第7話 しらゆりさまの神隠し

第七話 しらゆりさまの神隠し


 雨が降り続いている。今年の七夕も、やはり星空を拝めそうにない。

 そんなことを考えながら、窓際の席で頬杖をついて灰色の空を眺める。すると突然、指先で肩をとんとんと叩かれた。

「おはよう、梅宮さん」

「えっと……おはよう。どうしたの、紫(し)垣(がき)さん」

 狼狽えたのは、普段話すことのない人物がそこに立っていたからだ。黒いセミロングの髪と大人しげな顔立ちの彼女・紫垣陽(はる)花(か)が昌子に話しかけるのは、入学以来初めてのことだった。

「いきなりごめんね。ちょっとだけ、聞きたいことがあって……」

「いいわよ、何?」

「えっと……その」

 なかなか本題を切り出さず、視線を泳がせるだけの陽花。どうやら、他のクラスメイトには聞かれたくないらしい。

「……どこか、人気のないところに行く?」

 そう言って立ち上がると、陽花は頷いて彼女の背を追った。賑わう朝の雑踏を抜けて、二人は屋上の出入り口前の階段に腰掛ける。ドアの向こうから、雨の音が激しく響いていた。

「何かしら、聞きたいことって」

「うん、あのね……」

 両膝を抱き、頬を赤らめて、陽花は言った。

「梅宮さんって……付き合ってるの? 霧崎くんと」

「はっ……!?」

 予想だにしなかったことを聞かれ、再び狼狽する昌子。その反応を見て誤解したのか、悲しげな表情を浮かべる陽花。

「あっ、違うの、別にアイツと付き合ってなんかないから!! ただ、ビックリしただけでね!?」

「本当? 修学旅行で梅宮さんが溺れた時、人工呼吸をしてまで助けてくれたのに?」

 真っ赤になった昌子の顔を、疑い深い目で覗き込む。

「本当よ、あれは、アイツが救急措置に慣れてたってだけで……!!」

「でも、好きなんだね? 霧崎くんのこと」

「……それは、否定しないけど……」

 消え入るような声で答える昌子を見て、陽花は何故か、小さく微笑んだ。

「そっか。じゃあ頑張って、梅宮さん。私からは、何も聞かれなかったことにして?」

「えっ……」

 直後、朝のホームルームの予鈴が鳴った。陽花は何も言わずに腰を上げ、逃げるように階段を下りていく。

 それから、彼女が学校で姿を現すことはなかった。



「紫垣さん、ずっと行方不明なんだって。警察に捜索願い出したみたいなんだけど、まだ何の手掛かりもないらしいわ」

 一週間後、不登校と噂された陽花のことを生徒会室で尋ねられ、昌子は担任から聞いた情報をそのまま良介たちに伝えた。

「そうか……」

「心配ですね。最近、市内でよく女性が行方知らずになるらしいですし」

「ホンマか!? また強姦事件かいな!!」

「それはわかりませんけど、ある日突然、ぱったりと姿を消してしまうらしいんです。遺体が見つかっていないせいで、殺人かどうかもわからないらしくて」

「ふぅん。何か、神隠しみてぇだな……」

 両手を頭の後ろで組んで背もたれに寄り掛かり、何故か物憂げに呟く隼人。そんな彼を見て、昌子は行方不明になる直前の陽花の顔を思い出した。微笑んではいたものの、どこか哀愁を帯びたその表情が、目に焼き付いて離れない。

 そして必然的に、修学旅行で知った彼の秘密も思い出してしまう。息ができなくなりそうなほど、胸が苦しい。

「あった。これのこと?」

 スマートフォンで事件についての記事を探していた薫が、画面を葵に見せる。

「そうです、それです! でも、共通点は女性であることくらいで、年齢も職業も全部バラバラらしいんですよ」

「本当だね……」

 朝倉(あさくら)八(や)重(え)、四十二歳、専業主婦。春(はる)木(き)優(ゆ)菜(な)、十五歳、女子中学生。夏(なつ)目(め)文(ふみ)乃(の)、三十三歳、OL。篠原(しのはら)蓮(れん)、二十一歳、女子大生――葵が言う通り、共通するものは性別以外何もなさそうだ。

