第6話 もとにもどせなかったって⑤
気が付くと、いつもシェリーと会う時に使っている空き教室に来ていた。
離れてはいるがここは生物室と同じ階にあるため、唯一見慣れた景色に自然と足が向いてしまったのだろう。
アリスは何時ものように窓を開けた。
この時間だ。シェリーがいるはずがない。そう思いつつも、白いベンチがある方に目を向けた。
――誰か座っている。
見慣れた銀髪が夕陽に照らされ、茜色に輝いている。夕陽の眩しさは特に気にならないのか、彼女は真剣な表情で手元の本を読んでいた。教科書だろうか。
アリスは声を掛けることなく、ぼんやりとそれを眺めていた。
少しして人の気配に気が付いたのか、シェリーが顔を上げる。
二人の視線が交差する。シェリーが驚いた表情で立ち上がり、本を雑にベンチに置いて駆け寄って来た。
「今日は会う約束はしてなかっただろ……顔色も悪い。どうした、何かあったのか?」
心配そうに問い掛けてくるシェリーの顔を見た途端、堰を切ったようにアリスは話し始めた。
「今日魔法生物学の授業があって、」
「授業中に妖精が暴走して、私達を襲ってきたの。シューゲル先生が守ってくれたんだけど、妖精は死んじゃって……私を庇う先生の後ろ姿とか、先生の背中越しに見えた妖精の血に、どこか見覚えがあって。私、何か思い出せそうだったの。今までそんなこと、一度もなかったのに。でもそれって、過去の私にもおんなじようなことが、あったってことだよね?」
「私、シューゲル先生に指摘されるまで考えたことなかった。どうして自分が記憶を喪ってしまったのか。どこかで過去の私と、今の私を切り離して考えていたのかもしれない。もう過去の私は戻らないものだと、勝手に決めつけてた」
「けどね、今日のことがあって急に怖くなったの。それで良いのかって。何を忘れているのか、知らないままで良いのかって。……でも、もしも記憶を思い出して、今の私が消えてしまったら? それも怖いよ……」
「どうしたら良いんだろう……私は、どうするべきなんだろう」
纏まりのない話に言葉を挟むことなく黙って聞いてくれたシェリーに、アリスはようやく我に返った。
心の内を吐き出したことで、少し頭がすっきりする。そうすると今まで支離滅裂な話をつらつらと吐き続けていた自分が、急に恥ずかしくなった。
気恥ずかしさを誤魔化すように、顔の前で両手を振る。
「ごっ、ごめんね! 突然こんなこと話されても、びっくりするよね! 気にしないで、ちょっと落ち込んでただけなんだ」
そこでふとアリスが記憶を喪っていることを、シェリーにはまだ話していないことに思い到った。
「そういえば私、シェリーちゃんに六年前以前の記憶がないこと、言ってなかったよね……」
「……以前罰則を受けた時、バーグから聞いた。勝手に聞いてすまない」
申し訳なさそうな顔をするシェリーに対し、アリスは首を横に振った。
「ううん、別に隠してた訳じゃないんだ。だからレイちゃんも話したんだと思うし。私の方こそ、言わなくてごめんね。言いたくなかったとかじゃなくて……シェリーちゃんに変な風に思われたら、嫌だなって。今までも仲良くなった人に記憶がないことを教えたら、急に離れていかれたことがあって」
「……オレにも似たようなことがあったから、言い出せなかったお前の気持ちも分かるよ」
「シェリーちゃんにも?」
「ああ。むしろ本当に謝るべきはオレの方だ。オレはお前が記憶を喪っているのを良いことに、『サーカスのシェリー』を知らないお前に付け込んだようなものだ。……オレも、お前に過去の自分のことを話すのは怖い。お前が簡単に人を差別したりするような人間ではないと、分かっていても」
「………」
「怖いと思うのなら、過去の自分と向き合うのは今直ぐじゃなくても良いと、オレは思う。お前がいつか思い出しても良いと、そう思えたその時に、少しずつ向き合っていけば良い。大事なのは、今のお前がどうしたいかだろう? ――そして、」
「オレにとっての『アリス』も、バーグやヴォルムにとっての『アリス』も、お前だけだ。例えお前が記憶を思い出し、オレ達を忘れたとしても……そこは変わらない」
夏の風が二人の髪を揺らした。シェリーの銀髪が夕陽によってアリスのような茜色に染まり、まるでお互いが鏡のようだ。
その時アリスは唐突に理解した。何故初めて会った時から、シェリーと友人になりたいと思ったのか。
――似ているのだ。様々な理由からどこか歪な関係でしか人と関われない、アリスとシェリーは。
以前シェリーが口にした『異分子』とは、言い得て妙だった。
「……それに、忘れたなら、また一から友達になればいい。何も恐れることなんてないさ。お前は、お前なんだから。そうだろ?」
シェリーがぎこちなく口の端を持ち上げた。
不器用ながらも言葉を重ねてくれた彼女のお陰で、今ならばシューゲルの厳しい言葉も、彼なりにアリスを心配してくれていたのだと分かる。
そう思えた途端、ぐちゃぐちゃに乱れていたアリスの心がすっと凪いだ。
