第十七話 憧れ
「ふわぁ」
町田百合はこの頃ようやく中学二年生を終えるところ。これから春休みを過ごし三年生に上がってから直ぐにアイドルとして己を売り出していく予定である。
雪が溶けて花が咲く。
そんなことはとある島の雪国の当たり前なのかもしれないが、実のところ凍土がずっと溶けない地もあることから、花の綺麗もある種の贅沢品と考えることも出来るかもしれなかった。
そして、地獄を抱き続けて傷つきながらもそこから目を逸らさずに生きてきた百合にとって、そろそろ己の幸せが高まり続けていることに違和感すら覚えだしてきたようである。
「何か、こんな感じで大丈夫ですかねぇ……」
今までずっと、花どころか蕾も見えない地獄的な荒野にあった百合の根。しかし蓄えた哀の滴を基にしてようやく彼女は美しい花を咲かせようとしている。
その喜ぶべき開花が、しかし百合という少女にとっては不安なものでもあった。
今は確かに幸せだ。けれどもそれを続けて楽をした挙げ句に、どこかで蹴躓いて落ちてしまえば実に大変だろう。
ここまで幸せな当たり前を得たことがなくて百合はどこまで調子に乗れば良いか、それが分からずに。
友達に自慢することすらせずにただ悩みを続けた彼女はただ今昼休みの教室にて、酷くぼやっとしながら空を見上げていた。
小さな手のひらの上には、箸が二つ。ピンク色をしたそれらは、見つめる友人を前にして所在なさげに空を切った。
「ぼへー、ですぅ」
「あ、百合ちゃんぼーっとしてるー。えい、ほっぺつんつん!」
「ぷへ、ゆず、止めるですぅ! 私も別にぼうっとしてるわけじゃなかったですぅ。ちょっと三年が居なくなったらなんだか騒がしさがなくなったって考えてて……」
「ふふ、百合ちゃんが隙見せてるのって珍しいねー」
「そう……ですかぁ?」
「うん、前はもっととげとげしてたよー。それこそウニみたいに!」
「とげとげしいのはまあ、百合的にはアリですがでも海産物みてぇってのはいただけないですねぇ……私も昔は我ながら格好悪かったもんですぅ」
「そーだねー、うにうにー」
「ああっ、ウニウニ言いながら人のベントーから唐揚げさらってくなですよぉ」
「百合ちゃん手作りうまうまうにー」
「ったく……がっついて喉詰まらせるなですよぉ?」
「はーい!」
唐揚げを対価に友達から貰った気遣いをひじきといただき、薄い胸の奥でもぐもぐ。
そして、うにだのうまいだのずっと騒いでいる、そろそろ無理だから志望校を変えろと言われ出している杉山ゆずの呆けた面を眺めながら、百合は自分が何を阿呆なことで悩んでいたのだろうと理解するのだった。
「……今更、びびってどうするですよぉ」
百合は、間違いなく最低値の少女だった。また、そんな自身を努力という無茶で人並み以上に飾ることに成功した、炎でもある。
そんな多少の冷や水ぶつけられたくらいでは更に盛んに燃え上がるだけな百合が、不安という形で失敗を恐れるなんてあまりに下らない。
まだまだこれくらい、最盛には遠い熾火。もっともっと、幸せになり、その分だけ皆を幸せにだってする。そんな目標に進むためにも足踏みするなんてあまりに愚かだ。
「うにうにー」
「はぁ、ゆずったら、まだやってるですぅ。こんなのに、私は憧れててぇ……」
そして何より、バカの見本は隣にあった。指先をツンツン、ボケボケを続けている彼女は不断の努力を普通であり続けるために行わず、怠惰にも抜きんでた他人を崇めてくる愛おしい友達。
こんなものにはなりたかったけれど、自分ではとてもなれないのだから、なら彼女らが見上げる一歩先へ。アイドル、そしてその頂上にて百合は全てに対して地獄の意味を教える。
