第1話 ひゅーんと下へ②
「――誰かそこに居るのか?」
意識が完全に探し物へとシフトしていたアリスは、背後からの誰何に飛び上がった。先生に見つかったのかも、と慌てて振り向く。
そしてはっと息を呑んだ。
――そこに居たのは、美しい人形だった。
しかしそれは彼女の
服装からして生徒だろう。
その証拠に彼女の胸元にはアメジスト寮の生徒であることを示す紫色のネクタイが結ばれ、それには小さくHⅠと刺繍がされている。アリスと同じ、高等部の一年生だ。
この学校では初等部から高等部までの全生徒にネクタイかリボンの着用義務があり、それらは寮の名である宝石の色に因んで色分けされている。
アリスが在籍するエメラルド寮は緑、ガーネット寮は赤、サファイア寮は青、トパーズ寮は黄、そしてアメジスト寮は紫といった具合だ。
学年の表記は初等部はEのⅠ~Ⅵ、中等部はMのⅠ~Ⅲ、高等部はHのⅠ~Ⅲと区分され、これらが組合わさることで自身の所属を示す。
女子生徒は学校指定のスカートかスラックス。あるいは目の前の少女が着用している、ショートパンツという選択肢がある。
少女は背もスラリと高く、ぱっと見るとまるで少年のようだ。男装の麗人とは彼女のような者のことを言うのだろう。
前下がりのボブカットは美しい銀糸で、太陽の光を受けてキラキラと輝いて見える。しかしアリスは、彼女には夜の月明かりの方が似合うと漠然と思った。
風が少女の髪を揺らすと、貝殻のような形の良い耳に着けられたピアスがちらりと覗く。
さすがのアリスにも、それが魔力を抑える魔法具だと直ぐに分かった。教師達の中に彼女同様、魔力制御の魔法具を身に着けている者がいるのだ。
魔力制御の魔法具にはペンダントやブローチといった装飾品タイプの物と、ピアスといった身体に直に着けることで魔力制御の効果を更に上げる物との二種類がある。
学生の身で後者のタイプの物を着用するということは、彼女は余程魔力量が多いのだろう。
彼女のそれは深紅の丸い石のみのシンプルなピアスだったが、アリスの意識に鮮明に焼き付いた。
突然現れた美しい少女に見惚れていたアリスだったが、授業開始の鐘で現実に引き戻された。
「……あっ!!」
もう完璧に遅刻である。冷めた目で淡々と説教をするジストが簡単に想像でき、アリスは震え上がった。
しかし目の前の少女は授業が始まったというのに、動じた様子は全くない。
疑問に思っていると、彼女の手に見覚えのある教科書とペンケースが握られていることに、ようやく気が付いた。
「それ……!」
「お前のか。ならこれで全部か、確認して欲しい」
手渡された教科書は、全て揃っていた。
これで教科書まで失くしていたらと思うと……今日は日付が変わるまでジストの説教が続いていたことだろう。
「……うん、全部あるよ。本当にありがとう!」
「そうか。なら早く授業に行った方が良い。それジスト先生の教科だろう? あの人は怒らせると怖い」
確かに彼女の言う通り、早く行かねば不味いだろう。
だが彼女との出会いがこれで終わってしまうのは、とても惜しく思えた。
「私、アリス。アリス・ウィンティーラって言うの。貴女の名前を教えてくれないかな?」
ただ名前を尋ねただけだったのだが、少女は何か珍しいものを見たかのように、まじまじとアリスの顔を見詰める。
「……驚いた。オレを知らない奴が、まだこの学校にもいたんだな」
彼女は呟くと、唐突にアリスに背を向けて歩き出した。
「えっ!? あの……?」
「この授業が終わった後、普通科は特別演習の見学だろう? オレの名前なんて、そこで嫌でも分かるさ」
特別演習……アメジスト寮、特別クラスの生徒達が一年に一回行う普通科へ向けてのパフォーマンスだ。
