私立銀錠学園の幻実
閏月かむり
第一話 猫の胎
あい【愛】(名)
①相手を好きでたまらないという気持ちや、たいせつに思う気持ち。
②どんなに犠牲をはらってもたいせつにしたいと思う気持ち。
***
「愛という名において、一個人の権利を侵害する教育が罷り通っている現代社会はいかがなものだろうか。日本の教育はもっと子供を一人の人間として重んじるべきだとは思わないかい?愛しているから何をしてもいいってわけではないだろう。これは貴方のためなのよというその一言で、どれほどの子供が青春という貴重な時間を無為に費やされたことか。私はその考えを断固として辯駁(べんばく)するよ。愛という免罪符をもってして行われる子供の自由権を制限する教育方針は、日本の教育界の悪質な問題として即刻議題に挙げられるべきだ」
そんなことを花の女子高生には到底似つかない口調でつらつらと述べた社印堂美々奈(しゃいんどうみみな)を、更紗雪葉(さらさゆきは)は呆れた視線で見つめた。
「それが?」
声にも呆れたような調子を出す。もはや呆れるという言葉の用例に出してもいいくらいの雰囲気を醸し出す雪葉に構わず、美々奈はびしいっと雪葉を指で差し、
「つまりっ!私の赤点を理由にスマホを没収することは、私のスマホの所有権と、私の行動の自由権を侵害している!!」
とても残念なことを言った。
雪葉は呆れた。いやもともと呆れていたが、それよりさらに呆れた。呆れてものも言えないということわざはこういう時のために使う言葉なのだな、と思った。でも本当に何も言えなくなったら困るので、古き別に良くないことわざを反証するために雪葉は口を開いた。
「赤点取らなければいいだけの話じゃない?」
正論だった。まごうことなき正論だった。一分の矛盾も隙もない発言だった。正確無比の砲撃を受け、美々奈はむぐうっと奇妙な声を出して机に倒れ込んでくる。彼女が耳につけている三日月型のヘアピンが机に当たりかん、という音を立てた。人の机を占領するのは止めてほしいと思った。
「だってーだってさー興味ないんだもん」
ぐだぐだに崩れながら気の抜けた声を出す美々奈。先程まで(内容はともかく)見事な演説を教室の片隅で繰り広げてた彼女は何処に行ってしまったのだろうか。たぶんどこにも行っていない。行くとしたら彼女の頭の中にであろう。きっと疲れたので寝に帰ってしまったのだ。次回の講演をお待ち下さい。
「それにひどくないかい?いくらなんでもひどくないかい?スマホ没収は流石にひどいだろう?これじゃあログインボーナスを貯めることも息抜きに漫画を読むことも友達とラインすることもできない!」
自らの子供の将来を憂いて心を鬼にし画期的な措置を取った両親に対し、ぶくぶくと不満を溢す美々奈。雪葉はそこに容赦なくトドメの追撃を差し込む。
「勉強してほしいんでしょうよ」
うぬーっと奇妙な鳴き声を上げる美々奈に、雪葉は例年通り変わらない質問を投げかけた。
「どうして最初からやらないの?どうせ勉強しなきゃなんだから、一回で終わった方が楽でしょ」
赤点常習の生徒一同がそれが出来れば苦労しないんだよとキレること請け合いの素朴の疑問を受けた美々奈は、しかし余裕をもった笑みで人差し指を軽く振る。チッチッチの声が微妙に鬱陶しい。
「わかってないなぁ。わかってないよゆっきー。そういう、合理的な思考にわざと背いて自らの知的好奇心を満たすために行動することこそに意味があるんだとも。みんなが勉学の苦痛に呑まれているその最中に味合う、やりたいことをやっているという喜び!一度やったらやめられないねっ」
「美々奈が勉学の苦痛に呑まれているとき、他の生徒たちは解放の自由を謳歌しているけれどね」
再びぐぬうっと机に突っ伏す美々奈。
周りが和気藹々となっている中一人で苦しむより、周りと一緒に苦しむ方が何倍もマシである。負う労力は同じはずなのに精神的苦痛は山の頂上と海の底ほどにも差があるのだ。人間の精神構造とはかくも不思議なものだと思う。
そもそも、先程美々奈が言ったような権利を主張するなら義務も果たすべきなのだ。学生の本分とは勉強だ。1にも2にも勉強だ。別に死にものぐるいでやる必要はないが留年しない程度には頑張るべきなのである。それが義務教育を卒業し、高校に進学することを選んだ私達の義務なのだ。
と、いうようなことを雪葉が懇切丁寧に語りかけると、美々奈はやめてえぇぇっと耳を塞いだ。もはや痛すぎて聞いていられなかったようである。
「ぐうっ!なんなんだい親も先生もゆっきーも!同じことを何度も何度もぐだぐだと!飽きないのかい?!」
たぶんそれが正論だからだろう。
「もうっ。そんなに言うならやってやるとも!見ててよ!最速で留年を回避してやる!」
最後に捨て台詞のようなことを言って美々奈は教室を勢いよく出ていった。たぶん勉強しに家に帰るんだろう。今は放課後で、美々奈も雪葉も部活はしていないのでこれ以上学校に残る必要は特に無い。今まで残っていたのは、単に美々奈の現実逃避という名の愚痴に付き合っていただけなのだ。時計を見ると、針は五時近くを差していた。雪葉は溜息を吐く。例年繰り返されていることであるが、もう少しなんとかならないものかと雪葉は考えた。去年もこんな事を考えて、一昨年もこんなことを考えた覚えがある。そして今年もなんらかの進歩はなくまた同じことを考えているので、たぶん来年も同じことを考えるのだろう。また雪葉は溜息を吐いた。
雪葉と美々奈は幼馴染だ。幼稚園から高校2年生の今に至るまでずっと一緒だった。ここ、私立銀錠学園は小・中・高・大まで揃っている一貫校である。おまけに幼稚園まで附属しており、雪葉と美々奈は銀錠幼稚園からこの銀錠高校までエスカレートで進学している。ようするに雪葉と美々奈は人生の大半をこの銀錠学園で過ごしているというわけだ。ちなみに雪葉は中学の頃から寮生活である。だから人生の大半をここで過ごしたという言葉もあながち過大表現ではない。
すでに帰りの用意はしてあったので、鞄を肩に掛けて教室を出る。まだ教室には数人が残っていたので特に戸締まりすることもなく教室を出た。雪葉と美々奈がいる2−Cは、雪葉たちと同じくエスカレートで進学してきた子が多いため美々奈のあの騒ぎも華麗にスルーしていた。なんせ毎年のことなので。
カツカツとシューズが廊下に当たる音が響く。微妙な時間帯なので、人影は見当たらない。2月も終わりが近いこの頃。あたたかくなってきたなぁと思いながらぼんやり歩いた。ぼんやり歩きながらやはり頭に思い浮かぶのは、美々奈の先程のヤケになったような顔である。
(本当にどうしてやらないんだろうなぁ・・・・・・。やればできるのに)
つい今しがたチクチクと美々奈に正論という名の釘を差していた雪葉だったが、なにも本当に美々奈が留年するなどとは考えていない。それはエスカレートで上がってきた生徒は留年しにくい、という私立学校暗黙の事情もさることながら、ひとえに彼女の頭脳が優秀だからである。
美々奈はやれば出来る子だ。
いいや、”とてつもなく”出来る子だ。
彼女は頭がいい。間違いなくいい。学年でトップ10に入る雪葉よりも、この学園の誰よりも頭がいい。もしかしたら大学の教授にだって張り合えるかもしれない。それくらいに賢い。
思い出す。幼稚園で初めて会ったとき、彼女は黙々とドミノでミニサイズの「サクラダ・ファミリア」を作っていた。ドミノでだ。しかも色も濃淡も模様もすべて再現した上で。センチどころかミリ単位のズレさえ許されないであろう完全再現。わずか5歳程であったろう彼女は幼稚園に存在するドミノを全て使って(少なくとも6箱はあった)、スペインが誇る天才建築家ガウディの遺作を黙々と作っていたのである。ドミノで。何度も繰り返し言うがドミノで。丁度その頃他の子供よりも何段階か上の精神構造をしていた雪葉は、まあぶっちゃけていえばマセていた雪葉は、彼女が何を作っているのか、それがどれほどの偉業であるのかを正確に理解した。今彼女が世界の最高建築、永遠の未完成作品、天才ガウディの遺した至高の芸術作品を”ドミノで”再現しているということも、それを幼稚園生がやることがどれほど馬鹿げていることなのかも。正確に明確に的確に理解していた。ーー不可能。そんな言葉が当時5歳だった雪葉の脳裏を過ぎった。だが、目の前の光景がこれが現実に起きている事象であるということを示している。雪葉は唖然とした。自分の目と頭が壊れたのかと疑ったが、隣にいる保育士の先生も唖然としていたのでそうでないことは一秒後に理解できた。
天才。その一言が、簡潔に提示された光景だった。
周りの子よりも少し賢い子供ならば、一度でも考えたことがあるであろう。自分はもしかしたら天才なのでは、と。雪葉も例のごとく例に漏れずそういう思考に陥っていた黒歴史時代があった。あのドミノ・サクラダ・ファミリアを見た瞬間に、そんな妄想は粉々に打ち砕かれたが。あの光景が示していたのだ。”天才”というただその一言を。天才とはこういう事を言うのだ、と頭に直接教え込まれたような気がした。雪葉は、たとえ自分が大人になったとしても彼女と同じものを作れるような気はしなかった。一ミリさえも想像できなかった。
社印堂美々奈という女の子は、初対面からそういう並外れた子供だった。
人が1を理解するときに10を理解しているような。
ではどうしてそんな空前絶後の天才児が毎回赤点を取っているのかというと。
(興味ないことにはとことん力が発揮出来ないタイプなんだよね・・・・・・美々奈・・・・・・)
先程美々奈が教室で愚痴った通りである。彼女は自分の興味関心が向かない分野では頭もやる気も働かせないのだ。本当にどこまでも。一度読んだらだいたいのことは覚えるという彼女がテストで赤点を取る理由は、教科書すら読んでいないことに他ならない。授業にもほとんどいない。この学校が出席日数に対してはいい加減で成績さえ取れてたらいいという放任主義かつ実力主義的な校風であったから良かったようなものの、他の学校であったならとっくに退学だっただろう。おまけに飽きっぽい。あの初対面の日、雪葉の目の前で完成間近だった、もはやアーティストが作った芸術作品にしか見えなくなっていたドミノ版サクラダ・ファミリアを遠慮容赦なくぶっ壊したのは美々奈である。慌てて理由を聞けば、彼女は「ドミノ遊び、飽きた」とだけ言った。おわかりいただけるだろうか。あの圧倒的なまでの芸術作品を”遊び”と言ってのけ、挙句の果てには完成目前でただ飽きたからという理由だけで躊躇いもなくぶっ壊すこの天才性。微塵も人の気持ちを理解していない。雪葉はなんかイラッとしたので美々奈の頭を軽くはたいた。
とまあこんな風に、猫のごとくなマイペースぶりなのだ。およそコツコツとやる勉学にはまるで向いていない。ちなみに留年は絶対嫌らしく再試はほぼ確実に満点だ。(たまに100点を超えているときさえある)できるならどうして最初からやらないのっ?!と憤り涙してきた教師達が今まで幾人いたことだろう。同情を禁じ得ない。
美々奈がたま〜に興味を惹かれる分野が授業に組み込まれるときは、彼女が他の生徒を押しのけて空前絶後の何かをやらかす。そのたびに教師の胃が捩じ切れそうなのを雪葉はずっと見てきていた。それは例えば家庭科の授業で鳳凰の形をしたウエディングケーキを作ったことだったり、技術の授業で三輪車にのるピカチュウ(自動型)を作ったことだったり、総合の時間でミトラ教なんてマイナーもマイナーな宗教の起源をそれはもう完璧に調べ上げてきて発表したことだったりした。
そのたびに雪葉は驚嘆し同情した。主に美々奈の普段の超低空の成績とときたま出すクリティカルなヒットを内申書に付けなければならない先生たちに。これほどまでに扱いにくい生徒もなかなかいないだろう。それでも泣き言ひとつ言わず黙々と職務を全うする先生方のなんと尊いことか。美々奈は彼らに文句を言う前に謝辞を申し上げるべきである。
などということをつらつらと考えながら渡り廊下を歩いていると。
「あっ」
「へ?」
イギリスの聖歌少年隊にでもいそうなアルトの声に反応して思わず声の方を見ると、これまた美少年らしい美少年が雪葉の方を見つめていた。・・・・・・いや、正確には雪葉の足元を。
つられて下へと視線を向けると、自分のシューズがプリントを踏んでいるのを見つけた。
「わっ」
