『アリス』の断片4 不思議の国に どうぞおやすみ、④

 ひたすらに穏やかな月日が過ぎ、オレがここに来て半年程になろうとしていた。


 就寝前アリスに本の読み聞かせをしていた所、いつの間にか一緒になって眠ってしまったようだった。以前はシャンの役割だったこの儀式は、いつしかオレの仕事の一つになっていた。


 文字通り夢から蹴り飛ばしてくれたアリスの寝相の悪さには感謝だ。彼女に蹴られた腹部のダメージは大きいものの、妹のように思っているとは謂えそれ程歳が変わらない少女のベッドで同衾は……見た目やら何やら、色々と不味い。


 オレも自室に戻るとしよう。今は何時だろうか。

 アリスを起こさないよう静かに部屋を出ると、階段を降りてリビングに向かう。


 そこで、ほんの少しの違和感を覚えた。

 静か過ぎる。いつもならリヒトの笑い声や、夫婦の談笑が聞こえるはずなのだが……珍しいこともあるものだと首を捻りながら、オレは歩を進める。


 くぐもった話し声をようやく捉え、オレは「起きてたのか」と胸を撫で下ろした。彼等に「お休み」を伝えるために、リビングの戸に手を掛ける。




「――恐らく。ランジュは『サーカス』の前身となる組織と関わりがあった」




 己の名が耳を打ち、リビングに出し掛けていた顔を反射的に柱の陰に引っ込めた。

 オレは無意識に、両手で口を押さえる。


 呼吸の間隔が短い。

 息が荒くなる。

 動悸が治まらない。


 激しく脈打つ心音が、リヒトとシャンの耳にも届いてしまうかもしれない。

 意味を成さない数多の言の葉の羅列が、頭の中でぐるぐると回る。



「目撃情報があるんだ。『紫の髪の、容姿端麗な子供が共にいた』っていうな」



「彼は何も知らない風だったけど……どうするの」



「……ジルに話を通した上で、魔法警察省に連れて行くよ。アイツなら、四大貴族のコネやら威光やらでどうにかなるだろ」



「嫌がるジルの顔が目に浮かぶわね。幾ら必要なこととは謂えども……彼、嫌いでしょ。そういうの権力を振りかざすのは」



「解ってる。こういう時ばかりアイツの生まれに頼って、俺も悪いとは思ってるよ。……埋め合わせに今度美味い酒でも葉巻でも、何でも奢ってやるさ」



「……アンタの仕事だもの、口出しはしないわ。ただ、その後はどうするの。上からの指示があったとは言え、アンタはランジュに一時の夢を見させてしまったわ。喪われた記憶を取り戻させるために、時間が必要だったことは解るけれど――正直、このやり方は非道よ」



「それも解ってるよ。ランジュが記憶喪失なのは十中八九、魔法によって記憶を操作されているからだ。そしてこれは俺の推察だが……ランジュが記憶を取り戻し『サーカス』に戻った所で、そこにアイツの居場所はないんだろう。ランジュは駒だ。奴等も憶えられていては困るから、自分達に繋がる記憶を消したんだろうしな」



 ふーっ、ふーっという獣のように荒い息が、両手の隙間から洩れる。

 激しい耳鳴りに思考を乱され、二人の会話が忽ち雑音に変わった。


 何だ?

 何の話をしている。

 オレが駒? 何のための駒だ?


 オレは、オレは――オレは誰だ?




「今は『サーカス』と名を変えた奴等。その頭の名は――ヴァイスだ」




『君に仕事を与えてあげる、。俺のためだもの、やってくれるよね?』




 酷い頭痛と共に響くその声は――。



『俺達の……いや。君の居場所を壊そうとしている男がいるんだ。君には、その男を殺して来て欲しい』


『蔑まれ泥水を啜るような生活には、もう戻りたくないだろう?』


『これはお願いじゃない。命令だ。俺達のことを嗅ぎ回っている『リヒト・ウィンティーラ』という男を殺せ。そして最後はその結果に拘わらず――君も死ね』


『餞別にこの刺青をあげる。上部だけの君にはぴったりだ……ほら、これで完成』



『行ってらっしゃい、ジスト。最後に、良い夢を見れるといいね』



 記憶の中の、長い銀髪の男が嘲笑う。


 そうだ。

 何故忘れていたんだ。

 オレは――オレは『ランジュ』なんて名前じゃない。オレは、オレの名前は『ジスト』だ。


『リヒト・ウィンティーラ』を殺す。

 その目的のためにオレはここに――この場所に来たんじゃないか。


 感情を激しく揺さぶられ、目の前が強制的に赤一色へと塗り替えられた。それと同時に温かかったこの場所が、とんだ汚ならしいものに思える。

『リヒト・ウィンティーラ』はヴァイスを――オレ達の居場所を害そうとしている、卑怯極まりない男。


 何故、今まで忘れていられたのだろう。

 魔法か? 記憶を操作する魔法を、

 だとしたら許せない。あの優しさは、オレを騙すためのものだったのか?


 許せない。許せない。


 破綻した思考回路は、徐々に被害妄想染みたものへと変化していく。異なる原因と結果がオレの中で勝手に結び付くと、理不尽な怒りへと昇華した。


 ――そうじゃない! そうじゃないんだ!!


 心のどこかで、まだ無事な理性が叫ぶ。

 しかしオレの身体は意に反して勝手に動き出すと、幽鬼のような足取りでリビングに立ち入った。



「ランジュ!? もしかして聞いて……」



 取り乱すリヒトの顔が目に入った途端、オレの心はどろどろとした憎しみが渦巻き、あっという間に怒りに支配される。




「――リヒト!!」




 シャンの叫びを覆い隠すように、轟音が生じた。

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