「時間だ、始めるぞ。梅宮、文化祭実行委員会で配布する予算の資料は?」

「バッチリよ。はい」

 立ち上がり、クリアファイルに挟んだプリントを手渡す昌子。同じものを、他のメンバーにも配る良介。

「何か、演劇部の予算だけ妙に高くねぇか?」

「ああ、それね。何でも、薫が主演のオリジナルミュージカルをするんだって、演劇部の部長が張り切ってるのよ。ね、薫?」

 昌子と目を合わせて、薫は頷いた。

「ミュージカルぅ!? しかもオリジナルって、大丈夫かよ!!」

「大丈夫だよ、素敵なお話だったし。歌いながら踊るなんて初めてだけど、いい経験になると思うから」

「凄いです、百合川先輩! 私、絶対見に行きますから!!」

「うん、ありがとう。頑張るね」

 目を輝かせ、興奮気味に握手を求める葵。それに応じて礼を言いながら薫は良介の表情を窺ったが、彼がその話題に関心を示している様子はない。一瞬だけ目が合ったものの、彼はすぐに彼女から視線を逸らしてしまった。

「でもさ、薫、大丈夫なの? 高遠(たかとお)のヤツ、絶対アンタに気があると思うんだけど」

 高遠とは、演劇部部長の高遠譲(じょう)治(じ)のことである。昌子と薫は彼と同じクラスであるため、異常なほど熱心に出演のオファーをしているところに、昌子は何度も遭遇していた。

「でも、告白とかされたわけじゃないから……」

 とは言いつつも、どこか困り顔の薫。彼女は再び良介の方を見遣ったが、それでも彼に変化は表れなかった。


「良介くんは、私に興味がないのかな……」

 ぽつり、と独り言を零しながら、重い足取りで駅へ向かう。その言葉は、下校中の学生たちや買い物客で賑わう商店街のどこかへ吸い込まれ、消えていく。生徒会役員会議が終わると部活動に所属していない薫は一人でバレエスタジオへ赴くのだが、いつもは気にならない孤独を強く感じてしまった。

 最近、彼女には気がかりなことが多い。良介への想いが報われるかどうかは勿論のこと、隼人がトランスジェンダーであるという秘密、そしてそのことを知ってしまった昌子が隼人と結ばれる日は訪れないという悲しい現実まで――それらが彼女の心に重く圧しかかっているせいか、近頃はバレエの方の調子も芳しくない。ただでさえ、約半年後に留学のかかった大事な国際バレエコンクールが控えているというのに。

「やっぱり、文化祭でミュージカルなんてやってる場合じゃないかな……」

 彼女が専門外のことを引き受けたのは、文化祭の舞台であれば良介が見に来てくれるかもしれないという淡い期待があったからだ。しかし、その望みはありそうにない。だが、今更主演を断ることはできないだろう。

「ややっ!? 奇遇だね、百合川さん!! どうしたんだい暗い顔して、麗しいお顔が台無しじゃないか!」

「あ、高遠くん……」

 溜め息を吐いたその時、薫の視界に映ったのは波打つ天然パーマと丸眼鏡。特徴的な甲高い声は、すれ違う人々を振り返らせる。

「しかし、物憂げな表情も素敵だね! やはり君を主演女優に抜擢した僕の目に狂いはなかったようだ!!」

「ちょっと、やめて! 恥ずかしいから!」

 商店街のど真ん中で注目を浴びてしまい、たまらず声を張り上げた薫。すると、譲治はわざとらしく両手で口を塞いだ。

「おっと、これは失敬! それはさておき、改めてオファー快諾有難う! 稽古は来週からだから、よろしくね!!」

「う、うん……」

 譲治が満面の笑みを見せても、薫の表情が晴れることはなかった。ようやく彼女の心中を察したのか、少し抑揚を抑える譲治。

「本当に、どうしたんだい? もしかして……恋の悩み、とか?」

「……まぁ、そんなところかな……」

 無意識に視線を落とし、足元を見つめ呟くように言う。

「……お相手は、やっぱりあの生徒会長なのかな?」

 譲治が問うと、どうして、と言わんばかりに顔を上げた薫。譲治は、苦笑いしてから続けた。

「そりゃわかるさ! だって転校してきた時、あんなにも幸せそうな顔して私のヒーローですって紹介してたじゃないか! あの時の君は、恋する乙女そのものだったからね!」

 学校中の皆が知ってることだよ、何を今更と譲治が付け加えると、羞恥の余り薫は陶器のような白い肌を紅色に染めた。

「……全く、君のような絶世の美女を悩ませるなんて。羨ましい限りだね」

 天を仰ぎながら、譲治も溜め息を吐く。

「まぁとにかく、恋のお悩みならあそこに行くといいよ。君も名前くらい聞いたことがあるだろう?」

譲治の指の先を見ると、そこには白い字で『占い処 聖母の泪(なみだ)』と書かれている、まるでスナックのそれのような紫色の小さな看板があった。入口は怪しい雰囲気の否めない佇まいだったが、彼女はその名を噂で耳にしたことがあった。鳳凰の女子生徒たちの間では有名で、恋に悩む乙女が救いを求めて向かう先として知られている。評判は定かではないが、それだけ存在が知れ渡っているのであれば行ってみる価値はあるのかもしれない。