慌てて足をどかす。ぼーっと考え事をしてたせいか、全く気が付かなかった。プリントを拾って指で汚れを落とそうとするも、悲運なことにシューズの痕がくっきりとついてしまっていた。シューズの痕をなんとか落とそうと格闘する雪葉の所まで、美少年が歩いてくる。腕にはプリントの束が抱えられていた。この一枚はあれらの中の一枚なのだろう。
「・・・・・・あ。ごめんね、踏んじゃった」
「いいんだ。気にしないでくれ。落とした僕が悪いんだし」
そう爽やかに微笑む美少年。まさに学園系王子様の鏡のような笑みであるなあ、と雪葉は思った。ちなみに本当に私立銀錠学園の王子様とお呼ばれである。ファンクラブもある。学年1の有名人、テスト順位は常にトップな勉強も出来るイケメンとはこの2−Cの完璧王子、白紙縒(つくもこより)のことである。控えおろう。
「本当にごめん。これ、痕ついちゃった」
「大丈夫だよ。いつも3枚くらい余るから。もし足りなかったらまた後で先生に貰ってくるよ」
脳内で水戸黄門ごっこをしていることなんかお首にも出さず会話を続ける雪葉に、そう言葉を返す白。学級委員の鏡だなぁと雪葉は思う。水戸黄門ごっこをちょっと申し訳なくなった。
「先生に頼まれたの?」
「そうなんだよね。今月の分の学校だより。でも、ちょっと風が強くて・・・・・・」
渡り廊下には周りに風を遮るような遮蔽物がないため、しばしばこういう悲劇が起こる。中には空の彼方に飛んでいって戻ってこなくなってしまった悲しい神隠し事件まで発生している始末だ。こんな重大な事件が未だ解決されていないなんて、日本の警察は何をしているんだろうか。
雪葉から汚れてしまったプリントを回収した白は、その茶髪を夕日にきらきらと輝かせながら言った。
「あ、更紗さん、明日日直だったよ」
「・・・・・・忘れてた」
そういえばそうだった。危ない危ない。思わず思いっきりサボる所だった。こういうところで日直の仕事を忘れるなどの凡ミスをしてしまうと、クラスメイトとの信頼関係が微妙なものになってしまうのだ。たかが日直、されど日直。こういう積み重ねで人は信頼を失っていくのである。まあ今2年生の2月だから今更すぎるけれど。なんならそんな失敗、もうすでに五、六回はやらかした後だけれど。
教えてくれてありがとう、忘れる所だった。と礼を言うと、どういたしまして、という声が返ってきた。
そこで雪葉は白と別れ、寮へと帰宅した。
翌日、雪葉は早起きをして朝早くから学校に登校した。具体的には30分くらい。理由は簡単。日直の仕事が学校で雪葉を待っているからだ。
早朝、誰もいない教室の扉を開け鞄を自分の机に置こうとする。と、机の上に真っ白な立方体の箱が置いてあることに気づく。手のひらに収まるくらいのそれは机の端の方に配置されており、雪葉は見覚えのないその箱に眉を顰(ひそ)ませた。荷物を床に置いてその箱を手に取る。おかしなことにその箱は木材でできていた。マシュマロもかくやというような漂白色の木目が見える。もしかしたら真っ白な木というのも世界にはあるのかもしれないが、生憎雪葉は寡聞にして知らなかった。塗料が使われた形跡もない。
ああ、”また”か。
突如机に出現した身に覚えのない木箱を、雪葉はなんとも言えない瞳で見下ろす。身に覚えはないが慣れてはいた。はあ、と浅く溜め息を吐きながら蓋に指をかける。まあどのみち確認すべきだろう。はたして、なんの音も出さずに木箱の蓋は開いた。中には真紅の布が敷き詰められており、その上には。
ーーからからに干からびた、人間の小指が載っていた。
「・・・・・・・・・」
茶色に変色してもはやミイラ同然になっているそれを、眉を顰めたまま睨む雪葉。
そのとき、ガラガラという音が響いて「あ、おはよう、更紗さん」という声が聞こえた。振り返ってちらりと視線を向けると、白が教室に入ってきていた。今日は日直だから早いんだね、と朗らかに話す白。平時でも早朝登校。さすが学級委員中の学級委員だ。
ああ、でも。
(これはちょっと、まずいかもしれないなぁ)
とりあえずと雪葉が木箱を隠すように机の中にいれようとした時、教室内の空間が、ぐにゃりと。そうとしか表現出来ないような、そんな風に空気が曲がった。
***
約束の日から、もう幾日が過ぎただろう。
一向に来てくれないあの人を想って、心が昏い声を吐き出す。
裏切られたのだ、と。
嗚呼そんなはずはない。そんなはずは。
けれど待っても、待っても、あの人は来ない。もう半年は過ぎてしまった。これからまた、いつまで待てばいいのか。
自らの小指を懐紙で包み、小刀をそっと当てる。ひんやりする感触は、寒気を催し恐怖を喚起した。いやだいやだと泣き叫ぶ心と、こうしなければおかしくなってしまうと喚く心が鬩(せめ)ぎ合い、とうとうゴトン、と刃が落ちた。
痛みに絶叫しながら、ただただ願う。乞い願う。
どうか、はやく、はやく、一刻でもはやく、迎えにきて。
裏切られたのだと、嘘つきと、惨めに叫ぶこの声を殺して。
嘘ではない、嘘ではなかったと証明して。どうか。
そうでなければ、きっと私は狂ってしまう。
***
「ーーは?」
ぽかん、という表現がよく似合うような声が聞こえて思わず瞑っていた目を開くと、視界に入ったのは明明(あかあか)と立ち並ぶ提灯だった。
ぐるりと視線を巡らす。周りは、昔の日本のような夜の街・・・・・・花街って言うんだっけ。とにかく、そんな様子の町並みに変わっていた。当然の如く夜だ。先程まで午前七時半で、学校の中だったというのに。毎度のことながらなんて理不尽なんだろうと思う。怪異なんて現象は、いい加減物理の教科書に叩(はた)かれるべきだ。
「え、は、え?」
まともな単語を発生できず、1文字ずつの声で驚嘆を端的に表している白に目をやる。目の前の光景に混乱しているようだ。まあ分からなくもない。混乱もするだろう。初めてならなおさら。なんせ自分の信じてきた常識を一瞬で塗り替えるような現象が起きているのだから。
(・・・・・・あぁ・・・・・・。巻き込んじゃった・・・・・・)
いや私の責任ではないけれど。完全に怪異のせいなわけであるけれど。
それでも、あの木箱が原因だとするならば(というかたぶん絶対そうだ。木箱いつの間にか消えているし)、彼がこの現象に巻き込まれたのは私が原因であるのに他ならない。
「白くん」
「あ、更紗さん」
はっ、と今はじめて雪葉の存在に気づいたかのように声を上げる白。
「がんばろう」
「・・・・・・っえ?」
なので雪葉は、此処から彼を五体満足で無事に帰さなければならない。それがけじめというものだ。
ーーこの、理屈も常識も理論も玩具のように弄ぶ、怪奇現象の最中から。
小さい頃から、よく不思議なものが見えていた。
それはたぶん、妖怪、幽霊、怪異、都市伝説。呼び方は様々だけれど、雪葉はそういうものを物心がついたときからよく見ていた。此方からよく見えるということは、あちらからもよく見えるということ。見えるなら干渉が出来るし、だから私はこうやって怪異に巻き込まれたりしていた。子どもの頃から。幸いにして雪葉はそういうものに対応する能力が本能的に備わっていたので、致命的な状態に陥ることはなかった。でも、だからといって対応を間違え下手を打てば最悪死よりも酷い目に遭うことになるこのデスイベントを定期的に経験している今のこの状況を許容しているわけでもない。可及的速やかに駆逐したいと思っている。こうして他人が巻き込まれることもたまにあるし。
「これが・・・・・・たまにある・・・・・・?」
と、上記のようなことを説明したときに白が発言した言葉がこれである。まるで未知に出会ったかのような顔をしていた。これが俗にいう宇宙猫というやつなのであろうか。
ちなみに今、雪葉と白は提灯が立ち並んでいる街路を歩いて進んで行っている。彼処で立ち止まっていてもしょうがないだろうし、進もうと雪葉が言ったのだ。街路が一本道だったおかげで、いまのところ迷わずに進めている、と、思う。たぶん。
道行く男性たちは皆様々な動物のお面を付けていて雪葉達の方を見向きもしていなかった。一歩、一歩。まるでそういう行列行事かなにかのような拍を取り、動きを合わせて歩いている。その動きに一切の乱れやズレはなく、まるで軍隊の行進のようだ。着物とお面にこの歩き方は、なかなか不気味な雰囲気を催させる。
白は会話をしながら彼らを警戒しているようだが、雪葉はたぶん大丈夫じゃないかなあーと思う。
というかたぶん、彼らは。
ーー餌、なんじゃないだろうか。
「それで、その。どうやって脱出するんだ?此処から」
白が辺りを警戒しながら雪葉に尋ねる。緊張はしているようだけれど、怯えている様子は一切ない。意外と肝が据わっているというか。先程の混乱も、恐怖ゆえではなく理解が追いつかない状況への当惑が原因であるようだし。などと思いながら、雪葉は口を開く。
「さあ。まずはこの境界の主を探さないと」
「ぬし?」
「此処で一番力を持つもののこと。私達を攫った誰かが当てはまるかな、この場合。まあ、いない場合もあるんだけど」
偶然はたまた神のいたずらでぐちゃぐちゃした空間が発生することも、あるにはある。特筆して強い力を持つものがおらず、それゆえに混沌としていて、規則性がなく、一段と歪みが酷い場所。世界のいらない玩具箱。彼処に辿り着くものは大抵、終わることもはじまることも出来ない。怪異にすら成れないモノたちの吹き溜まり。理屈はなく、感情はなく、命もない。雪葉はそのような場所を狭間と呼んでいるが、此処は狭間というより異界が近いだろう。異界とは、ある独りの、或いは多数の力を持った”何者か”によって作られた空間のことだ。歪んで捻れて狂気しかない空間だとしても狭間とは違い、そこには何らかの目的と意思と理由がある。それがどれほど正気から逸していようとも。
「今回はがっつり贈り物して今からおまえ攫いに行くぞ予告を丁寧にしたことまで考えて、たぶんこの空間は”主”によって作られたものだと思うんだよね。だからまずそいつに会わなきゃ。出たくても出れない」
「贈り物?」
「朝学校に来たら、私の机に置いてあったの。からっからに乾いた小指が入った木箱が。・・・・・・だからまあ、白くんはとばっちりだね。巻き込んでごめん」
「更紗さんのせいじゃないから、気にしないで。ていうか、小指って・・・・・・年頃の女の子の贈り物としては、考える限りの最悪な品だね」
こんな目にあっても雪葉を責めない白の人格ぶりを内心称えながら、雪葉はその言葉に頷いた。
女子高生へのプレゼントランキングなんてものがあったら間違いなくワースト3位にはなるだろう。ちなみにワーストの1位と2位は順に目玉、筋繊維である。そんなものを女子高生に贈るわけないだろと常識的な人は思うかもしれないが、いるのである。本当に。実際、いた。筋繊維で編み上げられたテディベアがロッカーの中に入っていたときは流石の雪葉も悲鳴を上げた。そこで可愛らしいテディベアという造形を選ぶなら、材料にも気を使って欲しかった。もっと価値観を人間に合わせて。怪異は常識というプロトコルをインストールすべきだとつくづく思う。なおそのテディベア(筋繊維製)は、美々奈がそっと哀れみながら差し出してきたライターで燃やした。一片の欠片すらも残さないように。屋内だったのでスプリンクラーが作動し教師が駆けつけ、喫煙を疑われてと散々な目に合ったのであのテディベアを作ったやつは絶対に許さないと決めている。あのあと先生たちに誤魔化すのが大変だったし、何故かライターで遊ぶ危ない女子生徒扱いをされてしまった。なのでこれは当然の恨みだ。
「でも、主に会ってどうする?」
「それは会ってからの対応次第かなあ。穏便に済ませられるんならそうしたいけど。もしどうしようもないならひねりつぶす」
「思ってたよりアグレッシブなんだな更紗さん・・・・・・」
「怯んじゃダメだよ、白くん。自分の命と人生と存在と記憶の全て、てめえが触る権利なんてないんだよって心持ちでいかないと。人は理不尽に立ち向かうべき生き物なんだから」
そう、恐怖しちゃダメだ。怯えてはダメだ。萎縮してはダメだ。緊張して警戒するのはいい。むしろ油断はするべきじゃない。でも、相手が自分よりも格上だと信じ込んではならない。ただ怯えて恐怖し逃避すれば、彼奴等の都合のいい玩具になって壊されるだけ。自分に関する自分の権利は自分だけが持っているもの。他の誰かが好き勝手にしていいものじゃない。もしされそうになったら、死にものぐるいで抵抗する。必ず殺すという気概でもって。
そうでなければ、どうやってこの理不尽に抗うというのか。
「怪異だろうがなんだろうが関係ない。私から何かを無許可で奪うんなら、私は私の全てをかけて相手に抵抗を示すよ」