「――ありがとう、シェリーちゃん」
いつも通りの笑顔になったアリスに、シェリーは安堵の表情を浮かべた。
「いや……お前が元気になったのなら、良かった」
シェリーが、少しずつ夜の気配が増している空を見上げた。釣られてアリスも、紫雲の棚引く空を仰ぎ見る。
「そろそろ寮に戻れ。夕食の時間もあるだろう?」
「……うん、そうだね。――シェリーちゃん、次に来る時はレイちゃんとミリィちゃんも連れて来るから!」
「――分かった、待ってる」
シェリーの返事にアリスはにっこりと笑う。
窓を締め教室から出て行くアリスを、シェリーはその後ろ姿が見えなくなっても見送っていた。
「改めてレイチェル・バーグよ。レイで良いわ。宜しく」
「ミリセント・ヴォルムです、ミリィって呼んでねぇ。宜しくねぇ」
アリスの有言実行振りは、あのやり取りから数日と経たぬ内に証明された。
水曜日の放課後。アリスは菓子の紙袋と、テスト前ということで勉強道具を片手に、レイチェルとミリセントの二人を連れて来たのだ。
シェリーも、アリスがまさかこれ程早くに二人を連れて来る等とは思ってもいなかったのだろう。目を白黒させていた。
「……知っているとは思うが、シェリー・クランチェだ。シェリーで良い。宜しく」
アリス以外の三人が自己紹介し合うと、気不味い沈黙が降りる。
アリスが空気を変えるように手を叩き、提案した。
「まずお菓子食べない? 勉強はその後しよう!」
唯一勉強道具を持って来ていなかったシェリーが一度寮へ戻り、その間三人は顔を突き合わせて話し合う。
「アリス、アンタねぇ……シェリーにアタシ達が今日来ること、ちゃんと言ったの?」
「『今度連れて来る』っては言ってたけど、いつとは言ってないかも……」
「すっごい気不味そうだったねぇ……」
「とっ、取り敢えずお菓子を食べれば、お互い緊張も解れるんじゃないかな!」
「だと良いけど」
そんなことを話していると、シェリーが何冊かの教科書と中くらいの大きさの紙袋を手に、駆け足で戻って来た。
「あれ。早かったね、シェリーちゃん。その袋はどうしたの?」
「部屋に戻る途中でクリス先輩に会って……」
紙袋の中身は菓子と、ボトルに入った飲み物だった。
菓子はやはりMr.アダムスの物で、それ等に紛れてクリスご愛食のココアシガレットが一箱、顔を覗かせている。
「お前達と勉強すると言ったら、嬉しそうに押し付けられた」
少々辟易した口調で語るシェリーに、彼女達のやり取りが安易に想像できた。
思いがけず大量の菓子に囲まれることとなった四人は、取り敢えず各々で食べたい物を開封し始めた。
中庭に入れないアリス達の都合上、毎度立ちながらの飲食になってしまうため窓際に机を寄せる。
あっという間に、机の上は菓子で占領されてしまった。
「これ美味しいのよね」
「チョコレートに塩が掛かってるやつだよねぇ! 最初は味が想像できなかったけど、以外と合ってて私も好きだなぁ」
「シェリーちゃん、どれ食べる?」
「……それ何だ?」
シェリーが指差したのは、様々な形を模したクッキーが入った箱だ。
知育菓子の一種で、花や鳥、魚等に型抜かれたクッキーに、それぞれを示す単語が書かれている。子供の頃に、これを食べながら単語を覚えた者も少なくないだろう。
「あー懐かしいわね、それ。小さい頃良く食べてたわ」
「私は単語を見るよりも、食べる方にばっかり集中しちゃってたなぁ」
レイチェルとミリセントの話を聞いて俄然興味が湧いたのだろう。
シェリーが箱からクッキーを一枚摘まんだ。魚の形だ。シェリーは書かれている単語には一切関心を見せず、クッキーを口に運ぶ。
「とても……サクサクだな」
「……ってそれだけ!?」
気難しい顔をしながら短く述べたシェリーに、「美味しいとかあるでしょ、もっと!」とレイチェルが切れ良く突っ込みを入れた。
コント染みたやり取りにミリセントが笑い声を上げ、アリスも釣られて微笑んだ。
アリスも知らず知らずの内に緊張してしまっていたようだ。ようやく肩の荷が降りた心地がした。
アリスを挟まずとも、レイチェルが、ミリセントが、シェリーと会話を交わす頻度は少しずつ増えていき、四人がようやっと勉強に手を付けようと思った時には既に日が沈み始めていた。
それを口実に勉強会は後日に回し、四人はそれから辺りが薄暗くなるまで会話に花を咲かせた。
テスト勉強はこんな調子だったものの、ついに迎えた中間テストではそれぞれ相応に結果を出し、アリスも初のテストで何とか赤点は免れることができた。
それ故アリスの心は晴れやかなものだったが、生物室での妖精の一件が、アリスの頭から離れることはなかった。
――白紙のノートにインクを一滴溢してしまったかのような違和感が、いつまでも拭えなかった。
第6話 もとにもどせなかったって 完
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