「じゃあ、僕はこれから塾だから。またね、百合川さん!」

 アディオス、と言いながらウインクをして、譲治は去っていった。残された薫は、深呼吸をして目の前の古いビルのドアを開き、ゆっくりと地下へ潜っていった。



「お待たせしました、先輩」

 譲治が向かったのは塾ではなく、カラオケボックスだった。そこには、既に待ち合わせ相手の姿があった。しかし、彼はドリンクを注文しただけで、マイクは一切使っていない。

「さっき、例の彼女に会って来ましたよ。やはり、彼にゾッコンのようですね」

 ぴくり、と相手の眉が動く。眼鏡越しの目が譲治を睨みつける。

「そんなことはどうだっていい。それより、計画は順調なんだろうな」

「ええ、もちろん。だからこそ、こうして足を運んできたわけですから」

 自慢げに言うと、譲治は受話器を取り、ドリンクを注文した。



「ごめんください……」

 扉を押すと、ちりりん、と小さなベルが鳴った。深紅の壁、蝋燭の火のような橙色のランプ。店名に因んでのことなのか、聖母マリアを題材にした絵画がいくつか飾られている。花に囲まれて眠っている裸の女性を写した写真もあった。それらを眺めていると、薄暗い空間の奥から、いらっしゃい、とか細い女性の声が響く。

「あの、占って欲しいんですけど、いいですか……?」

「あら、また鳳凰の生徒さんね。どうぞ、お掛けになって」

 紫色のローブに身を包んだ髪の長い色白の女性が、テーブルを挟んで反対側の椅子を勧めた。ワインレッドの布で出来ているその椅子の脚は金色で、まるで西洋の宮殿に置かれているそれのように豪華な装飾が施されている。テーブルの上では、季節外れの鈴蘭が細長いグラスに活けられていた。

「ようこそ、聖母の泪へ。私(わたくし)、占い師の谷口(たにぐち)メアリという者です」

 名刺を差し出し、優しく微笑む。目元には僅かに皺があり、歳は四十代半ばか後半のように見えた。控え目な性格のように思えたが、唇と爪には毒々しいほどの赤が塗られている。