多少の例外はあるものの、特別クラスは強大な魔力を有し、且つ強力な魔法が使用できる学生が集まっている。編入者は毎年十人に満たず、今年に至っては初等部から高等部まで合わせて五人しかいない。
そのため彼らを畏怖している生徒は多く、中には特別クラス自体を『化物の巣窟』等と言う者もいる。それ程までに、普通科と特別クラスの溝は深い。
それを憂いたアメジスト寮の創設者であり、現校長のシャン・スタリアがこの演習を企画し当寮を新設した年である六年前より実行しているが、未だ両科の仲に改善の兆しは見えていないのが現状だ。
(できれば貴女の口からきちんと聞きたかったんだけど、さすがにしつこいかな)
アリスもそれ以上は何も言わず、少女の後ろ姿を駆け足で追った。
アメジスト寮のある中庭は広く、その広さは校舎半分位はある。
しかし校則上、普通科の生徒が立ち入ることはできない。もはや開き直ったアリスは授業を遅刻している罪悪感より、普段入れない場所に足を踏み入れているというワクワク感の方が上回っていた。
「ところで、何で普通科の生徒が中庭に? ここは一般生徒の立ち入りを禁止してるはずだろ?」
「その、三階からここに落ちちゃって……」
「三階から落ちたって、何で……いや、ややこしくなりそうだから理由は言わなくて良い。それにしてもよく無事だったな、お前」
溜め息を吐く少女は、呆れた顔をしていても美しかった。麗人はどんな表情でも絵になるらしい。
以降、二人は無言で足を進めた。アリスは彼女に聞きたいことが沢山あったが、彼女の方に答える気がないのは明らかだった。
アリスは友人二人を思い起こす。
レイチェルは新聞部に所属しており、それ故かかなりの情報通のため常に話題が尽きない。
だから三人でいると会話が途切れるということは余りない。どちらかというと、もう一人の友人のミリセントとアリスは聞き役だ。
アリスに至っては話術もなく、話の種になる引き出しも空っぽである。
(こんな時レイちゃんだったら、色々話して盛り上げてくれるんだろうけどな)
「おい、着いたぞ。出口だ。ここからなら、ジスト先生の授業が行われている教室からも近い」
そうこうしている内に目的地に到着してしまった。
アリスは何か言おうと頭をフル回転させるも、気の利いた言葉など一言も出てきやしない。
「……? どうした、行かないのか。もうかなりの遅刻だが」
そうだ。とっくに始業時刻は過ぎている。ここに留まっている余裕は全くない。
それは分かってはいるのだが――。
「――本当にありがとう。特別演習、出るんだよね? 頑張ってね!」
結局、アリスは当たり障りのないことしか言かった。それに対し矢張彼女は不思議そうな顔をすると「いいから早く行け」と、ぶっきらぼうに言い残し立ち去ってしまった。
アリスは彼女の背中が見えなくなるまで見送っていたが、再び授業の存在を思い出し、急いで校舎内へと繋がる扉に手を掛けた。
扉を開けた先には日焼けした壁紙に、掃除の行き届いた廊下、今の時間は使われていない教室と、見慣れた景色が広がっていた。
校舎を離れたのはたった三十分に満たない短い時間だったというのに、アリスは「戻って来た」と懐かしささえ覚えた。
アリスと名乗った少女を無事中庭の出口まで案内し、ほっと一息吐く。
普通科の生徒と話すのは久し振りだった。以前話したことがある普通科の生徒は年上の優しい少女だったが、こちらの素性を知ると臆して近付いて来なくなった。彼女が卒業して既に久しい。
過去の記憶を振り払い、先程の少女を思う。
少女のあの明るい笑顔に、彼女とは住む世界が違うのだと思い知らされた。
少女はまるで太陽のように眩しく、輝いて見えた。あのような人物の周りにこそ、多くの人が集まるのだろう。
――オレとは大違いだ。
暗い考えに陥りそうになった時、足元でくしゃと聞き慣れない音がした。
