たとえ回復魔法を用いたとしても快方は望めまいと判断し、再度アリスを諭そうとした――その時。
「『光の御手よ、この者を癒したまえ』」
たどたどしい詠唱が響き、辺り一帯が白い閃光に包まれる。オレは余りの眩しさに、反射的に片腕で目を覆った。
そして次に目を開けると、瀕死のはずの鳥がアリスの手の中で元気に翼を羽ばたかせていた。
「なっ……!」
「じゃあねー! もう怪我しちゃ駄目だよ!」
此方の動揺などお構い無しに、アリスは青空へと飛び去って行く鳥に無邪気に手を振っている。
――まるで奇跡だ。
アリスが持つ力は、オレの想像を遥かに超えていた。今の年齢であれだけの魔法を使いこなせるのならば、成長した彼女はどれ程の魔法士となるのだろう。
空恐ろしさを感じると共に、これからの彼女の人生が多くの困難に彩られるだろうことは、想像に難くなかった。
「ランジュお兄ちゃん、今日も森を案内してあげる!」
アリスはそう言ってオレの手を引く。
両親の懸念も何のその。自分で言うのも如何なものかとは思うが……ぽっと出の怪しい男にも拘わらず、アリスはどうしてかオレによく懐いた。
彼女の警戒心のなさに、当のオレの方が心配になる。
「あの池はね、水鳥の親子が遊びに来るんだ! あとね、こーんなでっかいヌシ様がいるの!」
「見て見てランジュお兄ちゃん。ここ、木の実が落ちてるでしょ? この道はね、動物達の通り道なの」
「花の密はこうやって吸うの。甘くて美味しいんだよ!」
「この赤い実は美味しそうに見えるけど、絶対食べちゃ駄目だよ! お腹を壊すんだって、お父さんが言ってた」
「この森には栗鼠も兎もいてね、可愛いんだ!」
アリスの話題は尽きることがない。表情をくるくると変えるアリスはいつも楽しそうで、オレはそんな彼女の話を聞くのが好きだ。
弾むような足取りで先を歩くアリスに、ふと『寂しかったのかもしれない』と思い至る。
彼女位の年齢ならば学校に通って魔法を学び、共に笑い合い切磋琢磨する友達がいる……それが所謂「普通」なのだろう。
しかし彼女は持てる魔力の不安定さから、普通の子供と同じようには過ごせない。
自然に囲まれた森深いあの家で、両親と三人。そんな小さな世界だけが、この少女の全てだ。
だからだろう。オレのような見ず知らずの男にも、こうして心を開くのは。
ただ――悪い気はしなかった。
自身について何一つ覚えていないオレは、家族の顔すら……自分に家族というものがいたのかすら分からない。
それもあってか、オレはアリスを本当の妹のように思うようになった。
先へ先へと案内してくれる幼い手は、どこまでも温かい。軽く握られた手を通じ、優しく穏やかな何かがオレの胸をいっぱいに満たした。
そしてオレに構う物好きは、アリスだけではなかった。
「アリス、ランジュ。今日は茸を採りに行くぞ!」
そう、リヒトだ。
彼等親子に付き合わされて森へ分け入り、鹿や猪を魔法で仕留めたり(これは主にリヒトの仕事だった)、木の実や山菜を採った。
リヒトはオレが食用の茸を見付ける度、土塗れの手で頭を撫でようとしてくるので大変困った。
しかし、決して嫌な訳ではなかった。
彼は娘のアリスと同等に、オレを扱ってくれた。
それだけでただ、ただ――嬉しかった。
「お、ランジュ。晩飯の支度、手伝ってくれてありがとな」
「お前、頭良いんだな。学校の先生とか向いてそうだ。……俺『先生』って、どうしてか白衣を着てるイメージがあるんだよなぁ」
「アリスと遊んでくれてありがとな。ここ、見ての通り田舎だからさ。アイツと同い年の子供って、近所にはいないんだ。だからお前がアリスの面倒を見てくれて、本当に助かってるよ」
「……こうしてると、アリスとランジュって兄妹みたいだな! この際、お揃いの服でも買うか? ワンピースとか!」
「あれとあっちの星を結んで……羊飼い座だ。懐かしいな。子供の頃、弟とこうして星座を観たんだ」
いつからかオレは、リヒトのことを実の父のように、或いは兄のように感じていた。
当初はオレを警戒していたシャンも、共に過ごす時間が半月、一ヶ月、二ヶ月と過ぎて行くと、徐々に柔らかい表情を見せてくれるようになった。
オレが彼等を愛おしく思い、本当の家族のように思うのにも、そう時間は掛からなかった。
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