第25話 またお会いできるなんて、③
十六時半頃。空は既に半ば程が茜色に染まり、夜の気配をひしひしと感じる。
ミリセントの部屋を後にし、レイチェルとも別れたアリスとシェリーは、二人女子寮の廊下を歩いていた。
「ねぇ、シェリーちゃん。シェリーちゃんの荷物は、まだアメジスト寮にあるの?」
「いや。纏めてあるから、後はジスト先生から荷物を受け取るだけだ……オレはもう、中庭には入れないから」
アリスにとっても、シェリーと初めて出会ったあの中庭は思い出深い。
しかし彼女がエメラルド寮に転寮した今、あそこに行く理由は失われてしまった。あの窓越しでのやり取りも好ましく思っていたアリスは、それが少しだけ寂しかった。
アリスですらそうなのだ。中等部からあの中庭で過ごして来たシェリーは、覚える寂しさも
――あの白いベンチにも。
物思いに耽っていると、シェリーが何か言いたげに唇を震わせた。
言うか言わまいか、迷っているのが手に取るように分かる。話し易いよう「どうしたの?」と先を促すと、シェリーはしばし視線をさ迷わせ、躊躇いがちに口を開いた。
「その……さっきはレイチェルとミリセントがいたから言えなかったんだが、話があるんだ」
「話?」
「ああ――『
シェリーの口から出るとは思ってもいなかった人物の名に、アリスは一瞬言葉を失う。
悩んだ末に人の往来がある廊下でするべき話題ではないと判断し、シェリーを自室に招き入れた。
机上の本の存在が脳裏を過るが、あれ程彼の話題に相応しい物もあるまいと思い直し、アリスは目を伏せた。
アリスの部屋に踏み入ったシェリーは「全然汚くないじゃないか」と、何故か残念そうに言った。
「そこの椅子に座って」
勉強机の椅子を勧めると、シェリーは借りてきた猫のようにちょこんと座る。
彼女は机の上の児童書に目を留めると、物珍しそうに首を傾げた。アリスが本を読まないことを知っているからだろう。不思議そうな顔をしている。
「……それで、麗先輩の話ってなあに?」
アリスはベッドに腰掛け、本題に入った。
シェリーは本から視線を外すと、言葉を探してか己の唇に触れる。
「――文化祭の時。戦闘にはならなかったが、オレは
「……」
「王麗は『明るい場所に導かれるのは心底恐ろしい』、『自分自身の逃げ道を塞ぐために、アリスから向けられる信頼を裏切った』……そんなことを言っていた」
「――『明るい、場所』?」
眉を寄せるアリスに、シェリーは困ったように苦笑した。
「あの時オレは『裏切る理由をアリスの所為にするな』と、そんな大それたことを言ったが……彼の気持ちも、解らないことはないんだ。オレは、元々あちら側の人間だから」
「暗い場所しか知らない人間にとっては、陽の下で、光の下で生きる者の存在は眩し過ぎる。もしかしたら自分もそこに行けるんじゃないかって……そんな錯覚を覚える」
「……麗先輩は、
力なく言うアリスに、シェリーは当時のことを思い出すように宙を見上げた。
「少なくとも……オレの目から見た王麗には、迷いがあるように見えた。オレに問い詰められ言葉を重ねていたのにも、どこか言い訳染みた様子を感じたのは確かだ――なあ、アリス」
シェリーの声掛けに、無意識に俯いていた顔をゆっくりと上げる。
のろのろと視線を上げた先に、アリスを真っ直ぐに射抜く紅玉の瞳があった。
「本当に。本当に……暗闇の中で生きたいと願う人間が、いると思うか?」
「――人が堕ちるのは簡単だ。自分の置かれた環境だったり、それによって培われた人間性であったり……そんなもの全てが複雑に絡まって、ある時理性とか善性とも言うべき何かが、ふつりと切れる。そこからは早い。後は下に下に、堕ちるだけだ」
「『サーカス』の在り方を正当化しようとか、そういうことじゃない。ただ……彼等に、救いの手が伸ばされることはなかった。今までも、そしてこれからも。恐らく、王麗もそうだったんだろう」
「……その机の上の本ね」