雪葉の言葉に、白はパチパチと拍手した。・・・・・・この人もなんというか、一般学生とは程遠い反応をすると思う。普通はもっと怯えるんじゃないのかなあ。警戒はしているけれど、萎縮する様子は見受けられない。
ーーと、そこでお面たちの行進が止まった。しゃん、とどこからか鈴の音が聞こえる。
雪葉と白がお面たちが視線を向けている方に目をやると、そこには朱色で彩られた和式の豪奢な建物があった。入り口の両隣には古い文字が書かれた提灯が吊るされており、門扉の前には仕立てのいい黒布ののれんが掛かっている。のれんには、単略化された椿が二重丸で囲まれている、いわば日本古来の家紋のようなものが描かれていた。お面をつけた行列は、その玄関の前に立ち止まっていた。
先頭にいた片手に提灯を持っている男___黒狐の面を被っている___は、こんこん、とのれんの先の門扉を打ち鳴らした。雪葉と白は顔を見合わせる。ついでがらがらという音が響き、「お待ちしておりました」という声が聞こえた。低く、特徴的な響きを持った女性の声だった。ばっ、とふたりは揃って声の方を向く。声の主はのれんで顔の大部分が隠れ口元しか見えなかったが、若い女性のようだった。彼女は、けして大きくはないが雪葉と白のところまで通るような声で言った。
「どうぞ、おはいりください」
狐面の男は鷹揚に頷くと、女性が先導した通りに門扉をくぐり中へと入っていく。
後ろのお面たちもぞろぞろと続いていき、雪葉も数秒迷った末についていくことにした。当然白もついてくる。のれんをくぐり、敷居をまたぐと、扉の向こう側で顔の上半分を面布で覆った女性がいた。彼女は、最後に白が入ってきたのを見るとぴしゃりと扉を閉めた。
建物内は薄暗く、どんよりとした空気が漂っていて視界はそんなに良くない。が、長い廊下が続いていることはふたりにも分かった。
お面の行列たちはぞろぞろと廊下を歩いていく。どうやら、行き先が決まっているようだった。軽く深呼吸をして、雪葉は足を踏み出した。一歩遅れてついてきた白の目にも、張り詰めた緊張が漂っている。廊下はまっすぐに続いている。行列はただ前へと進んでいき、その奥さえ見えない廊下を歩いていった。暫く歩いたところで、雪葉はふと後ろを向く。面布をつけた女性は未だ玄関の脇で佇んでいた。次に来る者たちを待ち構えているかのように。
ふと先程見た建物の外観に似たものを見たことがあったような記憶を思い出したが、違和感を掴む前に行列が目的地へと到着した。
お面の男たちは両側に並ぶ和室の一室の前で一旦立ち止まると、朱色と金糸に彩られた襖を開き、中に入っていく。
雪葉と白は最後尾で行列の後ろについていく。ふたりが敷居をまたいだ瞬間、ぱんっと音を立ててひとりでに襖が閉まる気配がした。だが、驚いている余裕はなかった。ふたりは視線の先の光景に思わず絶句していたからだ。
「・・・・・・!」
「・・・・・・っ」
ーー二十畳ほどの畳で敷き詰められた大広間では、極小の地獄が展開されていた。
人間の考えうる限りの最低の悪夢が、そこにはあった。
大広間にはすでに多くの男たちがいた。彼らは新しく入ってきたお面の男たちには目もくれず、きらびやかな衣装を纏っている女たちと睦み合っている。だがそれはおよそ人同士の行為だとはとても思えない様相だった。男の顔には口や目、耳、鼻といった人間には当然あるべき器官が存在せず、それどころか皮膚も付着していない頭は水風船のごとく膨らんでいる。ぬらぬらとした肉の表面に浮き出ている毒々しい色の毛細血管が、どくり、と脈を打った。
ひゅっという乾いた喉の音が隣の白から聞こえた。彼の視線が向いている方に雪葉も目を向ける。
見ると、雪葉たちの前にいた男たちが皆一斉にお面を剥ぎ、床に落としていた。
そのお面の下にあるのは、ここにいた男たちと同じような、人間とはとても思えない、いやそれどころかあらゆる生物の冒涜にも等しいような、醜悪な造形だった。肉が詰め込まれている水風船のような頭をした男たちは、そのまま、拍子をつけて一斉に部屋の中央へと進みだした。しゃん、しゃん、とどこかで鈴の音が聞こえる。その奥には、鮮やかな着物を纏った___頭が椿の花の形をしている女たち、が、いる。よく目を凝らして見てみると、その花弁はすべて何かの肉で出来ていることが分かる。呼吸に呼応でもしているのか、花弁はゆっくり、静かに、心臓が拍動するかのように揺れ動いていた。どぷり、と得体の知れない肉汁が、拳大ほどもある目玉で出来た柱頭から溢れたのが見えた。生臭い臭いが鼻を突く。
その光景は、果てしないほどの悪夢だった。異様で、異常で、グロテスク。気が弱い人が見れば心を病んでしまうかもしれない。
だというのに、その光景にはどこか理解不能な艶かしさがあった。男と女はくずおれて、両者共に揺さぶり合っている。椿の頭をした女の着物ははだけており、時折首の後ろに手を回して頭を近づけているものもいる。そんな、見るからに悍しく、いっそ滑稽な様相が、この大広間ではいたるところで繰り広げられていた。
・・・・・・ああ、つまり。そういうことなんだろう。
その様子を見て雪葉は、ふいにここがどういう施設であるのかに思い至った。
「ーー遊郭」
隣の白も気づいたらしい。ぽつりと、かすれた呟きが隣から聞こえた。
その昔、日本に存在した性風俗の店。遊郭の遊女は芸を売り、色を売り、男は一夜の夢を金で買う。今でいう、売春行為を商品として取り扱う店だ。まあもっとも、高位の遊女は主に芸を売り、色を売るのはよっぽど金払いがいい客に対してのみだったそうだが。
そこまで考えて、建物の外観にひっかかりを覚えた先程の感覚に納得を感じる。数日前、雪葉は美々奈から遊郭大辞典なるものを借りて(というか押し付けられて)読んでいた。そこに載ってあった写真のひとつに、似たような外観のものがあったため、既視感を覚えたのだろう。美々奈はわりと頻繁に訳のわからない行動を起こし、その理由の八割がただの気まぐれだが、たまにこうして数日先の出来事とリンクすることがあるので無下には出来ない。どうせ今回も、雪葉がこうなることを知っていてあの本を貸し出したのだろう。どうしてそんな未来予知のようなことができるのだなどと考えても無駄だ。美々奈だから、理由はただその一片に尽きる。だてに十二年間幼馴染をやっていないのだ。深く考えても無駄だということは理解している。・・・・・・ただ、あの子はそろそろ人間を名乗るのをやめた方がいいと思う。
ふう、と息を吐き。視線を大広間内全体に滑らせる。グロには多少慣れている雪葉でさえ眉を顰(ひそ)めずにはいられないような醜悪な光景が辺りには広がっている。
____と。そのとき、ふと視線を感じて右斜めの方へ視線を向けると、椿の花の頭が、じっ、とこちらを見つめていた。ぞわりと鳥肌が立つのを感じる。椿の女の側には肉風船の男が倒れていて、ぴくりとも動かない。表面に浮き出ていた毛細血管が赤黒さを増し、脈拍をしなくなっていた。まるで、精気が尽き腹上死した男のようだった。猛烈に嫌な予感がした。いや、見られているのは、本当に自分なのか?
(お面の男たちは客、ここは遊郭、男に『色』を売る店)
つまり、
(____遊郭に入った男は、客【餌】とみなされる_____)
次の瞬間、雪葉は白の手を掴み、すぐ後ろの襖を蹴り破って大広間から飛び出した。
「更紗さんっ?!」
「いいから!走って!」
あのままあの部屋にいてはまずい、と判断した雪葉は白を連れて廊下を走っていく。
白も戸惑いながら、あの部屋から離れたかったからか、それでも雪葉に抵抗することなく並走した。
***
その娘が親に売られて遊郭に身を運んだのは、わずか七つのころだった。
なにも珍しいことじゃない。この世の中ではありふれている不幸だ。
むしろ娘は幸運な部類の方だったと言えるだろう。
売られた妓楼はまだまともな楼主が経営しており、いきなり身を売らされることはなかったし、さらに運がいいことに十六歳になり遊女になると娘はそこそこ売れた。花魁とまではいかないが、さほど時間をおかず上客がつくくらいには。位の低い遊女は毎日のように客を取らされ、性病に身を侵されながら日銭を稼がねばならないが、上客がつく遊女は優遇される。娘は、村人では到底できないような贅沢な生活をおくった。その人生は、口減らしに殺される最期や飢えに苦しむ生活よりよほどましだとも言えただろう。
たとえ、それがあらゆるものを自身から代償として切り捨てて、得られた生活であったとしても。
艶かしく装い、あるときは蠱惑に、あるときは清楚に花のように笑む人生。
枯れ、朽ち果て、やがて愛でられなくなるまで男たちの寵愛と恋慕を受け、老いさらばえば誰に見向きもされずに醜くひとりで死んでいく。
それが遊女の人生だ。自分もきっと、華美に生き、惨めな最期を遂げるのだろう。
娘は、その生き方を甘受することに決めていた。
此処は花街。女たちは美貌で春を売り、男たちは金で夢を買う。
醜悪な欲の渦を華々しい装飾で覆って、一夜の夢に溺れる場所。
ただ、ひとつ。
数多の美しい花々を蹴落とし夜の闇に咲く遊女たちでさえ恐れるものが、花街にはあった。
それは目を晦(くら)ませ理性を犯し、何人もの遊女を昏い穴へと引きずり落とした不治の病。罹ってしまったらろくな目に合わないことを、娘は、遊女は、知っていた。そうしてかつての栄華を墜落させた遊女たちを、その目で見てきたのだ。
盲目とは、よく言ったものだった。
あゝ。こんな世界で、恋などと。
地獄に堕ちるに決まっているのだ。
***
廊下を走り、さらに奥へと突き進む。入り口の方へは戻らなかった。きっと扉は開かないだろうと、そう本能的に察していたから。暫く走り、もうあの大広間から十分離れたところで足を止める。走ったことで荒くなった息を整えてから、雪葉は白から手を離した。
「ごめん」
「あ・・・いや・・・」
雪葉が謝ると、白はなんと言っていいかわからないというような顔をする。
それは道理でもある。あんなショッキングなものを眼前に並べられたら、誰だって混乱するだろう。
さすが文武両道な優等生だけあって白はさほど息が乱れていない。彼は力無く笑うと、「気にしないでくれ」と言った。
「僕も、あの部屋からは出たかったから」
雪葉は浅く頷くと、「気をつけてね」と言う。
「此処は白くんも言っていたとおりたぶん、遊郭で。だとしたら、一番狙われやすいのは”男”である白くんだよ」
実際、あのお面を被っているひとたちもみんな男だった。
白は雪葉の言葉に神妙に頷きかけ____何かひっかかったかのように首を傾げた。
「どうしたの?」
雪葉が尋ねると、白は眉根を寄せながらぽつぽつと疑問を話す。
「此処は、遊郭・・・なんだよな」
「うん」
「それで、外からやってくる奴は全員男。生きている人間かどうかは別にして。だから僕が一番狙われやすい」
「うん」
「じゃあなんで、更紗さんに小指が送られてくるんだ・・・?」
しん、という音が一瞬その場を支配した。ちなみに言っておくと、更紗雪葉は間違いなく女性である。
「・・・あー・・・・・・」
片手を額にやり、暫し空を仰ぐ雪葉。
「・・・・・・忘れてた」
だってあの木箱、この空間に来た途端煙のように消えてしまったんだもの。
そのように自己弁護を心中で繰り広げようとしたものの、すぐに虚しくなってしまったのでやめた。
此処が遊郭であると十中八九確定している時点で、そもそも招かれる対象は”男”であるはずなのだ。あの行列の際、後ろから眺めていた男たちの外見に異常はなかった。薄暗かったとはいえ、流石にあんな異様な様子に気づかない筈がない。あの男たちは、大広間に入った途端に変貌した。あきらかにこの遊郭が原因だ。加えて椿の頭をした女たちの側で倒れ、ぴくりとも動かなくなった情景と、その横で女が一心に此方を見つめてきた光景を思い出す。間違いなく、あの視線は白の方へ向いていた。確信できる。これらのことを踏まえて、あの男たちはきっと餌なのだろうと雪葉は確信した。最初に直感した通り。
あの椿の女たちは、肉風船の男たちから、精気を吸い取るがごとくなにかを奪い取っていた。
だからこそ、あのまま大広間にいては白に危害が及ぶと考え、脱兎のように飛び出してきたのだ。
その考えが、間違っていたとは思わない。実際、あの拳ほどの大きさの一つ目には、蟲を見るような、獲物を見るような、いっそ無邪気なまでの残酷さが滲んでいた。
ーーだが。ならばあの小指はなんなのだ?
