いつか、この淡い期待が濃いものへと変わりますように。

オビレ

第1話

 駅の改札を抜け、小走りで俺のもとへ来た女性は、同じ大学に通う米澤よねざわさやねだ。

 彼女とは同じ学科の同期であり、俺たちはまもなく二年に進級する。


 米澤と同じ高校を出たこれまた同期の橋本から、彼女は高校時代、常に彼氏がいたことや、彼氏がいるとわかっていても彼女に落ちてしまう男子が一定数いたことなどを聞いた。

 聞いていなくとも、彼女がモテることくらい、見ていればわかる。誰かと話している時の彼女の表情は、人を惹き付ける魅力があるのだ。


 今日も米澤は遅刻して来たわけだが、彼女と会えた瞬間、そんなことどうでもよくなった。


「ごめんね! また遅刻しちゃった……」


「ううん。全然」


「お花見誘ってもらえたの嬉しくって、気合い入れて髪の毛セットしてたらすごい時間かかっちゃった……ごめんなさい」


「本当に気にしないで。その髪型すごくおしゃれだね」


「本当? 嬉しい! ありがとう!」


 可憐な笑顔で俺を見るこの女性に、落ちない人などいるのだろうか。


 ちなみに約三十分の遅刻だ。相手が橋本ならジュースの一本でもおごってもらうところだが、相手が米澤ならこちらから何かプレゼントしたい気持ちになる。これが恋の力なのだろうか。なんて偉大な魔法なんだ。


 俺たちは花見スポットとして有名な大きな公園へ向かって歩いた。駅から公園までの道にも桜の木があり、ちょうど見頃を迎えている。とても綺麗だ。


「桜、綺麗だね」


「そうだね」


「あっ、そうだ。可愛いと思う?」


「えっ?」


 何のことだろうか。君のことならば、即yesと返事をするところだが。

 

「私は綺麗とも思うんだけど、同じように可愛いとも思うの。優しいピンクの花びらが可愛いなぁって。男の子はどうかな? 可愛いって思う?」


 そういうことか。


「うん、思うよ。それに、濃いピンクよりもこういう薄いピンクの方が可愛いって思うなぁ」


「えっ! 私も! かじくんと私って、こういう趣味よく合うよね」


 そういった嬉しいことを口にされる度、俺の心は心地よく弾むのだ。



 俺が米澤と初めてまともに話したのは、一年生の秋だった。

 前期のあいだに彼女と話したことはなかったが、いくつも授業がかぶっていたので何度も姿は見ていた。その頃、彼女には彼氏がいた。相手は四年生の先輩だった。

 彼が彼女と一緒にいる姿をキャンパス内で何度か見かけたことがある。スラっとしたイケメンだった。優しそうな雰囲気をしており、彼女とお似合いだと思った。


 十月になり、後期の授業が始まると、どうやら米澤が彼氏と別れたらしいという噂が流れてきた。

 噂の真偽がどちらにせよ、俺には無縁のことだと思っていた。なんでも揃っていそうなあんな男性に敵うような一面を、俺は持ち合わせていないだろうから。


 ところが、なんのいたずらだろうか。十月の中旬に、図書館で授業の課題に取り組んでいると、俺の隣の席に米澤が座ったのだ。

 彼女は一人のようだった。俺もその日は一人だった。彼女が隣に来てから、俺は目の前の課題に集中したいのにも関わらず、意識は彼女に向いてしまっていた。

 まず、彼女からいい匂いがしたのだ。気分が悪くなるようなきつい香りではなく、爽やかな、それでいてほんのり甘い香りだった。


 俺はそんな香りなど気にせず、意識を課題に向けようと努めた。しかし、米澤がふと、髪の毛をゴムで束ね始めた。俺は思わず、顔を彼女の方に向け、その仕草を見てしまった。

 すると、髪を束ね終わった途端、彼女は俺をチラッと見た。目が合い、俺が軽く会釈をすると、彼女は少し微笑み、会釈を返してくれた。


 体温が上昇する俺をさらに熱くする出来事が、この直後、起きた。

 小さな可愛らしいメモが、俺のノートの上に置かれたのだ。メモを置いたぬしは米澤だ。


 そこには、”同じ学科の梶くんだよね?”と書かれていた。

 俺はその下に、”うん。米澤さんだよね?”と書いて彼女に渡した。


”うん。その課題、難しいよね”


”難しい。苦戦してる。米澤さんは何してるの?”


”英語の予習だよ。毎回小テストがあるんだけど、梶くんのクラスもある?”