アリスの呟きに、シェリーが背後へと視線を向けた。
彼女の目には、児童書の表紙が映っていることだろう。
麗と同じく『サーカス』にいた彼女は、『ヒーロー』という言葉に何を思うのだろうか。アリスはふと、そんなことを考えた。
「麗先輩が前に読んでた本なの。読んでみたら、先輩のことが何か解るかなって思って」
「……何か分かったか?」
「ううん、まだ。それに、そこにある本で全部じゃないの。シリーズ物だから」
「『ヒーロー』か……」
シェリーが、それ以上言葉を続けることはなかった。
だが何となく、本当に何となくだが、彼女は麗や鈴麗の気持ちが理解できるのだろうなと思う。
しんみりとするアリスを、シェリーがじっと見詰めている。視線の圧に耐え兼ねて、アリスは恐る恐る尋ねた。
「――どうしたの、シェリーちゃん?」
「いや、忘れていたと思ってな」
シェリーは椅子から立ち上がると、アリスの真正面に立ち塞がった。
ベッドに腰掛けているアリスは、シェリーを見上げる形となる。
シェリーは背が高いため、彼女と目を合わせるには目一杯顔を上げなければならず、首が痛くなった。
「あの、シェリーちゃん? ちょっと首が痛いかな~なんて……」
アリスの控え目な抗議を受けてか、シェリーが中腰になった。
すると、二人の目線が同じ位の高さになる。その分秀麗な顔との距離が縮まり、同性といえども何だか照れ臭くなった。
――それよりも、シェリーは一体何がしたいのだろう。
すると無防備なアリスの両頬に、音だけは威勢の良い破裂音と軽い痛みが突然襲い掛かった。
反射的に閉じた目を恐々と開けると、悪戯が成功した時の子供のように、小さく笑みを浮かべるシェリーの顔が真っ先に飛び込んで来る。
「『アリスも
話の脈絡が掴めず首を傾げ、ようやく文化祭の時の話であることに気付く。
レイチェルらしい言い分と律儀に彼女の言い付けを守るシェリーに、アリスは「あはは!」と声を上げた。
「『これからも、友達として宜しく』」
「それも、レイちゃんが?」
「ああ。――だが正真正銘、オレの本心でもある」
「……ありがとう。私の方こそ、これからも宜しくね。シェリーちゃん」
顔を見合わせて微笑み合う二人だが、シェリーは唐突に顔を曇らせて視線を逸らした。
「それと、お前には言っておこうと思うんだが……オレはあの文化祭の一件で『魔法の深淵』を視た」
「『魔法の深淵』って、エドちんが良く言うやつだよね。一部の人しか辿り着けないとかっていう」
「エドワード先生が何て言っているかは知らないが、それだ。文化祭以降、オレの魔力は少しずつ膨れ上がっている」
「それって、大丈夫なの……?」
「今すぐ問題になるような話じゃない。だがシャン校長も言っていた通り、いつ呑まれるかはオレにも分からない。だから――」
まさか「その時は見捨てろ」とでも言うつもりか。そんなことは誰に何と言われようと、全力で拒否するに決まっている。
あんな後悔はしたくない。文化祭を経て、その気持ちは強固なものへと変わった。
シェリーが、次に何を発するつもりなのか身構える。また後ろ向きな発言だったら、一言言ってやろうと思ったのだ。
「その時は、『ここ』に引き留めてくれないか?」
「は、」
驚きの余り、吐息のような声が漏れた。
目を見開くアリスに、シェリーが続ける。
「『ただいま』を言う場所が、あるんだろう?」
「――うん……!」
覚えていてくれた。伝わっていたのだ。
アリスは力強く頷いた。
「私、戦う力も何もないけど、シェリーちゃんに『お帰り』は言ってあげられるよ――お帰り、シェリーちゃん!」
「――ああ。『ただいま』」
シェリーはアリスの『お帰り』を耳にすると、眥を下げて目を伏せる。
次いで彼女は春の暖かな風に良く似た、柔らかな笑みをその白皙の
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