小指が入った箱は、雪葉に送られてきたものだ。その箱を開けたときに白が教室に入ってきたのはただの偶然で。いわばとばっちり、巻き込まれただけ、だ。なのに。
「招待されたのは更紗さんだ。僕はただ単に巻き込まれただけだと、君は言った。でも、今この場所では僕が一番狙われやすい立場になっている。ーー何か、おかしくないか」
ちらり、と白が視線を向けた斜め右の和室の襖が、僅かに開いている。そこから覗く光景は先程大広間で行われていたものとさほど変わらず、どこからか男性の、低い、断末魔のような絶叫が聞こえてくる。その悲痛に満ちた声音の何処からか淫靡な声質を聞き取り、雪葉は眉根を寄せた。
(ーー目的がわからない)
雪葉の机に、あんな木箱を置いた理由が。
この異界は明らかにターゲットを男に限定している。雪葉は”餌”を求め、自らの元に誘い出す異界が幾つもあることは知っている。そしてその”餌”に条件がつけられることが珍しくないことも。いわばこれはオーソドックスな異界だった。見た目こそ醜悪でグロテスクだが、”つくり”としては結構単純に見えたのだ。だが矛盾が生じている。
”男”を餌として求めている怪異が、”女”である雪葉をわざわざ招待した理由が見つからない。
だが、だからといってあの小指が無関係だとも思えない。いろいろとタイミングが良すぎる。
ーーと、そこまで考えて。
(・・・あー・・・・・・やめやめ)
無限螺旋に陥りそうな思考の渦を、雪葉は一旦断ち切った。同行者がいることで普段より慎重になっているからか。無意味なことを考えてしまった。
(そもそも、怪異はむちゃくちゃなものだしねぇ・・・・・・)
狭間よりはマシだとはいえ、異界は捻れて狂って歪んでいる空間だ。物理常識なんて簡単に木っ端微塵にするし、その有り様は現世よりも遥かに気がふれている。
怪異に道理を解くなんて、それこそ不合理というものだ。
理由なんてものはさほど重要じゃない。大事なのは、どうやってこの空間から抜け出せるか。その方法だ。
雪葉は軽く頭を振って、白に声をかけた。
「それはおいおい考えることにして、」
ーーまずは、此処から脱出するための手がかりを探そう。
***
だいぶ奥に行ったところに、客間とは様相が違う部屋があった。文机と座布団があり、書棚には紙の束を麻紐で締めたものが並んでいる。何か情報があるかもしれないと思い、中に入る。畳が四畳ほど並べられているその部屋は、入った瞬間得もしれない匂いが香った。思わず眉を寄せる。どこかで嗅いだことのあるようで、なんとなく思い出せない微妙に不快になる匂いだった。まあそれでも、大広間の臭いに比べれば遥かにマシなので気にしないことにする。
道中、危険なく来れたこともあってか(人の性器が人体からくり抜かれて床に転がっていたり粘性の何かの液体が襖に塗りたくられてたり爪が大量に敷き詰められた客間があったりはしたが)それなりに緊迫感は落ち着いたらしく、顔色が先程より遥かに良くなった白は早速書棚を漁っていた。雪葉もそれに倣い家探しならぬ室(へや)探しをする。
「この部屋、もしかして楼主が使っていたのか」
書棚にあった紙本をぱらぱらとめくりながら白が言う。その表紙は酷く黄ばんでいて乾いている。墨が薄れて消えかかっている上に昔の日本特有の読みにくい文字が表紙には書かれているが、『帳簿』という文字だけは辛うじて読めた。
「・・・この帳簿が書かれたの、大正時代だね。年号が記録してある」
そう言って紙を捲るのを止め、ページの隅の方を指で指し示す白。
そこには確かに、くずれているが大正と書かれていた。
「それが一番最後の帳簿?」
「そう・・・みたいだね。一番下の右端のをとったから。たぶん」
つまりこの遊郭は大正時代に運営されていたもの、ということだ。
雪葉は再度溜息を吐きそうになって耐える。遊郭なんて現代日本では存在しないからわかってはいたことだが。時空が歪み過ぎだろう、と思う。令和と大正なんて何十年離れてると思ってるんだ。怪異には早急に三次元(現世)における常識というものを学んできてほしい。
平べったい目をしながらふと何気なく視線を下に下ろすと、文机の下に何かが落ちているのが見えた。かがんで拾うと、どうやらそれは黒皮の手帳のようだった。見るからにぼろぼろでくすんでいる。触れると何かの血液が固まったようなものが黒皮にこびりついている。革表紙を開いて中を見ると、紙には赤黒い液体が掠れたような痕がついていた。
(なるほど、血)
こんな場所では王道とも言えるアーティファクトだろう。さして珍しくもない。
「白くん」
ちょっと来て、という感じに帳簿を書棚に戻していた彼を手招く。白は雪葉のすぐ横から手帳を覗き込んだ。
手帳には、その持ち主の日記のような手記が記されていた。
『つい先日、御得意樣から此のような立派な手帖を戴いた。
折角なので日記代はりに使ふことにする。』
『禿のお千代が客の前で粗相をしてしまつたので折檻した。千代の卒爾にも困つたものだ。 あれでは客の前に出せば機嫌を損なひかねない。言葉で聞かぬやうなら痛みで覺へさせる しかない。まだ十つの頃なので水責めは行はず鞭のみにした。此れで聞かぬやうならまた 別の手を考へよう。
さう云へば幾つかの遊郭では遊女に拷問紛ひのことをして死なせる事もあるのだと云ふ。
眞愚かなことだと思ふ。賣り物に無爲に傷をつけてどうするのか。
折檻とは躾のために行ふべきことであり、娯樂のために行ふなど本當に愚かだ。
壹樓主として歎かはしい許りだ。
其のやうな遊郭が一刻も早く潰える事を願はん許りである。』
『また猫が妓樓に入り込んでゐた。一噌のこと處分してやらうかとも思ふが、高位の遊女た ちが氣に入つてゐるらしく、どうしたものかと思ふ。だが客の前や料理坊に出てきた事は ないので暫く樣子見でいいだらう。』
『此の頃は客の實入りが善い。此の景氣が續けば善いのだが。』
『お梅の身請けが決まつた。相手は五年も通つてくださつてゐる御客樣で、身請け金はなん と八千圓も出してくださるのださうだ。とても善い話であるのでお受けした。
お梅は此の遊郭の稼ぎ頭であるが、そろそろ齢が目立つ頃だ。
使ひ物に成らなくなる前に此のやうな善い話があつて本當に良かつた。
お梅とて大地主の妾に成れるのだ。本望だらう。』
ぺらぺらと紙を捲っていく。文字が薄れていて血痕で見えにくいうえに、旧字体と歴史的仮名遣いがくずし字で書かれているので読みにくいことこの上ない。けれど、なんとなくの内容なら読み取れた。この手帳を書いていたのは本当に楼主だったらしい。この遊郭で起きた印象深い出来事を綴っている。冒頭でもあった通り、いわば日記のようなものだろう。ちらりと視線を横にずらして白の方を見やると、その眉間には皺が刻まれていた。その気持ちも雪葉には分かりすぎるほど分かる。なんというか、この文章を書いた人の倫理観とかの価値観に、現代人である雪葉たちと大きな隔たりがあるように感じるのだ。
(この手帳を書いた人は、きっと自分を善良な楼主だと思ってるんだろうなぁ)
手帳に書かれている文章の隅々から、どことなくそんな雰囲気が漏れ出ている。
この遊郭の楼主は、遊女のことを売り物だとしか思っていない。
それは悪意からでも差別心からでもなく。ただただ残酷なまでに率直に、等しく、彼女たちを人間扱いをしていないことの証左でもあった。
でなければ、こんな文章は書けないであろう。
養豚場で管理している豚の様子でも書いているような、こんな傲慢に満ちた冷たい文章は。そしておそらく彼は遊女たちに対して、同じ人間である筈のものに対して、そのように相対していることを間違いだとは欠片も思っていない。十歳の子供に鞭を打つことも、悪いことであるなどとは微塵も思っていないだろう。
自らが模範的な楼主であると、そう記されているこの手記が何よりの証跡だった。
そして恐ろしいことに、おそらくそれは事実だった。
遊女はそのように扱われることが、常識だったのだ。
遊郭のすべて、と銘打たれていた本の表紙がちらりと思い浮かぶ。美々奈が読ませてきた本だ。そこには当然、当時の遊女たちの扱いも書かれていた。
親に売られ、芸を仕込まれ、時に厳しい折檻を受け、身を売らされ。
運が悪かったら虐待の末に殺された。
それでも栄華を極められる女は、遊女の中でも限られたごく僅かだ。
その身と人生のすべてを捧げても、彼女たちは報われない。
搾取されるだけの人生。搾取されるための人生。
きらびやかに飾っていても、花街という場所は、醜い肉欲の権化のような街だった。
自分が生まれる何十年も前の、資料を通した遠い世界だとしか認識出来ていなかった悪夢の一端が、雪葉と白の前に手帳の形をして座していた。
大正時代の、遊郭。正しく女にとっての地獄だったその場所と制度の歪さを、手帳に記されていた文字は簡潔に表していた。そしてきっと、この遊郭は地獄の上澄みでしかないことも。ありふれていた遊女の悲劇しか起こらない”平穏”な遊郭であろうということも、きっと最底辺から見上げれば花畑と羨んで然るべき場所なのであろう、ということも。何十ページにも及ぶ手記が、そこに淡々と遊郭の日常を記してある文字が、それらを示していた。
だが、雪葉も白も現代日本の法で守られ、現代日本の倫理観と道徳観の下、健やかに育ってきた少年少女だ。故に。それが当時の常識であると理性で理解していても、生理的嫌悪感は拭えない。なんせ潔癖で繊細なお年頃なのだ。こんなものを読めば、気分も悪くなろうというもの。
ふと。ほぼパラパラ読みしていた手を雪葉が止める。丁度手帳の真ん中辺りまできたところで、今まで記述されていた内容とは趣の異なった文章が書かれていた。
『大變喜ばしいことがあつた。幸子が身籠つたと云ふ。なんと素晴らしきことか。男子であれば跡繼ぎとなる。長年子が出來ず最早養子を取るしかないと考へてもゐたが、嗚呼、おかみは我らをお見捨てなさらなかつた。幸子も喜んでゐるやうだ。早速、産婆を探さなくては。アア嬉しや。』
「身籠る・・・・・・?」
雪葉は首を傾けた。隣で、白が呟く。
「普通、遊女が身籠るのを楼主が喜んだりはしないから・・・これは楼主の妻のことだな」
跡継ぎとも書いてあるし、と白は付け足した。
雪葉は眉を顰めた。何かが引っかかる。違和感___いや、既視感が脳内を駆け巡った。
今までこの遊郭で見てきた光景が次々と思い出される。建物内のあちこちで性交をしていた肉風船の男と椿頭の女。襖に塗りたくられたぬめぬめとした粘性の何か。床に無造作に打ち捨てられていた性器。
ーー無防備に転がっていた剥き出しの子宮は、まるで中に”なにか”が入っているかのように膨らんでおり、中の”なにか”が鼓動しているように脈動していた。
(此処、は)
まさか。
ぱらりと雪葉は次のページを捲る。以前と同様の遊郭の活動記録だ。ぱらりとまた次のページを捲る。何の変哲もない。また、ぱらりと。ぱらり、ぱらり、ぱらり、ぱらり、ぱらり。
十数回ほど紙を捲った折、荒れた文字が綴られているページが現れた。雪葉はページを捲る手を止め、目を落とす。白もそれに倣い文章を読み始めた。さらりと。近づいてきた白の茶髪と雪葉の黒髪がこすれあい、ささやかな音を立てた。
『あの淫賣婦!遊女の面汚しが!!嗚呼最惡だ。よりにもよつて梅が身籠るなど!なんてことをしてくれた、■■■樣になんと申し開きをすればいい。既に身請けの話が決まつてゐたと云ふのに!嗚呼もつと早くに氣づけてゐたら墮胎藥も飮ませられたのに。最惡、最惡、最惡だ。八千圓が泡に消えた。お前が一生かけても稼げない額だぞ!どうしてくれる!!』