「プリント……?」
ジストの、それも一年生の授業で使うものだ。
生憎アメジスト寮では使用しないが、彼が寮の教官室に置いていたのを見た覚えがある。
拾い上げ生徒の名前欄を見ると、お世辞にも綺麗とは言い難い癖字で『アリス・ウィンティーラ』の文字があった。
教科書の間に挟めていた物が、落ちた拍子にでも飛んでしまったのだろう。授業で使う物だっただろうに、遅刻をした上に忘れ物とまできたら説教だけでは済まされなくなるかもしれない。
踏んでしまったため少しばかり汚れてしまったそれを、元々ついていた折り目に沿って丁寧に折り直す。返せるならばそうしたい所だが……とはいえ相手は普通科の生徒だ。接点もなければ会う機会もそうない。どうしようかと頭を抱えるも、一つだけ返せる方法を思い付く。
その時軽快な足音がこちらに駆け寄って来るのを微かに捉え、顔を上げた。
「おーい! こんなところにいたのか、シェリー。アノスが探してたぞ」
明るい声と共に姿を現したのは、同じくアメジスト寮の先輩だった。
彼女は三年生のクリス・ベリル。アメジスト寮の先輩は彼女を除くと二年生が一人しかいない。今しがた名前が上がったアノスは、中等部三年生で後輩に当たる。五人しかいない、現アメジスト寮の数少ない同胞だ。
「すみません、今行きます」
答えながら、シェリーはプリントをさっと背中に隠す。
下手に勘繰られる前にとそれをパンツのポケットに入れようとするが、目敏いクリスに見付かってしまった。流れるようにプリントを取られ、その手腕には感服すら覚える。
「凄い癖字だな。でも何でお前が、普通科の生徒のプリントなんて持ってるんだ?」
「……拾いました」
アリスが中庭に落ちてきて、それをシェリーが助けた経緯までは説明する気力がなかったため、ただ一言短く伝えた。色々と話を端折ったことにも気付いただろうに、クリスは特に尋ね返すこともなく「ふーん」と聞き流した。
彼女は他人との距離の取り方が絶妙に上手い。だからこそ癖の強い生徒が集まるアメジスト寮の中でも慕われ、信頼されているのだろう。
「これさあ、ジスト先生に渡せば返してくれるんじゃないか?」
彼女の言う通り、それは一番確実で、手っ取り早い方法だ。だが――。
「……この後の特別演習が終わった時に、自分で渡したいと思います」
ボソリと口にしたそれに、クリスが元々小さくはない目を溢れ落ちそうな程に見開いた。今まで普通科の生徒どころか、自寮の生徒にも余り関心のなかったシェリーが突然こんなことを言えば、彼女が驚くのも無理はない。
「……そっか、良いんじゃないか? お前も可愛い所あるじゃん」
クリスはニヤリと笑うとシェリーの肩に手を回し、そのまま彼女の頭を撫で回す。
「やめてください、髪が乱れます」
クリスがこうして男女関係なく年下の生徒の頭を撫でているのを、よく見掛ける。
素っ気なくしてはいるが、シェリーは他の生徒と分け隔てなく自分を構うこの先輩が嫌いではなかった。クリスもそれを分かっているのか、「またまた~」と言いながら一頻りシェリーの頭を撫でた。
しばらくして満足したのか、クリスはシェリーから離れると、ゆっくりとした足取りで歩き出した。
「そろそろ行かないとな。アタシまで千梨にどやされる。ほら行こうぜ、『
「……その呼び名は捨てました」
その名が意味することを、知らない訳ではないだろうに。
「そうなのか? せっかく格好良いのに、勿体ないな」
クリスはあっけらかんと言うと、再び足を進める。
その後ろ姿に、先程送り届けた少女が重なった。
「……そんなことを言うのは貴女位ですよ、クリス先輩」
もしかしたら
もう望むのは止めたんだ、そうだろう?
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