第20話 ずいぶんよく寝てたこと!⑨

 皆帰省してしまったのか、エメラルド寮も人気がなく、ひっそりとしていた。

 恐らく、こうして残っているのはアリス達と教師位だろう。


 三人は女子寮の廊下を無言で歩く。

 ミリセントの部屋前に来ると、彼女は一瞬アリスを気遣うような視線を向けたものの、何を言う訳でもなく「二人共、お休み」と手を振って自室に入って行った。

 残されたレイチェルとアリスも「お休み」と返すが、いざ二人きりになると気不味かった。

 レイチェルに言われたことが尾を引いていて、彼女と何を話せば良いのか分からない。


 そうこうしている内に、アリスの部屋の前まで来てしまう。



「……お休み、レイちゃん」



 レイチェルに恐る恐る声を掛け、部屋の扉を開ける。

 彼女からの返事がないため、アリスは諦めて扉を閉めようとした。



「――さっきは起き抜けに悪かったわ。アンタが悪い訳じゃないのは、解ってるの」



「……うん」



「何か色々、悔しくて……」



「……」



「アタシ、明日は朝一の汽車で帰るから、多分早くからいないと思う。だから、アンタ達と顔を合わせるのは恐らく一月になるわ。冬休みも挟むし」



「冬休み……そうだね」



「次に会う時は、必ずいつものアタシに戻ってるから。……お休み、アリス。明日は気を付けて帰りなさいね」



「うん、レイちゃんもね。……お休み」



 アリスは自室に身体を滑り込ませると、ベッドに向かいがてら制服を脱ぎ散らかす。ブレザーやらスカートやらが、脱け殻のように床に落ちた。

 ハンガーに吊るす気力もない。アリスは下着姿のままベッドに潜り込んだ。


 脱ぎ散らかした制服も、風呂も、食事も、何もかも。今はただ全て忘れ、夢も見ない程深い眠りに就きたかった。











 鳥の声が煩くて目を覚ますと、昨夜閉め忘れたカーテンから燦々と太陽の光が射し込んでいた。

 起床時刻をセットし忘れてしまった目覚まし時計を確認すると、時刻は九時を指していた。

 通常通り授業があれば、普通に遅刻である。


 アリスは眩しさで目をシパシパさせながら、ゆっくりと入浴の準備を始めた。

 下着一枚の上に部屋着を纏い、何とか部屋の外に出ても見苦しくない程度には身支度を整える。

 入浴セットを持って自室の扉の前に来ると、扉の隙間に何か挟まっていることに気付いた。


 淡いピンク色の、可愛らしい便箋だ。

 この丸い字には見覚えがある。ミリセントのものだ。

 アリスは入浴セットを脇に抱えると、その場でミリセントの手紙を読み始めた。




『おはよう、アリスちゃん

 何度か声を掛けたんだけど、お返事がなかったから書き置きにしました。私も七時台の汽車で帰ります。

 レイちゃんは私が起きた時にはもういなくて、始発の汽車で帰ったみたい。早起きできてすごいよねぇ。


 アリスちゃんも気を付けて帰ってね。身体にも気を付けて。

 また一月に、元気な顔を見せてね!


 ミリセント』




 レイチェルは宣言通り、朝一番の汽車で帰ったのだ。ミリセントのように書き置きがないことを、特段薄情等とは思わなかった。

 アリスがレイチェルの立場ならば、そうするだろうからだ。心の整理がつかないのは、お互い様だ。

 アリスはミリセントの手紙を勉強机の上に置くと、自室を後にした。











 入浴から戻ったアリスは、淡々と荷物を纏める。

 少し荷物が多くなってしまった。いっそ勉強道具の一部は置いていってしまおうかと邪なことを考えていると、机の上に消しゴムを置き忘れていることに気が付く。

 ペンケースは先程鞄の奥底に仕舞ったので、荷物を入れ直す手間を想像し落胆した。

 アリスは渋々ながらも、一度全ての荷物を取り出した。ようやくペンケースを見付け出し、今度こそ確実に消しゴムを入れる。


 ふと、視界の隅を黄色い何かが過った。

 また何か入れ忘れただろうかと、アリスは少々げんなりした気持ちで、その正体を確かめるべく顔を上げた。



 ――麗から貰った、黄色い花のヘアピン。



 アリスは動きを止めた。

 行き場のない気持ちに、アリスは咄嗟にヘアピンを握り締め、床に叩き付けようとした。


 しかし結局、手を振り下ろすことはできなかった。


 壊そうと思えば思う程、麗と過ごした時間のことを思い出す。


 あれは全て偽りだったのだろうか。


 アリスに見せていた麗の顔は、全て演技でしかなかったのか。

『サーカス』を手引きするだけの、演技でしか。


 しばしヘアピンを振り上げた状態で固まっていたアリスだが、ゆっくりと手を下ろすと纏めた荷物を抱えた。

 昨日、紅花には午前中までには学校を出るよう指示された。

 いつまでも長居する訳にはいかない。それに、寮には麗との思い出が多過ぎる。


 アリスは重い荷物と共に寮を出た。

 後ろは振り返れなかった。


 誰もいなくなったアリスの寮の自室。

 その勉強机の上に、ぽつんと黄色い花のヘアピンが寂しげに置かれていた。
















 孤児院に帰ると、赤い目をしたサラに真っ先に抱き締められた。



「良かった……本当に無事で良かった……」



「……うん。ただいま、母さん」



 力一杯抱き締められ、少々息苦しさを覚えた。

 夏休み振りの母は、相変わらずでほっとした。

 抱き締められた拍子に彼女の優しい匂いが鼻腔を掠めると、アリスの目からぼろぼろと大粒の涙が零れ落ちる。

 洗い晒しの、ごわごわとした手触りのシスター服から香り立つシャボンの匂い。全てが懐かしかった。



 (――シェリーちゃんに会いたい)



 昨日会っているはずなのに、もう数年は顔を合わせていないような心地だ。

 あの夏の日、不器用に『行って来ます』を言ったシェリーの顔が浮かぶ。

 今はただ、彼女が『ただいま』と言えることを願うしかない。


 サラの温かさが切なくなり、アリスは彼女に強く強く抱き付いた。



「ただいま……」






 第20話 ずいぶんよく寝てたこと! 完



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