「谷口メアリさん……もしかして、鈴蘭の別名にちなんで?」

「あら、よくご存知ですね。そうです、鈴蘭の別名、谷間の姫百合とから取りました。お店の名前も、鈴蘭が由来になっています」

「そうですよね。メアリはもともとマリアだから」

 鈴蘭は、イエス・キリストが処刑された際に聖母マリアが流した涙からできた花であると言われており、それ故、純潔の象徴とされている。

「ところで、花と女の人が写っている写真がたくさんありますが……」

「ああ、私、趣味で写真を撮ることがあるんです。友人たちにお願いして、モデルになってもらってね。ところで、貴女は何を占って欲しいのかしら」

 無垢で幼い少女のような笑顔を見せたかと思えば、それはすぐに妖しい魔女のような笑みに変わった。ぞく、と背筋に悪寒が走る。

「えっと、その……」

「……ごめんなさい、愚問だったわね。貴女も、恋に思い悩んでいるのでしょう?」

 魔女の笑みから聖母の微笑みに変わり、我が子を宥めるような穏やかな声で問う。少し緊張が解れた薫は、こくり、と小さく頷いた。

「では、貴女の恋の行方を占って差し上げましょう。その前に、お名前をお伺いしてよろしいかしら?」

「はい……百合川薫といいます」

「まぁ、素敵なお名前。お顔も可愛らしくて、羨ましいわ」

 話しながら、メアリはタロットカードを広げて手際よくシャッフルし、三つの束に分け、それらを一つにまとめた。そして、弧を描くように再びその束を広げる。

「では、この中から一枚、直観で好きなものを選んで表にしてください」

 促され、素直に従う。選んだカードを表に返すと、そこには逆さになった骸骨――即ち、死神の姿があった。薫は、それを手に取った己を呪った。

「まぁ……」

 恐る恐るメアリの顔を窺うと、やはり困った表情を浮かべている。

「あの、やっぱり、良くない意味なんでしょうか……死神って」

「そうね、しかも逆さまだし……残念だけど、貴女の恋は間もなく終焉を迎える運命のようだわ」

 終焉。その一言で、薫の心は奈落の底に突き落とされた。震えだす指先を懸命に窘めて、藁にも縋る思いで助言を求める。

「いやです……私、彼のこと、諦めたくありません! 何とかなりませんか、メアリさん。私、どうしたらいいでしょうか……!?」

「落ち着いて、薫さん。まず、これで涙を拭いてくださいな」

 そう言いながら、メアリは鈴蘭の刺繍で縁取られた絹のハンカチを差し出した。それで目元を抑え、嗚咽を漏らす薫。

「薫さん、よく聞いて。この近くに白百合山というところがあって、その山頂には恋の神様が祀られている神社があるの。今はもう宮司のいない廃神社なのだけれど、御利益はまだあるそうだから、行ってみるといいわ。明日の午前二時に、一輪の白百合の花を持って」



「会長っ、会長いる!?」

 息を切らして昌子が良介たちのクラスへやって来たのは、昼休みの半ば頃だった。雨はいつの間にか止んでいて、校庭には既に体を動かしている生徒たちの姿がある。

「どうした、梅宮。そういえば、さっき放送で職員室に呼ばれていたな」

 空になった弁当箱を片付けながら良介は淡々と話したが、昌子の鬼気迫る表情を見て、彼も真剣な眼差しになる。隼人も、ただ事ではないと察し彼らの元へやって来た。

「か、薫が……どこにいるかわからないのよ……!!」

「何だって!? どういうことだよ、それ!!」

 目を見開き、昌子の肩を掴む隼人。彼女は、既に泣き出しそうになっていた。

「さっき、薫のお母さんから学校に電話があって、私に代わって欲しいって言われたらしいから、放送で呼び出されたのよ。そしたら、あの子、昨日私の家に泊まるってお母さんに言ってたらしくて、でも、私そんなの知らなくて……!!」

「それで、あいつ学校にも来てねぇのか!? 連絡も取れてねぇってことだな!?」

 瞳を潤ませ、肩と唇を震わせながら、小さく頷く昌子。

「良介、これ……!!」

 隼人が彼を見遣ると、既に険しい形相になっていた。

「……一連の、行方不明事件の可能性が高いな」

「ああ。梅宮、薫の母さんから、他に何か聞いてねぇか!?」

「あの子……昨日、駅前のホステルに泊まったらしいって、今朝警察から連絡があったんだって。チェックアウトの時間過ぎても受付に来なくて、しかもベッドには何もなかったって……」

「なら、まずはそのホステルに行くべきだな」

「待てよ、オレも行く!」

「私も……っ!!」

 鞄を持って良介が教室から飛び出すと、隼人と昌子も彼に続いた。


 ホステルとは、素泊まりの簡易宿のことである。部屋に二段ベッドがいくつか置かれていて、一人につき一つのベッドが割り当てられるドミトリー方式が一般的だ。外国人観光客の急激な増加に伴ってその数も鰻登りとなり、都内だけではなく首都圏、そして他の主要都市でも見かけることが多くなった。鳳凰学園高校の最寄り駅近辺にできたそのホステルは、開業してまだ一年足らずであった。

「ああ、この子ね。昨日の遅番のスタッフから聞いてるよ」

 支配人だと名乗る三十代半ばぐらいの眼鏡を掛けた男が、スマートフォンの写真を見ながら言った。傍らには、大量のスーツケースとバッグパックが置かれている。受付の前にはいくつかのテーブルとカラフルな椅子が用意されていて、宿泊客らしき外国人が数人、思い思いに過ごしている。奥には共用のキッチンもあった。

「外人さん向けの宿だからさ、十八歳以上なら保護者のサインなしで泊まれるし、家出かなと思って泊めちゃったみたいなのよ。お金はチェックインの時もらってるからそれはいいんだけどさ、朝になっても全然見かけないし、ベッドはもぬけの殻だったからおかしいなと思って携帯にかけたんだけど、繋がらなかったんだよね。だから一応警察に通報して、親御さんに伝えてもらったのよ」