 こういった調子で文通を重ねていると、


”もう授業ないよね? よかったら一緒に帰らない?”


 そう文面で誘われ、俺の心臓は跳ね上がった。


 互いが図書館でのノルマを達成した後、一緒に大学の最寄り駅まで歩いて帰った。

 俺は電車に乗らないため、彼女と話しながら歩いた時間は十五分か二十分程度だったが、非常に濃く、幸せな時間だった。


 この時すでに、俺の心は大方、彼女に奪われていたんだと思う。

 それから、度々駅まで一緒に帰るうちに、彼女と出かける仲にまで発展した。

 彼女と交わした会話から、例の噂が事実だということを知った。夏の間に別れたそうだ。振ったのは彼女からで、主にすれ違いが原因だったそう。


 俺はいつからか、彼女の次の彼氏になれるのではないかという期待を、心のどこかで抱いている。

 その期待が淡いものだということは、重々承知の上でだ。



 公園に着いた俺たちは、レジャーシートの上に座り、花見を開始した。昼食は俺が作った弁当だ。俺は大学生になってから一人暮らしを始め、毎日自炊をするようになったので、割りと料理は得意だと思う。


「美味しい~! どれも美味しいんだけど、この卵焼きが特に好き!」


「気に入ってもらえてよかった。帰省したとき家族に作ったら、大好評だったんだ」


「そうだと思う! これ売れるよ!? お惣菜屋さんで売ってたら絶対買うもん」


「そんなに!?」


「うん!」


 深く頷きながらそう言った彼女の顔はまばゆくて、俺の顔まで一瞬で笑顔にしてしまう。


「真面目で優しくて、料理も上手で……梶くんの彼女になる人は絶対幸せだね!」


「そうかな?」


「そうだよぉ! あっ、梶くんに彼女ができる前に堪能しておかなくっちゃ」


 そう言って、彼女は弁当のおかずを幸せそうに口に運ぶ。


 そう。彼女にとって俺は、ただの男友だちに過ぎないのだ。




 桜のシーズンは瞬く間に過ぎ、あっという間にゴールデンウィークになった。俺は実家に帰省し、そのかん毎日卵焼きを家族に振る舞った。


 明日から再び授業が始まるという連休最終日の夜、橋本から電話がかかってきた。


「はい、どうした?」


「おう……今いいか?」


「うん」


 橋本はゴホン、と咳をした。


「こんなことわざわざ伝えるべきかわかんねぇけど……今日、水族館で米澤さんが男と一緒にいるとこ見かけてさ……」


「……うん」


 一瞬で胸がざわついた。


「米澤さんから彼氏できたとか、そういう話聞いた?」


「いや、何も聞いてない」


「そっか……。その、見間違いかもだけどさ、多分元カレだったと思う……」


「……おお、そうなんだ……」


「あれだぞ! 別に一緒に水族館に行ってたからって、よりを戻したとは限らねぇし!」


「……そうだな。伝えてくれてありがとな。ってかさ、水族館行けたんじゃん。岸さんとだよな?」


「あぁ! おう! 実はさ……次のデートもOKしてくれたんだ……」


 顔は見えないが、電話越しに照れた顔をしているのが容易に想像できた。

 橋本ののろけ話を三十分ほど聞いた後、俺は電話を切った。



 翌日、大学で米澤から直接報告を受けた。


「あのね……先輩と、また付き合うことになったの」


「……そうなんだ……」


 何か言葉を続けようとしたが、何も出てこなかった。


「これからは二人きりでは会えないんだけど、でも、授業の休み時間とか、今まで通り話したいの。……迷惑かな?」


「ううん。そんなわけないよ。俺も普通に話したいし」


「よかったぁ……ありがとう!」


 このかん、俺の心はズキズキ痛むのと同時に、彼女から俺に向けられる愛らしい笑顔によって、癒やされてもいた。



 米澤が先輩とよりを戻してからは、俺たちは一緒にどこかへ出かけることも、電話で話すことも一切なかった。

 その先輩は卒業後、そのまま大学院に進学したため、キャンパス内で彼女と一緒にいる姿を何度も見かける羽目になった。

 偶然見かける度、”お似合いだな”と思ってしまう自分が、すごく嫌だった。それでも、思ってしまうのだった。




 俺の心は依然、彼女に奪われたまま、季節は冬になった。


「もう十二月とかやばくない!?」


「すぐ大晦日だねー」


「その前にクリスマスあるじゃん」


 近所のスーパーで近くを通った二人の女性がそう話をする中、俺は献立を考えながら野菜を見ていた。

 先週も作ったシチューをまた作ることに決めた俺は、ブロッコリーやニンジンをカゴに入れていく。

 寒くなってから、シチューは献立のヘビロテだ。シチューやカレーといった煮込む系の料理には、大変お世話になっている。


 俺は持参した袋に買ったものを詰めると、スーパーを後にした。アパートに帰る途中、小さな子どもを連れた男女が仲睦まじそうに歩いている姿が目にとまった。

 今日は土曜日だ。その子どもが楽しそうに笑っている。


 ”いい天気でよかったね”