文字はところどころ潰れていて、よく読めない。激情のままに書いたのだろう、それまでの朴訥な文字の雰囲気は一切消え失せ、怒りが迸っているような文字が紙面に踊っている。これ以降も続きがあったが、勢いよく繋げて書いてあるためくずし字が酷くなっており、読むことは困難だった。
「梅、そういえば前のページに書いてあったね」
「うん。八千円・・・ええと現代だと最低でも八百万円か・・・。それは、楼主としては失態だろうな」
すかさず大正時代のお金を現代換算する白の知識の深さに嘆息しながら、雪葉は次のページも捲る。目ぼしい情報がないかと探しながら、雪葉はまた美々奈に貸し出された本の内容を頭の中で洗い出していた。
妓楼は妊娠した遊女を色々な方法で堕胎させた、とその本には書かれていた。
よく使われていた方法は、ほおずきの実を使って堕胎させる方法。また他にも、冷水に何時間も浸けたり、串を局部に挿入し子宮を突き刺して流産させたり、水銀を飲ませたりしていたらしい。おまけに子宮を突き刺して流産させる方法は誤って内蔵を突き破って傷つけてしまうことが多く、遊女たちは悶え苦しんで死んだそうだ。
まあこのことからも、遊女たちの扱いがどんなふうだったのかはよく分かる。商売道具が使い物にならなくなったら、その”道具”はどうなるか。想像するのは容易かった。
まったく。心から業深い場所だと思う。
時期が遅すぎて堕胎薬を飲ませられない、というような趣旨の文章が手帳には書いてあった。なら、梅、という遊女はどうなったのだろうか。
・・・・・・続きの手記の内容を見たところすぐに死んでいる様子はないようだが。
楼主にとっては余程許せないことだったらしく、後のページにも梅の妊娠に対する恨み言を記している。
「ちゃんとした避妊方法もない時代だ、売春行為をさせていれば妊娠するのは予想内のことなのにな」
はあ、と白が嘆息する。校内でいっぱしのフェミニストと讃えられる彼には、この手帳に不愉快な点が数え切れないほどあるのだろう。
手帳はまだ続いている。雪葉はまたページを捲りだした。雪葉の予想を裏付ける記述は、まだ出ていない。捲る。捲る。捲る。捲る。捲る。ーーと、また荒れた文字が見えた。だが今回のそれは見るからに弱々しい字で、紙には何か透明な液体が滲んだ痕もあった。
『何故。何故。何故。何故。何故?何故なのですか、天よ。』
たったそれだけが書かれているページは、酷くよがんで幾つもの皺が出来ている。まるでーー紙を破り捨てようとして、どうしても、それが出来なかったかのように。
ページを捲る。
『どうして、これほど酷い仕打ちをなさるのか。幸子は毎夜泣いてゐる。私も泣きたい。泣いて臥せつてしまひたい。だが、仕事はしなければ。嗚呼帖場まで聞こえる嬌聲が煩ひ。今すぐ此處にゐる全員を切伏せて默らせてしまひたい。』
『幸子が飯を食はない。虚ろな目をして、日がな一日中なにもせず布團の上でぼおつとしてゐる。幸子はどうしてしまつたのだらう。』
『幸子が今日も今日とて聞いてくる。私のカアアイ赤ん坊は何處ですか、と。何處にもゐない、と言つたら嘘だと泣き喚く。さうして屋敷中を吾が子を求めて彷徨ひ歩く。昨夜、堪らず幸子をぶつてしまつた。アア私は妻をぶつたことなど一度もなかつたと云ふに。どうしてこんなことになつた。』
『頭が、ガンガンする。幸子の泣き聲が、遊女共の嬌聲が、頭の中で響き廻る。嗚呼煩ひ、煩ひ、煩ひ、煩ひ。默れ。』
ページを捲る。雪葉も、白も、何も言わなかった。だが、この楼主夫妻に何が起きたのかは二人とも予想がついていた。
ーーそれはたぶん、ありふれた悲劇だった。大正時代はおろか、現代にさえ溢れている。珍しくもない不幸。
流産。
『どうしてだ。どうして、我等がこんな目に。』
だけどもそれは。当人たちにとっては、充分絶望に値する出来事だったのだろう。
楼主夫妻の反応は正常とも呼べる。普通、子が死んだら、親は泣くのだ。
弱々しくもくずれて勢いのついた文字で、手帳には慟哭と辛苦の日々が綴られていた。
陰鬱な調子の文章が続いていく。
しかし。
「・・・・・・あれ?」
数ページ先に進むと、以前と同じような朴訥とした雰囲気の文章が記されているのが目に入った。焦りや激情、悲哀というような大きな感情はそこからは見いだせない。文字には、不可思議なほどの穏やかさが滲んでいた。
ざわりと。肌の内側で奇妙な感覚がうずめいた。
『今日、訪れてきた客からとても好い事を聞いた。我等が苦しみから逃れる方法があるのだと。彼は面妖な術を使つてみせ、自分は願ひを叶へる兔なのだと言つた。あの術は本物だ。嗚呼、彼こそ我等を救ふ爲に使はされた、産神の神使に違ひない。幸ひなことに、此の遊郭には薄汚い欲に塗れた男と女が山ほどいる。存分に使はせて貰はう。
___嗚呼、さうだ。胎には、あの遊女を使はう。あの淫賣婦、恩知らずにも八千圓を泡にした毒婦を。思へば、不幸が始まつたのはあの女が子を孕んだと分かつてからだつた。アアまさか、墮胎出來てゐなかつた事に此れほどの痛快を覺える日が來ようとは!
若し全部うまくいつたら、屹度、幸子も良くなる。
嗚呼吾子や、かへつておいで。』
ぞっ、と。
その文章を読んだ途端、鳥肌が背筋を駆け上る。それと同時に、頭の中を勢いよく血が巡り始めた。
思考が脳内を駆け廻る。
出た結論は、最初に雪葉が連想したそれと同じだった。
ページを捲る。裏のページには、■■■■■■が、書かれてあった。
それ以降、手帳にはなんの文字も綴られていない。雪葉は黙って手帳を閉じた。
白が困惑の声を出す。
「これ、は・・・」
「行こうか」
雪葉は手帳を文机に置くと、隅の壁に貼ってあった間取り図を剥ぎ取ってそう行った。
間取り図を白に見せ、ちょうど二階の中央に位置する部屋を指差す。
指で指し示したその部屋の間取りには、仏間、という文字が真ん中に置かれていた。
「孵るまえに」
***
『水子蘇生の儀』
・胎を用意する。雌であれば良いが、蘇生させ度いものと同じ種族である方が成功率が高ひ。
・胎のなかで精と卵を受精させる。其れを何度も繰り返す。受精させる精と卵は多ければ多いほど良ひ。
・受精する際、必ず哭き聲を聞かせ續けなければならない。途切れさせてはならない。
・祠を建て、胎の子宮と割れた鏡を其処に納、毎日一椀の米粥を捧げる。子宮は羊水に沈めなければならない。
・けして、けして、名を与えてはならない。呼んではならない。歪めてしまうから。
『嗚呼待つてゐる、待つてゐる、待つてゐる。ずつと、待つてゐるから。父と母が、一緒に、おまへを待つてゐるから。だからどうか。
帰つておいで。
返つておいで。
孵つておいで。』
***
何も突拍子のない考えじゃない。場所に騙されそうにはなるが。
本来性行為とは娯楽のためにするものではなく、生殖活動のためにするものだ。
「つまり此処は、大きな胎と化しているんだと思う」
仏間に向かいながら、雪葉は隣を歩いている白に言った。
歩いている最中も、何処か遠くから矯声は聞こえてくる。悲痛を帯びたその声はまるで泣き声のようで、雪葉は嘆息する。或いは、あの手帳を読んでしまった雪葉には、産声にすら似て聞こえた。そして恐らくそれは、ただの錯覚ではない。白は雪葉の言葉に首を傾げる。
「胎・・・・・・?この、遊郭が?」
白の言葉に雪葉は頷く。
「ま、待ってくれ。・・・あの手帳の最後に書かれた儀式の内容が自分の子供を蘇らせようという主旨のもの、ということは僕にも分かっている。だが、胎は雌でなければならないとはっきり書いてあっただろう?あの女を使おう、とも書いていた。どうして、この遊郭自体が胎となっていると思うんだ?」
白は片手を顔の前に上げ、ストップ、と雪葉にジェスチャーしながら、自らの考えを整理し疑問を言語化して雪葉に問う。流石に学年トップ、疑問が的確だ。手帳に書かれていたことだってかなり生理的嫌悪感を煽る内容だったろうに、即座に感情と思考を切り離して理性的に白は話している。怪異初心者とは思えないほど話がスムーズに進むなあ、とひそかに思いながら(微妙に引きながら)雪葉は言葉を放つ。
「胎が死んでてはだめ、なんて何処にも書いていないよ」
「あ、ああ。でもそれが、」
「それと、白くんが言っていることに間違いはないよ。胎に使われたのは雌だし、恐らく手帳に書かれていた女だと思う」
「え」
白が目を見開く。だって、そうだ、訳がわからない。胎は雌で、女で、ーーこの遊郭そのもの?そんなの、
「白くん。ーー小腸の広さは、テニスコート一面分あるらしいよ」
はくり、と白は唇を動かす。だが何の音も出なかった。白はクラスメイトの口から、見るだに悍ましく、残酷なその真実が飛び出るのを眺めることしか出来ない。
「臓器一個分で”それ”なら。内蔵から皮膚から骨から髪から爪からーー果ては体液に至るまで、その人体まるごとすべてを使ったら。ーーいったい何平方メートルくらいになるんだろうね?」
そう言って。雪葉は、先程間取り図を剥ぎ取るために壁に触った方の手を広げて見せた。その、指には。何本もの長い黒髪が、締め付けるように絡まっていた。
「この遊郭のいたるところに、胎として使われた女の体の一部がはりつけられているんだよ」
皮膚を一枚一枚丁寧に剥ぎ、肉塊を潰し、内蔵を広げ、骨を擂り潰し、髪、爪、舌、耳、眼球、唇、鼻、体毛、足りなくなったら血液と体液までもを使って。
少しずつ、少しずつ、バレないように。
楼主は、この遊郭を【胎】にしたのだ。
ーー流石に、隙間なくではないだろうけれど。
(ーー狂ってる)
白は空いた口が塞がらないとばかりの顔をした。けれど、そんな顔になるのは当たり前だ。
理解できない。そんな思考が白の頭を埋め尽くした。
亡くなった我が子を取り戻したいから怪しげな儀式をする、という心情は理解できなくもない。だが、そのために人間を丁寧に切り刻み、その皮膚臓器髪爪体液に至るまで、余すことなくこの遊郭の壁に貼り付けたというのか。
白は廊下の側壁を見る。だが道中もそうだったようにこの遊郭は薄暗く、視界も悪いため壁に何が貼り付けてあるかなど視認出来ない。けれど、確かめるために触れようなどとは到底思えなかった。
ふいに白の脳裏にこの遊郭で見てきた光景が過る。いくつもの爪で埋め尽くされた部屋。ぬらぬらと光っていた、何かの液体を塗りたくられていた襖。廊下に転がっていた誰のものともしれない性器。
ーーと、そこで、まるで白の思考を読んだかのように雪葉が口を開いた。
「爪は生前切って集めたんだろうから、あの儀式を知ってからだいぶ後に殺されたんだろうね。羊水、というのも【胎】のものを使ったんだろう。ああ、廊下に転がっている性器は【胎】のものじゃないよ。流石にそんな一番重要なもの、そこらに放りなげたりはしないだろうし。多分【卵】と【精】にされた遊女と客の男たちのものじゃないかな。」
「どうして、そんなこと。・・・・・・どう考えたって非効率だろ」
そうだ不可解だ。生理的嫌悪感を抜きにしても、楼主の行動には理屈がない。胎の中で受精させることが儀式の必須条件なら、普通に性行為をさせればいい。此処は遊郭だ。儀式には一番適していると言ってもいい。何故、虐殺した死体を用いて妓楼を胎そのものにするという発想に至ったのか。
「いくつか理由は考えられるよ。まず、受精に必要だと教えられた【卵】と【精】の数が尋常ではないほど多かった場合。ひとりの女人では到底捌ききれないほどにね。ふたつめ、あの手帳に書いてあった【兎】が何らかの入れ知恵をした場合」
雪葉は淡々と喋り続ける。端にあった階段を見つけ、ふたりは登っていく。
「ーーみっつめ。儀式に必要な【哭き声】が、あらゆる人間の断末魔と呪詛から生まれるものであった場合」
ほら今だって聞こえているでしょう?