そんな夢は、しかし今や地続きの現実と化している。いかに泥濘じみていて進みにくかろうが、それでも前へ足を出していくことは幸せに他ならなくって。
「そして、これからは百合が皆の憧れに成らなきゃダメですよねぇ」
「トゲナシトゲトゲー」
「ゆず、いつの間にかウニから変なのに変わってたですぅ! その生き物、トゲがあるのかないのか、どっちですぅ?」
「んー? 実際は百合ちゃんみたいに、トゲないよー」
「そう、ですかぁ……」
故に、百合にはこれまで自分を踏みつけ続けていた他人のための太陽に成ることをすら仕方ないと認めてしまうような、そんな余裕さえ出ていたのだった。
ああ、地獄に仕返しの選択肢なんてもとよりありえない。悲惨を観るものに教えるくらいの無力に、反撃の拳なんて許されることもなくって。でも。
そんな弱々しさは、果たして優しさとどう違うというのだろうか。
虐げられた最弱ほどこの世の悪を知っていて何よりも安全な存在だというのに、どうして駆け引きのための優しさという道具を愛する生き物ばかりが礼賛されるべきなのだろう。
罪科に罰には、ひょっとしたら目を背けたく成るほどの価値があるのかもしれないというのに、誰もかもが知らん顔。
でも、誰より地獄を自分の瞳の裏にて見続けてきた百合ばかりは死に至るほどの罪を知っていて、そうしてようやく理解をし始めたのだろう。
そう生きることこそ死ぬほどの罪であり、ならばその中で輝くことはどれほどの。
そして、そんな全てを察してトップアイドル足らんと足掻く少女の頑張りにはいかほどの値打ちをつければいいのだろうか。
「ふふ」
ぼわり、と胸の中で地獄が踊る。つられて、百合は微笑んだ。
「そいつは素敵な生き物ですねぇ」
「だよねー!」
アイドル。地獄。全く違う筈の偶像が、百合という少女の中で一つになろうとしていた。
「町田百合……」
それはたっぷりの糖蜜を愛で磨いたような、柔らかくも甘い声。とても上等なその音色を持って、彼女は平らに少女の名前を呟く。
そこに、害意はない。更に、感慨も薄かった。
だが、それでもひょっとすると。
「友達に、なっておけば良かったかな?」
彼女の内に多少の愛はあったのかもしれない。
百合の中学校、市立見原北中学校には、現在二人の身近な生徒たちのアイドルが存在している。
一人は、百合である。底辺を這いずっていた筈の少女の美化は、多くに嫌われながらもしかしほとんど全てが認めざるを得なくなるくらいに極端に至っている。
目隠しをしたままだろうがアイドルとして、相応しい。少女は親愛なる、ヨモツクニオブジェクト。
性格の独特さも、好き嫌いが分かれようが好きには極端に愛される結果に繋がり、多くのファンを作ることになった。
それは、満場一致に認めているとは言えずとも見原北中の大勢が百合という存在を無視することが出来なくなっている程。
「ふう」
「どうしたの、夕月さん」
「いえ、ちょっと愛が重くって」
「あー……ラブレター的な何か? 今日もお疲れ様!」
「はぁ……変わって欲しいものね」
そして、もう一人。所属を間違えたような人でなしの美を持った佐々木夕月といえば、アイドルとして崇められるレベルを超えて認められていた。
綺麗といえば彼女である。それは、百合のファン達のほとんどですら認めること。
ましてや、夕月のファンなんてこの他に太陽なんてないだろうとすら考えている節すらあるのだった。過激派の一人は、少女に問う。
「そういえば、夕月さん。あのバカ百合どうすんの? 最近あいつ、調子に乗りすぎじゃない?」
「百合さん、ね」
「うん。なんか周りのがファンとか言っててキモいし……私、なんとかしてあげようか?」
「はぁ……そういうのは、ワタシ嫌いよ?」
「……そう、だったね」
逃げるように去るいじめっ子の背中を、彼女は別段睨みもしない。