 そんなことを思っていると、ふと米澤のことが頭に浮かび、途端に体が寂しい気持ちに包まれた。


「はぁー…………」


 ため息を吐き、どこか重くなったような足を一歩一歩アパートへと進めていく。

 部屋の鍵を開け、中に入ると、息を大きく吸って長いため息を吐き、俺は買った食材たちを次々に冷蔵庫に入れていった。

 大きなため息で気持ちを整えた俺は、てきぱきとやるべき課題やら勉強やらをこなしていく。


 少し休憩しようと思い、教科書やノートを閉じた時、


ブーッ ブーッ ブーッ


 スマホがバイブした。電話だ。

 画面に表示された名前を見た俺は、


「えっ!?」


 思わず叫んでしまった。

 そこには、”米澤さやね”と表示されていたのだ。


 俺は慌ててスマホを手に取り、電話に出た。


「はい、もしもし。米澤?」


「うん。いきなりごめんね……今、かけて大丈夫だった?」


「うん。大丈夫だよ」


「そっか……よかった……」


 声色から、彼女は元気がないのだと感じた。


「何かあった? 元気なさそうだよね……」


「うん…………梶くん……」


「うん……?」


「振られちゃった……」


「……そうなんだ……」


 思いがけない報告に驚きつつ、何か声をかけないと、と考えを巡らせていると、先に彼女の口が開いた。


「今から……梶くんの家に行ってもいい?」


 突然の申し出に戸惑いつつも、俺はすぐに「うん、いいよ」と答えていた。



 駅まで迎えに行くと、米澤と俺は最低限の会話しか交わさず、黙々と、俺のアパートを目指して歩いた。


 彼女を部屋の中へ通し、


「どこでもいいから座ってね。今お茶持ってくるから」


 と言ってキッチンへ向かうも、彼女は座らず、俺のいるキッチンに来た。


「あ、手伝いなら大丈夫だから。待っててね」


 俺の言葉が終わるやいなや、彼女は正面から俺の肩に顔をそっと当てた。


「あっ……の……米澤?」


 俺の鼓動は急激にスピードを上げた。


「少しの間でいいから……抱きしめてほしい……」


 俺が固まっていると、彼女は両腕を俺の背中に回し、俺の体に密着するように抱きついてきた。


「お願い…………ぎゅーってして…………」


 彼女の言葉が耳に入った直後、俺は彼女の背中に腕を回し、苦しくないように加減しつつも、しっかりと抱きしめた。


バックン バックン バックン バックン……


 しばらくの間、俺の心臓は騒がしく高鳴り続けた。



 その夜、米澤はうちに泊まった。

 当然の如く、ハグ以外のことを彼女とすることなく、彼女はベッドで、俺は寝袋で眠りに着き、朝を迎えた。


 俺は彼女が起きるより前に目を覚まし、静かに着替えを済ませると、できるだけ音を立てないように気を配りながら、朝食の用意をした。狭い部屋のため音は響いてしまうのだが。


 俺が朝食を作り終えた頃、米澤がベッドから起きてきた。


「おはよう……」


「おはよう。よく眠れた?」


「うん。ごめんね、ベッド使っちゃって……」


「全然。あ、ちょうどできたとこなんだけど、朝ご飯にする?」


「うん。いい匂いだね……あっ!」


 彼女は卵焼きを見ると、続けて俺の目を見た。


「嬉しい! ありがとう! 朝から食べられるなんて幸せだよぉ」


 嬉しそうに顔を緩める彼女に、ちゅっとキスできるような、そんな存在になりたいと思った。

 いつか、いつかそうなりますように……。



 歩いて米澤を駅まで送る際、俺は彼女を映画に誘った。彼女は相変わらずの魅力たっぷりの笑顔で、快い返事をくれた。


 ホームへと繋がる階段の手前でこちらを振り返り、笑顔で手を振ってくる彼女に俺も笑顔で手を振り返した。


 手や顔に冷たい空気を感じながら、俺はアパートへと歩き出した。 fin

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