第39話 やさしく花環にしておくれ⑦
向かった三階は、今までとは違う厳かな空気に包まれていた。張り詰める緊張感に、アリスの足が重くなる。
校長室で行われた会議の際、ジルが『教祖の間』と名付けていた部屋に警察官達の姿が見えた。
ジストが警戒した足取りで近付くのに倣い、アリスは息を潜める。
室内に足を踏み入れると、真っ先に目に入ったのは強張った表情のシャンとジルだ。
険しい顔をする二人の視線の先には豪奢な椅子に腰掛ける男と、深いスリットが入った黒いドレスが艶かしい金髪の女がいた。
金髪の女は椅子に座る男に
「矢張、生きていたのか……?」
隣のジストが酷く驚いた様子で呟いた。
彼の視線は、椅子に座る男へと真っ直ぐに向けられている。しかし当の男は頬杖を突き、興味無げに此方を眺めていた。
アリスはその男の顔を目にし、どこか既視感を覚え――唐突に思い出した。
一年生の頃に受けた、図書室での罰則。
あの男だ。アメジスト寮生のユリーシャ・レインと共に呑み込まれた魔法書の中で出会った、見知らぬ男。彼の助言のお陰で、アリスとユリーシャは現実世界に戻ることができた。
あの時、男の顔は子供の落書きのように真っ黒に塗り潰されていたが、曲がりなりにも助けて貰った相手である。顔は解らずとも、男が持つ雰囲気や空気感といったものは忘れるはずがない。
だが眼前の男は氷にも似た冷たさを纏い、以前の優しげな印象はまるで失われていた。
これならば、全くの別人と言われた方がまだ理解できる。
しかしそれ以上に男の容貌――夕陽色の髪に、海を切り取ったような青い瞳。加えて穏やかさの滲む下がり気味の目尻。
その一つ一つの特徴が、アリスとよく似ていた。
二人の間に血縁関係があると言われれば、納得してしまえる程に。
「あ、貴方……誰?」
震える声音は
そしてアリスの問いに応えるように、男が椅子から立ち上がる。
「――初めまして。私は『光の御子教』の教祖、リヒト・ウィンティーラだ」
――アリスと同じファミリーネーム。
アリスがそれを問い質すより先に炎が燃え盛るのにも似た、荒れ狂う怒りを
「――違う!! アンタがリヒトであるはずがない!!」
シャン・スタリア――彼女のこんなにも余裕のない姿など初めて見る。
吼えるようなそれに、リヒトと名乗った男が眉を顰めた。片眉だけを上げるそれは神経質そうで、アリスは「『リヒト・ウィンティーラ』はそんな顔をしない」と漠然と思う。
……どうして『リヒト・ウィンティーラ』を知らないはずの自分が、そう思うのだろう。
リヒトは困惑した様子のアリスに目を向け「薄情なものだな」と呟いた後、怪訝そうに首を捻る。
「……いや、違うな。魔法か。可哀想に、何もかもを封じられてしまったのか。無邪気な残酷さで以て真綿で包むように。偽物の楽園で、無知なる幸せの糸によって緩やかに絞め殺される――憐れな子供」
男の言っていることを、何一つ理解し切れない。
しかし彼がアリスを憐れみ、嘲笑しているのだけは悟った。
「魔法省教育・文化部門担当大臣プリメラ・ジノヴァ。横領と贈賄罪の容疑、並びに教唆罪の容疑で逮捕する。……『リヒト・ウィンティーラ』、お前にも話を聞かせてもらうぞ」
シャンとは反対に、ジルが抑えた口調で告げる。
金髪の女プリメラ・ジノヴァがリヒトから身体を離し、花道を歩く女優の如く優雅な足取りで歩み出た。
彼女はすらりとした腕に水を纏い、ジル目掛けて放った。
「シャン、プリメラは俺が。君はリヒトを頼む」
ジルが短く指示し、部下の警官達と共にプリメラと対峙する。
シャンは声もなく頷くと真紅の瞳を怒りに燃やし、リヒトを睨み付けた。
「アンタがリヒトの訳がない。私は彼の最期を看取っている。アイツは確かに死んだのよ……!アンタは一体誰なの……!!」
シャンの悲鳴染みた叫びを耳にして、リヒトが底意地の悪い笑みを浮かべた。
酷薄なそれは、シャンを明らかに嗤笑している。そうしてリヒトは、見せ付けるようにゆっくりと持ち上げた右手の人差し指で自身の
「――こうして顔を合わせるのは初めてですね。初めまして、お義姉さん」
「は……」
シャンが、ジストが、リヒトの言葉の意味を噛み砕けずに唖然としている。
そんな二人を気にも留めず、リヒトは芝居掛かった口調で続けた。
「この身体は貴女もよく知っているはずだ……これは正真正銘、『リヒト・ウィンティーラ』のもの」
「――アンタは、誰」
シャンの中では答えが出ているのだろう。再三の彼女の問いには、確信めいた響きがあった。
目の前のリヒト――否、『リヒトの身体を持つ別の誰か』もそれを察したのか、笑みを深めた。
「私はリヒト・ウィンティーラの弟――ネオン・ウィンティーラ。『私』は既に中身だけだが。……二十年前は貴女達のお祝いに顔も出さず、母共々大変失礼しました」
シャンの唇が小さく震えている。
アリスの隣で未だ呆然としているジストに、リヒト――改め、ネオンが視軸を向けた。