虐め嫌がらせのような穢れた行為を否定するくらい内面は、そこそこ。そしてそれ以上に外面がどうしたって夕月は可憐な少女だ。
幼い頃の贅の渦中から抜け出し祖父母の親愛に囲まれるようになり、その溺れるようなスキンシップから離れて一人暮らしを望むようになった今も変わらず彼女の表面レイヤは愛らしい。
自分が美しいなんてそんなこと、言われ飽きるずっと前から知っている。神が望んだその造作に、手抜かりなんてどこにもなかったと筈なのに。
『夕月ちゃん?』
けれども、それは違うのだ。とある少女との遭遇が、真実を教えてくれた。
美しさは誤差である。そう、夕月は考えていた。
幼い頃からサテンのドレスの裾を掴みながら、社交の合間に美しく着飾った醜いものをよくよく見てきた少女にとって、美とは表層に過ぎない。
人の芯はそこにはないのに愛をさらっていくその薄っぺらは、むしろ彼女の白藍色の瞳には邪魔にすら映っていた。
父は不憫である。母が努めた美麗を底なしと勘違いして結ばれてしまったのだから。
母も不憫である。父が勤めた大金を底なしと勘違いして結ばれてしまったのだから。
両方とも、ミリが計る単位に丁度いい、その程度の浅薄だと言うのに。
そして、当然のように愛情だって無限ではなかった。だから、尽きた二人が別れてしまったのも、至極当たり前のことだったのだろう。
そんなこんなをトラウマにして、だから少女は一時期自分の面構えすらも忌んでいた。
しかし、夕月は最近になって本物を知った。
『夕月ちゃんは、可愛いよ!』
そう、夕月の美しさなんて、彼女にとっては可愛らしいものでしかない。
それは、位階違いのカオリナイト。純度も白の意味すら異なる、何か。
夕月の輝きは惹き付ける灯。それの光は利己をも消し飛ばす日。
ああ比べてしまえば悍ましいくらいの我が不揃い。婀娜なんてどこまでも心の汚れのこびりつきでしかなくって、己の美点だと思っていた全ては何もかもにも価値がなく。
「ワタシ、本当に……キレイなの?」
放課後教室に留まり、一人。アイドルみたいだった彼女は、しかし今は吹けば飛ぶ葦の自認しかない。
「ああ……あの人に対しては憧れることすら、出来ない……ぐ」
そして、彼女は遠く大勢の活動の響きを耳に入れながら、それを思い出すたびにぐらぐらする自我のために一つ過去を想起した。
それは、愛されすぎていた彼女の最新の痛みの記憶。正気を保つためのきつけになる唯一。
『はぁ?』
虐めが目の端に通り過ぎて、だから咎めた。
それこそ、あの日の彼女はバレンタインに学校に持ち込んだケーキをおともだちに踏みつけられ大変に困っている様子で、だからこそ夕月は手を伸ばしたのだ。大丈夫かと、笑いもせずに。
『哀れむなですぅ。あんた、いつか地獄に落としてやるですよぉ?』
しかし手痛くそれをはたき落とし、町田百合という本物は、優越心に汚れた夕月の心を見透かしてくれたのである。
「っう」
痛かった。また少女の怒りはどこまでも正当だったと本物の美を見て心壊した彼女は今更ながら思い、あの日の幻痛を忘れられない手の平を抱く。
ああ、この痛みこそ正しく、ならば間違っていてもそれを抱いて生きることこそ意味がある。これ以上、傷まないためにも。
「あの子には……感謝しないと、ダメね」
そう信じざるを得ないくらいに、今の夕月は百合にその手を振り払われたあの日の感触こそが、支えである。
「何時かワタシも地獄にいけるかしら?」
そして美観壊れた最悪の世界の中で思わずそんな呟きを漏らしてしまうくらいに、既に少女は終わりかけていたのだった。
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