「そうですか……では、彼女がどこかへ行くところを見かけた人もいないんでしょうか」

「そうだね。少なくとも、遅番の子と俺は見てないんだよ。チェックインの時間過ぎたら受付は無人になって、宿直のスタッフは基本寝てるし……あ、でも、お客さんなら知ってるかも」

 そう言って、支配人はテーブルに座っていた数人の宿泊客に声をかける。すると、ガイドブックを眺めていた欧米人の青年が応じた。昨晩午前一時過ぎにコンビニから戻って来た時、ホステルから出ていく薫とちょうどすれ違ったという。その程度の英語なら、良介たちにもすぐに理解できた。

『でも、そんな時間に女子高生が一人でどこへ行くんだろうね?』

『さぁ。何だか思い詰めた表情だったし、少し心配だったからどうしたのって声かけたんだけど、無視されちゃって。そしたら、ホステルの前にタクシーが来て、それに乗っていったよ。あと、何故か百合の花を持ってたな』

「……だってさ。大丈夫かな、これぐらいの情報で」

「はい、十分です。ありがとうございました」

 良介が頭を下げて出口へ向かうと、隼人と昌子もそれに倣ってホステルを後にした。

「タクシーに乗ったのか。じゃあ、タクシー会社に問い合わせてみっか?」

「止めておけ。警察ならともかく、一介の高校生を相手にするとは思えない」

「だよなぁ……」

「じゃあ、この辺りのタクシー捕まえて、手当たり次第に聞いていくしかないわね」

「ああ。だが、その前に……心当たりはないか。百合川が思い詰めた表情になるような原因に」

 駅前の商店街を歩きながら良介が尋ねると、隼人と昌子はほぼ同時に足を止め、苦々しく顔を歪めた。

「どうした。何かあるなら教えてくれないか」

「…………」

 顔色を窺うように、互いに目を合わせる二人。沈黙を破ったのは、隼人の方だった。

「……それは、いつか必ず話すからさ。とにかく、今は捜索を優先しようぜ?」

 なっ、と言いつつ、作り笑いを浮かべて良介の肩を叩く。腑に落ちないようだったが、彼がそれ以上追及することはなかった。

 彼らは駅の北口、南口、東口に分かれ、バスロータリーの横で待機しているタクシーの運転手に次々と声をかけていった。目撃情報を得たのは、昌子だった。

「ああ。その子なら、私が乗せたよ」

 初老の男性が、運転席に座ったまま煙草を吹かして言った。

「それじゃあ、彼女はどこへ!?」

「白百合山っていう所だよ。知ってる?」

「いえ……あの、女子高生が深夜に一人でそんな場所に行く理由って、何かあるんでしょうか?」

「ああ……お嬢さん、鳳凰の子だもんね。地元の人間なら知ってるんだけど」

 短くなった煙草を灰皿に押しつけてから、運転手は語り出した。

 白百合山には、『しらゆりさま』と呼ばれる恋の神様が鎮座している。しかし、その社は神を祀るためではなく、従者と心中した戦国大名の姫の怨霊を鎮めるためのもの。望まぬ政略結婚を迫られ、想いを寄せていた従者と駆け落ちをした姫が山の頂上から二人で身投げをしてから城下町の若い娘が次々と行方不明になり、姫の祟りだ、神隠しだと騒ぎになったからだ。

「それでね、姫の父親が仕方なくお社を建てると、神隠しは収まったらしい。ついでに、姫の好きだった白百合の花の球根をたくさん植えて花畑にしてやったんだって。江戸時代からは、そこに球根を植えたり花をお供えしたりすると恋が実るっていう噂が広まってね。でも今はもう廃神社になってて、知る人ぞ知るパワースポットみたいな感じになってるかな」

「そうなんですか……」

「時間が時間だったからね、制服姿だったら流石に行かせなかったけど、私服だったし大人に見えたから、お参りに行くのかなと思って」

「でも、どうしてそんな時間だったんでしょうか」

「お嬢さん、丑の刻参りは知ってるでしょ? あれはね、呪いの儀式と呼ばれる前は、心願成就の儀式だったんだよ。だからじゃないかな」

「でも、だからってそんな真夜中に……」

「まぁね。僕もそう思って、帰りも乗せてあげるって言って麓で待ってたんだよ。でも、いつの間にか寝ちゃってて、気づいたら朝だったんだ。寝てる僕に遠慮して別のタクシー呼んだのかどうかわからないけど、申し訳ないことしちゃったね……」