白は思わず足を止めた。僅か数歩先を進んでいる雪葉の顔を仰ぎ見る。階段にも明かりはなく、どんな表情をしているのかは伺えなかった。
此処でも変わらず嬌声が聞こえる。上からなのか下からなのか。もしくは両方から聞こえてくるのか。いや、これは本当に嬌声なのか?悲鳴ではないのか。哭き声ではないのか。
ーーどうやってないているんだろうか。口もないのに。
「たぶんだけれどね、」と前置きして雪葉は説明する。この狂った遊郭の、発端を。
「楼主は【胎】を殺して解体し、その身体の一部を遊郭中に貼り付けたあと、性行為に及んでいる客と遊女を虐殺したんだ。どうやったかまでは分からない。いちいちひとりひとり殺してたんじゃすぐ抑えられるだろうから、毒を使ったり火事でもおこしたりでもしたんだろうね。そうして、殺された人々の絶望やら恨みやら呪いやらが降り積もって此処は異界化した。どうやって客や遊女の【成れの果て】に性行為をさせているのかは分からないけれど、きっとあの儀式を教えてくれたっていう【兎】が入れ知恵したんだろう。ともかくまあ、そうして【胎】は完成した。此処は異界だから、誰にも儀式の邪魔をされる心配はない。あとは【胎】の中でひたすら受精させればいい。大広間のあの様子だと、【女】は精子を貰うという性質上半永久的に稼働させられ続けるらしいが、【男】は一定量搾り取られると朽ちてしまうらしい。だから現世から生きのいい男たちを攫って異形化させたりしたんじゃないかな。私たちが最初に見たお面たちの行列がそれだよ。」
白は黙りこくっていた口を開く。
「ーーあれは、元は全員人間だったのか」
「そうだと思うよ」
間髪入れず、雪葉は答えた。その言葉に、白は怖気が背筋に走るのを感じた。
あの、生命の冒涜だとすら感じるモノたちが全員、自分と同じものだったというのか。
だとすれば、なんて惨い。
あんな姿になって、誰が正気を保てるだろう。
「・・・・・・鏡は、古来から真実を映すものだとされてきた。その鏡を割れば、鏡面に映るのは歪んだ真実だ。【胎】の中には子供がいる。孵る前に母親を殺されて、孵れなかった子供。殺した女の羊水に浸したそれに新しい受精卵と離乳食を与えて、楼主は自分の子供を孵そうとしている」
雪葉の口から語られた儀式の全貌は、とうてい正気の沙汰とは思えない内容だった。ああ、気がふれている。異常だ、おかしい。だがそれぐらいに狂っていなければ、こんな空間は生まれないのだろう。
そうだ。足を踏み入れたその瞬間から分かっていたはずだ。
此処には正気も救いもない。もうどうあっても取り返しがつかないから、【異なる界域】と呼んでいるのだ。・・・いまさら雪葉や白が何をしたところで、この場所の業深さは掬えない。後の祭りとはこのことだった。
階段を登り終え、雪葉は一瞬立ち止まる。中空を眺めながら、雪葉は吐き捨てた。
「ーー馬鹿馬鹿しい」
侮蔑の言葉であるはずのそれは、ただ空虚な温度だけを伴っていた。
「そんなことをしても、死んだ子供は生き返らない」
白にはその言葉が、何か不可思議な実感を込めているように感じられたのだ。
***
死んだ人間は生き返らない。
それはどうしようもないことだ。
だけど、もし生き返ったならそれは。
きっと、人間ではないのだろう。
***
「この滑稽で醜悪で悪趣味極まりない儀式で今現在唯一救いのあるところはね、」
二階の仏間を目指しながら、雪葉は言う。
「”まだ”【卵】が孵っていない、ということだよ」
「それはーーまだ【男】と【女】の性行為がーー受精が終わってないから、か?」
「そう、とうの昔に孵っているなら彼らはお役御免のはずだもの。今もああしてそうさせているのは、そうさせる必要があるからーーだけどまあ、いつまで妊娠期間なんだろうね?この異界が出来たのって、たぶん大正時代でしょう?いくらなんでも長過ぎるよねぇ。・・・異界の時間が捻れているのは通常運転だけど」
「でもそれがなんで、『救い』になるんだ?この空間はその儀式の成功を目的にいわば人為的に”つくられた”んだろう?なら、【卵】が孵ったら、この異界は消えるんじゃないのか?現世の男が攫われることもなくなるんじゃ・・・」
そう疑問を提示する白を、雪葉は少し呆れたように見やる。
「白くん、こんな方法で産まれた子供が、”まとも”だと思う?」
「・・・思わないな。控えめに言っても化け物だろう」
「こんな方法で死んだ人間の子供は蘇らない。だから新しい”なにか”が産まれてくるだけだよ。それも、とびっきりのやつが。流石に私もこんな経緯で産まれてくる怪異に相対したことはないからね。出来ることなら発生する前に処理したい」
なるほどな・・・と思いながら、白はひそかに胸を撫で下ろした。よかった。幼少時から怪異に塗れた人生を送っている彼女でも、流石に今回のこれはドン引き案件らしい。本当によかった。こんなものが知らず知らずのうちに世の中に溢れていたらと思うと安眠できない。
「処理・・・・・・出来るのか?」
安堵ついでに、できるだけ懸念を減らそうと白が雪葉に質問する。
「まだ産まれる前なら。明確な意思と思考が確立出来ていたらどうかなとは思うけど。まだ羊水に包まれて眠ってる坊やならいける、たぶん。楼主は邪魔してくるだろうけどね。まあ楼主は元人間だし勝てるよきっと」
不確定さをあらわす副詞が二回も使われている言葉に不穏感が漂っているが、白は不安を押し殺した。それからもし戦闘になったら即座に下がろうと決めた。女の子の後ろで何もしないというのは男として思うものもあるにはあるが、仕方ない。なんせ白は怪異に対する対抗手段なんて知らないのだ。参戦したところで足を引っ張る可能性の方が高いので、それは妥当とも言えた。
雪葉は間取り図をちらちらと見ながら廊下をすたすたと歩き、白はその一歩後ろからついていく。
(・・・あれ?)
だがふと。白の脳内に違和感が過ぎ去った。
(何か、重要なことを忘れている、ような)
しかし白がその違和感の正体を確かめる前に、雪葉が目的の仏間を見つけてしまった。
「ここだね」
間取り図から顔を上げた雪葉は二本の襖を眺め、頷く。
その襖は今まで目にしてきた艶やかな客間の襖とは違い、白の襖紙に松の木と雲が描かれている。
雪葉は襖の壁縁に手を掛け、静かに開け放った。
「う、」
思わず顔を顰める。だいぶ生臭いのには慣れてきたつもりだったが、仏間には今までにないほど甘ったるい腐臭が漂っていた。嫌悪感を誘う匂いだ。
ふたりは一瞬立ち止まるも、止まってもなんにもならないので仏間へと足を踏み入れた。
そこは、五畳ほどの小さな部屋だった。中央奥には木造の祠が鎮座しており、黒ずんだ木肌とは裏腹に、注連縄(しめなわ)に掛けられた紙が褪せない緋色を保っている。
ーー匂いは、その祠から発せられていた。
雪葉は訝しげにきょろきょろと室内を見回していた。
「どうしたんだ?」
「いや・・・【楼主】、楼主だったもの、かな?まあどっちでもいいや。彼がいるとしたらここじゃないかなと思ったんだけど、あてが外れたね。」
そういえば、と白は思う。結構この遊郭を歩き回っているはずなのに、首謀者と考えられる楼主には未だ遭遇していない。
あの手帳が置いてあった部屋にも仏間にもいないとするなら、一体何処にいるんだろうか。
雪葉は楼主がいないことを確かめると、徐(おもむろ)に祠に近づいていった。白も匂いに顔を顰(しか)めながらついていく。祠の奥には、両開きの扉がついていた。普通ならこの奥に、御神体とかお地蔵様とか仏像やらがあるんだろう。残念ながら、この祠にはそれを期待できそうにない。
雪葉は黒ずんですでにボロボロになっている祠の扉に、躊躇いもなく手を伸ばす。
ぎいぃと耳障りな音を立てて開いたその向こうには、腐った木箱と腐食した何かが乗っている椀、黒ずんで罅割れている手鏡があった。むわ、と一段と嫌な匂いが増す。
雪葉がポケットからスマホを出し、ライト機能を使って奥を照らす。
「って、スマホ?!」
「え、うん」
当たり前のようにスマホを持ち出した雪葉に、白は思わず声を上げる。
「白くんは持ってないの?」
「いや、持ってる。持ってる、んだが」
(え、使えるのか?)
むしろこの手の経験が豊富だろう雪葉が一向に使う素振りを今まで見せてこなかったので、当然使えないのだと思って放置していたのだ。だが白の思考を読んだように、雪葉がさらりと言う。
「ネットワークには繋がらないし連絡も出来ないけど、一応使えるよ」
それを使えないと言うんじゃないだろうか。
刹那の期待を予想通りに裏切られて調子を崩したものの、気を取り直して祠の中を覗き込む。
「・・・・・・わあ」
「う、わ」
見事にふたりともが引いた声を出した。そりゃ引きもするだろう。むしろ吐かなかったことを褒めてほしいくらいだ。
ーー木箱の中には、どろどろに腐って溶けた子宮と思わしきものが入っていた。
見事に溶解し液状化している。これでは揺蕩っている羊水との区別さえつかない。赤黒い粘性の液体が腐食した木箱に敷き詰められていて、黄ばんだ色をした肉片が浮いていた。当然この世のものとは思えないほどの悪臭を放っていて、雪葉と白は両者とも鼻を抑えて顔を顰めている。
(ーー当たり前、か)
なにせ大正時代の子宮なのだ。何十年も閉所に臓器を放置していたら、こうもなるだろう。
これ以上は流石に吐き気が耐えられそうになかったので、白は祠から離れた。
雪葉もほぼ同時に顔を上げ、だけど何故か動かないまま顎に手を当てて思案している。
「・・・これじゃあ、【卵】が孵らない。だって溶けてるんだから。・・・んんんんん?じゃあ、此処は?」
ぶつぶつと雪葉が何かを呟いているが、小声なため白にはうまく聞き取ることが出来ない。
白は手慰みに室内を見回すーーと、視界の端に小さな木箱を見つけた。襖側の壁の側に無造作に転がり落ちている。
(・・・ん?箱?)
