第1話 ひゅーんと下へ

第1話 ひゅーんと下へ①






 ――まるで夢から覚めたようだった。











 ふと立ち止まり辺りを見回すが入学して一ヶ月程経ったにも関わらず、アリスは自分が校内のどこにいるのか全く検討がつかなかった。



 (ここは何階だろう?)

 (次の教室は何階だっけ?)



 一階より上の階の外廊下なのは確かだ。現に中庭を見下ろしている。

 ロの字形をした校舎は、どこも造りが同じである。そのため自他共に認める極度の方向音痴のアリスには、自身の寮の場所ですら覚えることが難しかった。

 


 (寮毎に色でも塗ってくれれば、ここがどこなのか直ぐに分かるのに!)



 そもそもこうなった原因は、次の授業のプリントが見付からなかったからだ。

 次は移動教室であったため、いつまでもプリントを探していると友人達を待たせてしまう。それが申し訳なかったので先に行ってもらったが、こんなことになるのだったらちょっと位待っててもらえば良かったと今更悔やむ。

 あの時の「私なら行けるから大丈夫!」という謎の自信は、本当にどこから来たのだろう。


 しかも次の授業の担当教師は、時間に厳しいことで有名なジスト・ランジュである。彼の授業に遅れたことのある生徒はアリスのクラスにはまだいないため、どんな恐ろしいペナルティを課せられるのか全く想像がつかない。




 確か教室を出て来たのは十分は前のはずだ。

 こうして迷っている時間を考慮すると、授業まで幾ばくもないかもしれない。


 アリスは慌てて歩を速めるも、次の教室の場所すら分からないという現実に再度ぶつかり、足を止める。

 酷く気落ちしてしまい、アリスは胸の高さ程の手摺壁に背を押し付けて溜め息を吐いた。

 いっそのこと諦めて授業に遅れるか、サボタージュを決め込むしかない。入学早々これでは先が思いやられる。

 手に持っている教科書も、重みを増したように感じた。


 更にもう一回深い溜め息を吐こうとした時、穏やかな風がアリスの頬を擽り、友人達から『夕陽の色』とも称される髪を揺らした。



 今日は風の精霊であるシルフ達の機嫌が良いのだろう。



 ふと髪の乱れが気になり、そっと押さえた。短めで癖が強いそれは、せっかく押さえた手の平の隙間からピョンピョンと自己主張している。


 髪を押さえることに躍起になるアリスの鼻を、甘い花の香りが掠めた。何の花かは分からないが、芳しい匂いだ。 

 どこからか風が運んで来たのだろう。お陰で少し気分が上がる。



 (とりあえず校内に入って、誰かに教室の場所を聞いてみよう)



 生憎髪は纏まらなかったが考えは纏まり、「よし!」と弾みをつけて壁から背を離そうとした時だ。

 突然、先程の風とは比べ物にならない程強い風が、アリスの身体を打った。足元から持ち上げられるかのようなそれに、中途半端な体勢でいたアリスの身体はあっけなく中庭へと落ちていく。




(ここ三階だったんだ……。私、いつの間に階段を上ったんだろう?)




 落ちていく時間はスローモーションのようで、アリスは恐怖よりも先にそんなことを真剣に考えている自分が、何だか可笑しかった。











 ――アリスが中庭に落下する少し前。




 風がふわりと校長室のカーテンを揺らす。

 開いている窓に寄り掛かるようにして、アリスの一挙一動を見詰める女性がいた。

 シルフ達のご機嫌な風が彼女の纏う深紅のドレスと、そのドレスよりも鮮やかな、腰まで伸びた長く赤い髪を翻す。


 その時、執務机に大量の書類がどさりと荒々しく置かれた。

 犯人は彼女の右腕でもある少年秘書だ。彼は非常に有能だが、いかんせん小言が多い。

 これから言われるだろうそれを想像し、彼女は嫌そうな表情を隠さずに振り返る。



「仕事が溜まってますよ、シャン校長。これから外部の方を招いての会議だというのに…… 一体何を熱心に見ておいでなんですか?」



 その問いには答えず、シャンは再びアリスに目を向け、更に中庭へと視線を落とす。

 木々の隙間から、微かに銀色の光を見た気がした。

 シャンは微笑を浮かべ、自分の問いを無視されて不機嫌な少年秘書を顧みた。




「ねえゲイン。貴方、運命って信じるかしら?」




 唐突な話題転換に、少年秘書 ――ゲインは左右で色の異なる目を瞬かせる。

 それを尻目にシャンは窓の外に手を伸ばし、召喚魔法を発動させた。召喚されたシルフは、シャンの命令通り風の魔法を行使する。




 ――そう、




 テラスト魔法学校に於ける最高責任者の突然の暴挙に、ゲインは慌てふためいて窓際に駆け寄った。

 学生だろう少女が中庭に落ちていくのを捉えたような気がしたが、何せ一瞬だったため定かではない。



「シャン校長、何を……!」



「それで? 聞いてないわよ、貴方の答えは?」



 柄にもなく青褪めるゲインを余所に、シャンはどこ吹く風で自身の質問に対する答えを要求した。

 ゲインはそんな彼女を睨みつけるが、当然彼女には暖簾に腕押し。怯んだ様子も一切ない。

 シャンがこういう態度の時は、大体にして穏便に事が済んでいる。今までの経験則からして落ちたかもしれない生徒は無事だ、そのはずだ。

 自身にそう言い聞かせ一度深呼吸すると、ゲインは彼女の目を見てきっぱりと言った。




「貴女が信じていないものを、ボクに聞かないでください」




 シャンは切れ長の目を丸くすると、次いで「そうね」と美しく笑った。











「助かった……の?」



 どうにかこうにか、アリスは生きていた。

 防御魔法を駆使する間もなく三階から落ちたものの、中庭の大小様々な草木達が上手いことクッションになり、落下時の勢いを殺してくれたようだ。

 露出している手足や顔に多少の小さな切り傷はあるが、この位ならば自身の回復魔法で治せるだろう。

 アリスは自分を受け止めてくれた、丸く剪定された低木から這這の体で抜け出した。頭から爪先まで葉っぱだらけだ。



「君達は私の命の恩人だよ、ありがとう」



 念のため枝が折れてないか確認してから、アリスは立ち上がった。

 持っていた教科書は、落下時に散らばってしまったようだ。そこまで遠くにいってはいないとは思うが、教科書を見つけたとして今度は中庭の出口を探さなければならない。

 


『四寮に属する生徒は、中庭への立ち入りを原則禁ずる』



 高等部ここの校則の一つだ。



 この学校には全部で五つの寮がある。

 その内の四寮――普通科とも呼ばれるエメラルド寮、ガーネット寮、サファイア寮、トパーズ寮は高等部の校舎四階にそれぞれ寮がある。

 だが残る一寮。アメジスト寮は件のジストが寮長を務め、特別クラスとも呼ばれるその寮は校舎外――それもこの中庭にある。



「誰かに見つかる前に、教科書を探してここから出ないと……!」



 授業はこの分では間に合わないことは確実で、その上校則違反までしたとなれば罰則必須だ。

 アリスはその場にしゃがみ込み、自分の持ち物を探し始めた。


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