「君には感謝している、ジスト・ランジュ。君が兄を、リヒトを殺す手助けをしてくれたお陰で、私は今、私にとっての『光の御子』と共に在れる」
「――違う!! 俺はそんなことのために、あの人に、リヒトさんに助けてもらった訳じゃ……!」
取り乱すジストを優しい眼差しで見詰めたネオンが、リヒトの顔で、リヒトの声で、慈しみに満ちた表情を浮かべて言った。
「解っている。全ては私の計画だ」
ネオンがさぞ愛おしげに、リヒトの身体へと両腕を回す。
「私は幼い頃からずっと、ずっと、兄を『光の御子』だと思っていた。頭脳面だけで言えば私の方が上だったが……彼はそれ以上に他人に愛される
「私は兄に憧れていた。明るく眩しい、太陽のような兄を、深く深く――愛していた……でも」
「兄は私から――いや、私達の前から逃げたんだ」
今までの熱に浮かされたような口調とは違う、ぞっとするような平坦な声。
しかしネオンの表情は終始穏やかなままで、その対比が何とも恐ろしかった。
「私達の母は、『母親』としては失格だった。はっきりとそう言える。彼女は母親である前に一人の女であり、独りの人間だった。親になって良い器ではなかった」
「父の愛を失った彼女は、心の拠り所を求め『光の御子教』に傾倒した。兄にも入信するよう、散々訴えていたよ。……だからだろう。兄は何もかも嫌になったんだ。弱い母親にも、遊びたい盛りに世話をしなければならない
寒々しい青の瞳がシャンを射抜く。
アリスと同じ色合いにも拘わらず、ネオンの目には一切の温度を感じない。
恐らくこれは、アリスの根本に関わる重要な話だ。
そこにシャンとジスト、そして目の前のリヒトとネオンが関わっているのだろう。
しかし何故か――心のどこかで真実を知ることを拒む自分の存在がいることに、アリスは気付いていた。
「兄と貴女が結ばれ、
ネオンの海色が、吹き
それは全ての人間の悪感情を煮詰めて固めたような、黒くドロドロとしたものに満ちていた。
「『光の御子』は神聖さの象徴。それが他人と結ばれ子供を作るということは、聖性が喪われ、只人になるということ――私は何よりも、それが許せない!!」
ネオンは語尾を荒げ、光属性の属性魔法を発動する。放たれた幾筋もの雷撃が、アリス達に襲い掛かった。
まさしく怒りを具現化したような雷に、アリスは恐怖の余り一歩も動けない。ここまで激しい不の感情を他者からぶつけられたことに、足が竦んだ。
硬直するアリスを素早く引き寄せ、ジストが防御魔法を展開する。
さすがはアメジスト寮の教師。ジストが張った防御魔法は強靭だった。雷を受け止めた衝撃で防壁はビリビリと震えてはいたものの、罅一つ入っていない。
しかし仰ぎ見たジストの顔付きは、依然険しいままだ。
すると怜悧さが滲み出る秀麗な横顔に、一回り幼い少年のジストの姿が重なる。驚いて瞬きをすると、そこには見慣れたジストの顔があった。
一体何だったのだろう。こんな時に白昼夢だろうか。ネオン、正確にはリヒトという男と顔を合わせてから、何かがおかしい。
リヒト・ウィンティーラ。
アリスと同じファミリーネームを持つ男。
……そして、テラスト魔法学校校長シャン・スタリアと深い仲にあった。
二人がアリスにとってどのような存在なのか、さすがの彼女にも想像が付いていた。
恐らくリヒト・ウィンティーラとシャン・スタリアは――。
「――堅牢な魔法だな。興味がある。何故、君の記憶を封印しているのか」
淡々とした声音に、アリスの意識が引き戻される。
強い輝きを持ったネオンの瞳が、アリスを射抜いた。……いや、彼が視ているのはアリスに掛けられているという魔法だろう。ネオンの言葉を借りるならば、アリスの記憶を封印しているというそれ。
「私の身体は兄のものだ。だが脳は私の、ネオン・ウィンティーラのもの。……脳を移植するというこの方法は、心霊手術を参考にしている。私は元々人間というものに大変関心を持っていてね」
「人を人たらしめるのは脳だ。人間は心臓でものを考える訳ではない。心臓自体は人間が生命を維持するための臓器、部品の一つに過ぎない。人格が宿るのは脳。我々の身体を動かしているのは、脳から送られてくる信号だ」
「君のそれは頭蓋を箱として見立てているのか。宝箱の中身は差し詰め、記憶分野を司る海馬と言った所だろう。……実に安直だな」
「さあ――私を見ろ」
アリスとネオン、同じ海色が向かい合う。
そしてそれを見計らうようにして、二人の間に白い光を放つ魔法陣が展開された。
シャンが「いけない! ジスト!!」と叫ぶが、もう遅い。
「君の魔法は解ける」
アリスの頭の中で鍵が開くような、歯車が噛み合うような音が響く。
身体がぐらりと後ろに
そう――ひゅーんと下へ、どこまでも。
私とアリス39 やさしく花環にしておくれ 完
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