なんだろうか。最近聞いたことがあるような。
白は近づいて木箱を拾う。
ぱかり。すでに開きかけていた蓋を開くと、そこには。
ーーからからに乾いて茶色に変色した指が一本、入っていた。
「・・・・・・・・・」
神経反射で素早く木箱の蓋を閉める。白はふう、と息を吐いてどくどくと暴れる心拍を落ち着けてからそっとまた蓋を持ち上げた。当然のことながら、中身が変わっているなんてことはない。あたりすべてが物理常識に喧嘩を売っているような空間なのに、なんでこんなときだけ超然と変わらないんだろうか。箱の中に入っているのが指の形をしたソーセージであってくれたらどれほど良かっただろう。
「・・・・・・更紗さん」
「うん?」
「朝、教室の机に置いてあった小指の木箱って、もしかしててのひらに収まるくらいの立方体で、白くて、中に赤い布が敷き詰められていたり・・・してたか」
問われた雪葉はすぐには答えず、一瞬、しん、とした空気が仏間を包んだ。
「・・・白くん」
「これ・・・」
白の傍に寄ってきた雪葉に、手にした小箱を掲げてみせる。
「何処に?」
「この床に」
「「・・・・・・・・・」」
ふたりとも、なんとも言えない微妙な顔をする。
「あーそっかーここで来るかー」
雪葉が何処か投げやりな様子で呟いた。その横で、白がんんむと唇を噛み合わせる。
「僕、今の今まですっかり忘れてた」
「しょうがないよそれは。いろいろとインパクト強い情報が次々に出てたし」
「更紗さんは」
「私は一応覚えてたけど・・・異界の全部を無理に理解しようとする必要はないし、全然関係ないものが混ざることもあるにはあるから・・・。また出てきたら出てきたらで考えようと思って放置してた」
そうしてまた出てきてしまったわけなのだが。
「更紗さん。この小指がなんだか、わかるか?」
「ううん。全然。正直水子蘇生の儀と繋げようがないし」
「だよなあ・・・」
完全なる手詰まりだ。楼主はいないし【卵】もないし小指はなんだか分からない。一応この仏間が異界の中心点だと当たりをつけてやってきたのに、この異界の主どころか出るための手掛かりすら見つからない。
思考のどん詰まりを誤魔化そうと、白は視線を木箱の中の小指に戻す。思えば、この小指が始まりだった。雪葉に送られた小指がきっかけでふたりはこの異界へと彷徨い込んでしまったのだ。だから当然、この小指には何らかの意味があるんだろうがーー。
そこまで考えて、自身の小指を一本立ててみつめる。別に、何か理由があってそうしたわけじゃない。わけじゃない、が。
(ーー小指、)
ふいに白の耳にある歌が蘇る。それは、日本で育った子供なら必ず一回は聞くであろう遊び歌だ。小指と小指を絡ませてするそれは、やくそくの、証のうたと教えられる。
「・・・ゆびきりげんまん、うそついたらはりせんぼんのーます、ゆびきった」
ぽつり、と白は思い出した歌を歌う。雪葉は突然歌いだした白に驚き、訝しげに彼を見つめた。
「思い出した」
人差し指を顎に当て、白は僅かに目を見開きながら呟く。
「【ゆびきりげんまん】の発祥は、ーー遊郭だ」
***
『ゆびきりげんまん』
多くの日本人が幼い頃大人に教えられ、友人と約束事を交わそうというときによく歌われる遊び歌。日本に古くから伝わるそれの意味を、幼子は頓着せず無邪気に歌っている。
だが、日本の童謡とは得てして恐ろしい意味や由来が含まれているもの。「花一匁」しかり「かごめかごめ」しかり「てるてる坊主」しかり「通りゃんせ」しかり。例を出していけばキリがない。『ゆびきりげんまん』もまた、例にもれずそれらの童歌と同様だった。
『ゆびきりげんまん』を漢字で書けば、『指切り拳万』となる。
また歌詞を漢字で書くと、
「指切り拳万 嘘ついたら針千本飲ます 指切った」
となる。
つまり歌詞の意味は「嘘をついて約束を破ったら一万発拳骨して針を千本飲ませるよ、じゃあ約束の証として指切るね(意訳)」だ。
いや殺意が高い怖い。
さてどうして約束の歌がこれほど物騒極まりないのかというと、その起源は江戸時代の花街まで遡る。なんでも、吉原などの江戸時代の遊郭では、遊女が意中の男性客に誓いを立てるため、自らの小指の先を切って渡すという儀式的な風習があったらしい。
他にもいくつか起源があったような気もするが、よく覚えていない。まあたぶん、江戸時代の遊郭で発祥というのがメジャーな説だろう。そもそも白がこんな知識をどこで得たのかというと、中学のときの総合レポートで日本の童歌を調べる、という課題があったためだ。調べたときはそこそこインパクトを受けて印象に残っていたのだが、レポートを書くために入れた知識なんて提出を済ませば忘れてしまうもの。日常使いする知識でもなかったので今の今まですっかり忘れていたのだ。
ーーと、いうようなことを白が雪葉に説明すると、彼女はなるほどと頷いた。
「つまりこの遊郭にいた”誰か”が切った指かもしれない、ってこと?」
「まあ、そうだな」
確定は出来ないが、一概に無関係とは言えない。と、白は思う。
ううん、と雪葉は唸ると、いつのまにか白の手から取った小指の入った木箱をみつめる。
「でも、すごいね。自分で自分の小指を切り落とすなんて。だって、麻酔とかなかったわけでしょう?」
ふいに、雪葉は顔を上げ、そんなことを白に話した。
「ああ。僕には到底真似できそうにない」
というか、現代に生きる殆どの人が出来ないだろう。『ゆびきりげんまん』の歌だって、広く残ってはいるものの本来の意味は形骸化している。約束が破られたからといって、実際に一万発も殴ったり針を千本飲ませようとはしない。いやそれは当時でも喩えだったのかもしれないけど。少なくとも、指は切らない。
(・・・自主的にしろ強制的にしろ。)
そんな儀式が罷り通っているなら、やはり遊郭はどこか歪な場所だ。
ぽとっ。
「・・・・・・?」
白が軽い思案に浸っていると、すぐ近くからなにかの音が聞こえた。例えるならそう、消しゴムが、床に落ちたときのような。顔を上げると、すぐ傍にいる雪葉がぱちぱちと瞬きをしながら開けた襖の向こうを見ている。白が雪葉の視線を追い、襖の先を眺めるとーーそこには、暗がりの中でもはっきりと分かるほどに白い指が落ちていた。
「・・・・・・、」
雪葉が仏間の外に出て、廊下に転がっている”それ”をそっとつまみあげる。異様な程に白いのは、白粉が塗りたくられているからか。爪には朱が差しており、その感触はしなやかで柔い。まるでついさっき手から切り離されたように生き生きとした小指だった。
ぽとっ。と、また音が聞こえた。雪葉と雪葉に続いて仏間に出てきていた白が音がした方向を見る。見失うかどうかくらいのギリギリの距離の先に、白い”なにか”が落ちていた。
続いて、ぽとっ。ぽとっ。ぽとっ。ぽとっ。ぽとっ。ぽとっ。
もはやBGMと化している嬌声に紛れて、そんな音が聞こえてくる。
いや、どんなヘンゼルとグレーテル。
雪葉は思わず脳内でツッコんだ。たぶんついてこいってことなんだろうけど、道標が物騒すぎる。白も同じ感想を抱いたらしい。僅かに頬を引きつらせながら、小指が落ちていく方向を指差して言った。
「・・・・・・とりあえず、行くか?」
***
約束を、しました。
約束を、したのです。
もう、破られてしまったけれど。
あの方は、必ず迎えに来ると仰ったのです。
私が身請けされる前に、一万円とともにお前を迎えに行くと。
どだい、無理な御話です。
あの方は身分がある方ではあったけれども、そんな大金を好きにできるほどの地位にはいなかった。
きっと、他の遊女ならかけらも信じなかったでしょう。
・・・ええ、愚かにも、私はそんな言葉を信じたのです。
あの方なら必ず、と。
愚直な人、真面目な人、やさしい人、・・・・・・馬鹿なひと。私の恋した、愛しい男。
一夜の夢に溺れるがための此の街で女が恋を夢見るなんて、なんと愚かしいことか。
嗚呼、嗚呼、嗚呼。でも、信じてみたかった。信じたかった。
所詮、夜にしか舞えない蝶。朧月夜の夢幻(ゆめまぼろし)。
浅ましくも遊女が、泡沫の夢を願ってしまった。
ーーだからこうして、罰が当たったのでしょうか。
子を身籠ったと分かったとき、あの方の子だということは自明でした。私を身請けしたいと仰る方は一度も私には触れてこず、一番の太客である彼を差し置いて楼主はお客を取らせようとは、しませんでしたから。
だから、身籠るということは。
ーー私が、私の意思で、抱かれることを選んだお人のみ。
勿論、楼主様も気付きます。私が店を裏切っていたということに。
だから楼主様からの罵声も、折檻も、甘んじて受け入れなければならないこと。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
けれど滅びへ至ると分かっていても、どうしても、あの方に触れられたかった。
たった、いちどだけでも。
子を堕ろさせるための暴力も、折檻も、罵声も、私はすべて耐えきりました。もうすぐ、もうすぐ、約束の日だから、と。きっとあの方は、身籠った私ごと、受け入れてくださる、一万円で買ってくださるなら、私は此処から解放されるーーと。
あぁなんて、馬鹿なこと。
所詮、一夜の夢の戯れ。守られる道理などない。
結局ーー約束は叶えられなかった。あの人は、来なかった。
どれだけ待っても。どれだけ待っても。
恋は盲目の毒にしかならないと、嗚呼、きっとはじめからそんなこと、分かっていたのに。
半狂乱になりながら小指を切断したときは、とても痛かった。
けれど、そんなものより心が痛い。
死んでしまえと叫ばれた恋が、痛い痛いと泣いている。
ーー私は、きっと、死ぬのでしょう。散り散りになったこの恋を抱えたまま。
楼主様がおかしくなってしまっていることは、座敷牢に入れられた私にも分かります。
なにより、もう二日もご飯が来ない。七日前までは、爪や髪をも切りに来る禿たちが持ってきていたのに。
目が霞む。飢餓感が腹の内側からがりがりと爪を立てるように止まない。喉が、渇いて、渇いて、たまらない。
ーーごめんなさい。
最期に力を振り絞って、腹を撫でる。
結局、産んで、あげられなかった。
苦しませて殺すために、孕んだわけではないのに。
あぁ、その、産声を、聞いてみたかった。
駄目な母親で、ごめんなさいね。
にゃあ。
と、猫が鳴いた。
猫は、外れた床板の僅かな隙間から座敷牢へと滑り込み、朽ちて萎びた女の手の甲を舐めた。
とある遊女がつけた躑躅色(つつじいろ)の飾り紐が、その首元で揺れていた。
***
目的地は、案外離れてはいなかった。
二階の奥に並んでいる和室の一番右隅に、最後の小指が落ちていた。
雪葉はちらりと白を見やると、再び視線を前に向け襖に手を掛ける。
襖が雪葉の手によって開けられ、室内の様子が伺えたとき。
雪葉と白は、絶句した。
「ね、猫・・・・・・?!」
白が狼狽えて声を震わす。そう、猫。四畳半ほどの客間と思わしきその和室の中に、猫がいた。ーーサイズがほんの人間三人ぶんほどの黒猫が。
(いやいやいやいやいや)
訳がわからない。
怪異が突拍子もないことなんて雪葉は重々承知しているが、それにしたって唐突すぎるのではないだろうか。
なぜ、猫。おまけに大きさを間違えている。
唖然としているふたりにはまるで構わず、黒猫はくぁと欠伸をひとつした。その振動で、首につけてある躑躅色の飾り紐が揺れる。
そうして猫はにたりと笑った。非常に既視感を覚える笑みで、大変気に食わない。
(いや、猫は普通笑わないか)
サイズからもこの遊郭にいることからも。どう考えても普通の猫ではない。
猫は雪葉たちを認め、その金色の瞳を三日月型に細める。二股の尻尾が天井に触れないギリギリの高さの位置で揺れ、前足でたんたんと床を軽く叩いた。まるで、おいでおいでをするように。
『いつまで其処に突っ立ってるんにゃぁ?』
「しゃ、喋った・・・」
『そりゃあ喋るさ。猫は喋るんだよ。お前様たちが知らにゃいだけでなぁ』
再びたん、と前足で床を叩く。
入れということだろう。拒否権は見当たらない。雪葉と白は大人しく客間の中に入る。
通常、ふたりの人間と猫一匹なら四畳半はさほど狭くはならない部屋の広さだろう。だが今目の前に座している黒猫のサイズは規格外なので、どうにも狭苦しい。黒い毛並みが一面に横たわる視界のせいか、圧迫感もある。
「幾つか、聞いてもいいですか?」
気を取り直した雪葉が静かに尋ねた。
猫はにやにやとした表情を崩さないまま、鷹揚に頷く。
『にゃあんでも』
「ーー【胎】の【卵】と、楼主は何処に?」
胎、と雪葉が口にした瞬間、身を刺すほどの殺気がこの部屋中を駆け巡った。出どころは探すまでもない、この目の前の黒猫からだ。雪葉と白は思わず身を固くするが、以外にも殺気は一瞬だけのことだった。猫は力を抜いて、質問に答える。
『おれの胎のなかだよ。ぜぇんぶ』
雪葉は、半ば予想していたその返答に、あぁやっぱりなと思った。
「・・・どういうことだ?」
白が尋ねると、雪葉が猫の代わりに答える。
「・・・・・・手帳に書かれていた儀式は、本物だった。少なくとも、【願いを叶える兎】から儀式を聞いた楼主は、この遊郭を異界化させることに成功している。なら、あの水子蘇生の儀は本物だ。なのに祠の中にあった子宮は溶けていた。子宮が溶けてしまえば、卵は孵れない。つまりあの儀式は失敗している。失敗していることがおかしい。さらに言うと、失敗しているのに【受精】がまだ続いていることがおかしい」
つまり。
「あれは、本物の【胎】の子宮じゃない・・・・・・?」
そういうことになる。
くっくっと喉を鳴らす音が聞こえた。
雪葉と白はほぼ同時に黒猫の方を見やる。猫は相変わらず笑っていた。
その御伽噺染みた様相に薄ら寒いものを覚える。普通、猫は嗤わない。
「なんで、食べたんだ?」
白が思わず聞くと、猫は耳をぴくぴくとさせながら話始める。
(・・・思えば、この空間で初めて出会った意思疎通出来る存在が猫というのも、なかなかに奇妙だな。)
そんなことを意識の隅で思考している白の余裕も、
『愛しているからさ』
ーー続く言葉に、すべて吹き飛んだ。
「_______え?」
鳥肌が立つ。その声の温度の”既視感”に、思わず吐き気がした。
不透明に間延びした声が自分の喉から出ているのを、他人事のように感じた。
『あの女は馬鹿だった』
黒猫は語る。おかしげに、楽しげに、けれど何処かせつなそうに。
白の腹の底で、どす黒い”なにか”がぞわりと立ち始める。
『梅と呼ばれたあの遊女はなぁ、ほんっとうに馬鹿で仕方ないお人好しだったのさ。他人に同情出来る身の上でにゃいにも関わらず、身も知れぬ野良猫の怪我を直し自分の部屋で面倒を見た。こんにゃ場所で報われない恋に溺れ裏切られ殺された!挙げ句の果てにゃあ自分を殺した男の子供のための【胎】扱いだ!!之を滑稽と言わず何と言う?』
笑う。嗤う。嘲笑う。きゃらきゃらと、猫は三日月のように笑っている。
(ーーああ、これは、)
『それでもにゃあ、あの女の馬鹿は続く。飢え乾くその死に際にも、死後の凌辱で魂を引き千切られ、無理矢理この狂った遊郭に縛り付けられても。あの女は呪詛を綴らない。誰かを妬み恨み呪う言葉を吐かにゃい。絶え間なく繰り返す断末魔の合間、時折正気を思い出すその時にも、ただ深い悔恨を謳うだけ』
『だから、にゃあ!』
『おれが代わりに呪ってやった!!!』
(これ、は)
猫は。心底おかしいとでも言うように前足同士を叩いて笑った。まるで、人間のような仕草で。
『全部喰ったさ。ぜぇんぶ。楼主も、卵も。祠には他の遊女からくり抜いた膣を入れてやった!別にする必要はなかったんだがにゃあ、そっちのほうがおもしろいと思って!!あぁ、食われるときのあの男の顔は見ものだった。にゃあ、あの男、最後ににゃんて言ったと思う?「たすけてくれ」ってさぁ!滑稽だよにゃあ?おまえはそう縋ってきた奴ら全員殺したくせに、にゃんで聞き届けられると思ってんだ?』
「ーーあなたは」
雪葉の呟きに、猫は一転、ふわりと優美に咲う。優しげにまるめられた金目は、満月にも似ていた。
『ーーおれは猫だもの。猫は、どんな恩でも忘れにゃい。情には情を。怨みには怨みを。おれはあの、ばかでかわいい女が愛しい。優しく撫でてくれたあのてのひらが好きだった。にゃあ、好いた女が殺されたなら、復讐するのは当然だろう?』
(ーーこれは、だめだ。)
「なあ、」
白は、低い声を出して呟いた。奥底から何かを堪えているような声。
「なんで、儀式を終わらせないんだ?おまえ」
にたりと。白の疑問に、黒猫は打って変わって嫌らしく笑った。
『おぉいいところに気付いたにゃあ、坊主。・・・にゃぁに、大したことはない。ただ、やるなら”徹底的に”やろうと思って、にゃあ?ーーほら、あの楼主、死んだ子供を生き返らせるとか抜かしてただろう?そのために梅を殺したろう?にゃら、その目論見ごとぶっ壊してやろうと思ってなぁ。ほら、【卵】はおれの胎の中だ。”これ”が孵ったら、きっと最高におもしろいことになる。おれの胎から産まれるものだから、おれが操るのは容易い。ああこれを今もこの遊郭の何処かで彷徨っている楼主の妻に見せてやろう。もはや正気とも思えぬが、おまえの子の成れの果て、おまえの夫の罪だと言ってこの【化け物】を放ったら、どんな悲鳴をあげるだろうなぁ!』
白の腸(はらわた)で、何かが煮えている。熱く、あつく、ぐつぐつと。
『ーーそうしてあの男が気が狂うほど願ったものを使って、此処に在るすべてを擂り潰してやろう』
「それは愛じゃない」
白は。白紙縒(つくもこより)は、煮え滾る怒りのままに言い放った。
雪葉が驚いたように白の顔を見つめる。だが白の頭には危険だという考えは浮かんでいなかった。冷静な理性は激情で塗り潰されている。ただ、真っ白に染められていた。拳を強く強く握りしめて、爪が肉に食い込んだ。じゅぷ、と肉が擦れる音がする。
黒猫は、目を細めた。
「そんなのは、愛じゃない。愛なわけがない。ただのエゴだ。傲慢だ。押し付けだ。愛だと言うなら、だったらどうして、そのひとをこの狂った空間から解放してやらないんだーー僕は。僕は認めない、絶対に」
認められるわけがなかった。どうしても。白紙縒は、”これ”を『愛』と認める訳にはいかなかった。
『愛』とは、もっと綺麗なものであるはずだ。美しいものであるはずだ。優しくて、温かくて、心地いい、相手の幸せを一番に願う感情であるはずだ。こんな、血塗られた惨劇を生み出すもののはずがない。こんなに醜くて誰にも何も救いようがない結末を嗤っている生き物が抱いている感情のはずがない。そうであるべきなんだ。
でなければ。ーー白紙縒という存在が、『愛』から生まれたことになってしまう。
白の脳内にノイズが走る。遠い昔の記憶だ。忘れたくてたまらないのに、忘れることの出来ない過去の。
『ーーそれでも、愛だったのよ。どうしようもなく』
そう言って、寂しげに微笑む女性が、慕わしくて憎らしい。
『なあ、ゆるしてくれ。ゆるしてくれ、紙縒。ーーおまえたちを、愛しているんだ』
そう告げた、かつて大好きだったはずの男の声が、否応なく憎悪を沸き立たせる。
嗚呼、煩い。
白紙縒の最も身近にあった『愛』は、醜悪で歪で悪夢的で狂気に満ちていて、他の誰からも許されないようなかたちをしていた。
だから、白はそれを、『愛』と呼ぶことが出来なかった。幼い頃自分が無垢に夢見ていた感情は、こんなものではないはずだ。御伽噺では死人すら蘇らせるその感情が、ああも残酷な結末を導くものか。
白紙縒は”それ”を『愛』と呼ぶ二人を憎んでいたし、そこから生まれた自分の存在をこの世で最も罪深いと盲信していた。
だからこそ。死んだ子供を蘇らせるために大勢を殺し、異界を発現させた楼主が抱いていた感情も。この黒猫が惨劇を続ける理由に至る感情も。『愛』だなんて、認められるはずがないのだ。
決死の思いで、白は猫を睨みつける。もしかしたら死ぬかもな、と思考の端で薄っすらと思った。あの前足を振り下ろされて爪で裂かれでもすれば、対抗手段を一切持たない白はひとたまりもないだろう。でも構わなかった。“これ”を曲げるくらいなら、死んでもいい。『愛』の定義は、白紙縒の生き方そのものに直結していた。
猫はじっ、と白を睨む。緊張感が室内を包む。だが予想に反して、猫は攻撃をして来ずに溜息を吐いた。
『お前様の愛など知らんよ。おれは猫だから。人の愛なんて知るもんか。おれが知っているのは、猫の愛だけだ。おれはおれの愛したいように愛する。ーー十年ちょっとくらいしか生きてにゃい坊主が、随分生意気な口を聞く』
そう言って、ぷい、と黒猫は顔を背けた。
白はまだ何かを言おうとして、けれど何も言えずに口を開け閉めする。
そんな白の肩に、雪葉はそっと片手を置く。ゆっくりと首を横に振ると、力が抜けたのか白の握りしめていた拳がふっ、と緩んだ。はあ、と白は深く嘆息する。
どうやら落ち着いたらしい白を尻目に、雪葉は手にしていた木箱を猫に差し出した。
「これと引き換えに、私達を帰していただけませんか」
黒猫は片目を開け、ちらと雪葉の方を見やる。
「お梅さんの小指です」
『___あぁ、其処にあったのか』
ふっ、と黒猫が吐息を漏らす。馬鹿馬鹿しいというように、郷愁に浸るように。
『にゃあ、知っているか?遊女が小指を切って男に渡すのは、心中の前身だったんだぜ。客に最後に渡す意味で、遊女は自分の小指を切っていた。ーー彼奴が小指を切ったのは、座敷牢に閉じ込められる僅か二日前のことだったんだ。なぁ、梅は、愚かな恋をしていたよ。身請け前に迎えに来ると言った男は、結局は来なかった。孕んでいたのは、其奴の子だ。裏切られて、惨めに死んだ。梅の小指は、男の元へ届かないまま何処かに行った』
ーーおれも探してみたが、見つからにゃかった。
そう呟く猫は、さっきよりも何処か悄然としていた。
「ーーじゃあ、届かなかったのか」
ぽつりと、白が呟く。ひとりごとのようなそれに、猫は二股の尻尾を振って答えた。
結局。
届けたい人には、届かなかったのだ。
梅という女性は、その人生を、よくある不幸の一言では済ませられないほど。
あまりにも、多くに踏みにじられていた。
搾取されただけの人生。搾取されるための死。
それはーー
「梅さんが、まだこの遊郭にいるなら」
雪葉は、猫をひたむきに見つめながら言った。その瞳の色は、深く澄んでいる。
「受け取るついでに伝えておいてくれませんか。ごめんなさい。でも私達では、あなたの願いを、叶えることは出来ないって」
白が驚いたように雪葉を振り向く。雪葉は、視線を逸らさない。
「届けたい人に届かなかった、その小箱を、私に届けた。その意味も重みも覚悟も、生半可
ではないと知って、それでも言いましょう。そんなことを、私に言われても困ります。
・・・私は、ただの人間なんですよ。神様でも魔法使いでもない。普通の女子高生です。
ーー救いを求めるなら、他をあたってください」
そう、雪葉は。あらゆる憎悪も哀れみも慈しみも寄せ付けない声で拒絶した。
白は口を噤んだ。雪葉が何を言っているかがよく分からなかったからなのもあるが、ただひとえに、彼女の言葉がどうしようもないほどの断絶を含んでいたからだ。
そう、雪葉が放ったのは拒絶の言葉だ。
それがどれほど残酷な言葉であろうとも、雪葉は告げねばならなかった。
同情で不幸は背負えない。最悪の覚悟もないのに、他人の責を負う気はなかった。
猫はぱしんっと尾で床を叩く。
『あぁいいさ。伝えてやろう。ただし、気が向いたら、にゃ。』
調子を取り戻したように、にたぁと笑って言葉を続ける。
『突き合わせて悪かったにゃあ?対価も貰ったことだし、帰してやるにゃ。ほぅら後ろに穴があるだろ?其処を通れば元通り、お前様たちが来たところへ帰れる。ーーあぁ、ウン十年ぶりに愉快な気分だった。やはりいいなぁ、お喋りが出来るというのは。
・・・おれが話し相手を欲しくなる前に、さっさとお帰り』
後ろを振り返ると、壁にちょうどひとりぶんほどの穴があった。中は真っ暗で、奥は見通せない。
「・・・本当だろうな?」
白が目を平べったくして聞く。
『疑うにゃよ、本当にそうしたくにゃるじゃねぇか』
「・・・・・・」
さらに目を濁らせながらも、これ以上言ったら逆効果になりかねないと思ったらしい白は黙って穴を潜り抜けて行った。
・・・白は普段慎重なくせになんでか時々大胆だと雪葉は思う。それとも、男の子はみんなこうなのだろうか。
雪葉も穴を潜り抜けようとして、ふいに猫の方を振り向いた。
「ーー最後にひとつ、聞いてもいい?」
『んぁ?』
「あなたは【ソレ】が孵って、此処を滅茶苦茶にした後、どうするつもりなんですか?」
猫は、なんでもないことのように答えた。
『一緒にいるさ。ずうっとな。』
「それは、愛しているから?」
『ああそうとも。愛しているからさ。梅のことも、梅の子供も』
まるで愛し子にでもするかのように、猫は己の腹を撫でた。その金色の目には、愛しさが蜂蜜のように揺蕩っている。
けれどその胎に宿っているのは、化け物とすら呼べない異端で。そんなものに自分の子供を成り果たせてしまった母親は、今も痛苦に絶叫し狂気に浸りながらこの遊郭を覆っている。
愛したものを愛するために壊すという、その致命的なまでに破綻している猫の行いに。
ただ、雪葉は。
(あぁ、いいなぁ・・・・・・)
雪葉は、そんなことを思った。
(すごいなぁ、すごい。ーー私には、選べなかった道だ)
自らの瞳に憧憬を滲ませ、まるで羨むように猫を仰ぎ見る。
もし、“あの子”にもそんな人がいてくれていたなら。
あの酷悪な惨劇の、一粒の救いにでもなっただろうか。
『馬鹿だねぇ、ゆっきー。』
頭の中で、嘲笑うかのように親友が言う。聞き覚えのある声だ。雪葉が離れられず、雪葉から離れていかない声だ。
『“そんなわけがない”だろう?』
ーーうん。そうだね。そうだった。
いまさら、どうしようもない事実だ。あそこにいた十六人はみんな死んで、そのうちの一人は永劫に呪われた。悔やんでも羨んでも何も変わらない。
もうどうあっても取り戻しようのない過去を想う感傷を振りほどいて、雪葉は今度こそ穴を潜る。
それで、お別れだった。
「わ、」
「うわっ」
穴を潜った途端、突如周りの景色が見覚えのある教室へと様変わりした。
平衡感覚を崩しかけ、思わず声を上げる。見ると、すぐ側にいた白も同じような様子だ。
机の上には、何も乗っていない。周りを見渡しても、ふたり以外の生徒は見当たらなかった。黒板の横に掛かっている時計の針は、一分も動いていない。
無茶苦茶だな、と白が嘆息する。まあね、と雪葉が頷いた。
あと数分も経てば、徐々に皆は登校してくるだろう。運動場では運動部の朝練が繰り広げられており、校舎の遠くからはコーラス部の合唱が聞こえる。
ようするに、いつもどおりの朝だった。
***
狂い歪められにし異界にて。
少年と少女を見送った猫は、にゃぁーご、と鳴きながら小箱を抱きしめ、眠っていた。
巨大な猫の身にはあまりにも小さなその箱を、やさしくやさしく、壊してしまわないように、そっと。
滑稽にすら見えるそれは、愛と呼ぶには悍ましく。
けれど罪と語るには、あまりにもひたむきだった。
この猫は、ずっと一緒にいるつもりなのだ。まるで添い遂げるように。
この、あまりにも歪み果てたこの場所で。
愛するものの悲鳴を聞きながら、愛するものを抱いて眠る。
その異常性を、猫はきっと、未来永劫自覚しない。
でも、案外、「愛」なんていうものは。
そういう、傲慢なものかもしれなかった。
***
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