「そうですか……わかりました」

「何せ、昔神隠しの原因になっていた姫が祀られているところだし、最近よく女の人がいなくなっちゃってるんでしょ? 心配だよね、早く見つかるといいね」

「はい、どうもありがとうございました」

 会釈すると、背後から人が近づいてきたので昌子はタクシーから離れ、運転手は後部座席のドアを開けた。客が乗ると、タクシーはすぐに走りさっていった。

「梅宮!」

 スマートフォンを取り出そうとした時、隼人が彼女の元へ駆け寄って来た。

「霧崎、ちょうど良かった! 見つけたわよ、薫を乗せたっていうタクシーの運転手!!」

「マジか! こっちも目撃情報掴んだからよ、一緒に行こうぜ!!」

「い、行くってどこへよ!?」

「お前、聖母の泪っていう占いの店知ってるか!? 昨日、そこに入っていく薫を見たっていう証言があったんだよ!!」

 そう言って、隼人は昌子の手を引いた。その瞬間、彼女の心の中で、相反する二つの感情が入り混じって渦を巻く。

 胸が締めつけられたように苦しい。それでも、彼女は彼の手を振り払うことができなかった。


「あらまぁ。まだ学校の時間なのに、どうされました?」

 ビルの入り口で合流してから、三人は揃って聖母の泪へ入った。そこには、タロットカードをテーブルの上で広げているメアリの姿があった。傍らには、やはり鈴蘭が活けられている。隼人と昌子は店の不気味な雰囲気にたじろいでいたが、良介は怯むことなく切り出した。

「単刀直入にお聞きします。昨日の夕方、ここに百合川薫という鳳凰の学生が来ましたよね」

「ええ、来ましたよ。もしかして、皆さんは薫さんのお友達?」

「はい。その彼女が、昨晩の深夜一時過ぎから行方不明になっているんです」

「まぁ、それは大変」

 広げたタロットカードを集め、束にし、三つの山に分ける。

「彼女は、何か悩み事があってここへ来たはずなんです。何を占って欲しいと言われたのか、教えて頂けませんか」

 良介は語気を強めて迫ったが、メアリは涼しい顔のままだった。

「貴方たち、お友達なのに彼女の悩みを知らないの? 可哀想ね、薫さん」

 溜め息を吐き、上目遣いで良介を睨む。拳を強く握り締め、眉間に皺を寄せた良介。

「恋愛相談、ですよね?」

 良介の肩を掴んで後ろに下げさせ、前に出た隼人。彼の問いを肯定する代わりに、メアリは妖しく微笑んだ。

「でもね、彼女、死神のカードを引いてしまったの。かなりショックを受けているはずだわ」

「だから、しらゆりさまに行くよう勧めたんですね。それで、彼女にはどんなアドバイスを?」

「……今の片想いは諦めて、新しい恋を見つけなさいと言ったわ」

「そうですか。ところで、飾ってある写真は趣味で撮られたものですか?」

 強気な表情を崩し、にこやかに尋ねる。

「ええ。美しいでしょう? でも、男の子には刺激が強いかしら」

「いえ、芸術的で素晴らしいと思いますよ。ツバキにアヤメ、ハス、八重桜、そしてアジサイ……次はユリの花、ですか?」

 隼人が言うと、メアリはぴくりと片眉を動かした。

「あら、どうしてそう思うの?」

「だって、今が見頃じゃないですか。たくさん咲いている場所を見つければ、大量に確保できますし」

「そうね。じゃあ、次はユリの花にしてみようかしら」

 二人の会話を聞きながら、良介と昌子はしげしげと写真を見つめた。薄暗くてよく見えなかったが、アジサイと少女の写真に視線を向けた時、昌子は思わず声を漏らしてしまった。

「あっ……!!」

「あら、どうかされましたか?」

 メアリが問いかけたその時、昌子の返答を遮るように隼人が口を挟み、再び彼女の手を握り締めた。

「どうした梅宮、忘れ物でもしたのか? じゃ、そういうわけで失礼します! 行こうぜ、良介!!」

 名を呼ばれ、我に返った良介。どうやら、彼も写真を見て何か考え事をしていたようだ。

「隼人……」

「気づいたよな、お前も。間違いねぇ、あの女が薫を……!!」

「ねぇ、ちょっと、どういうこと? 説明してよ! それに、どうしてあそこに紫垣さんの写真が……!!」

「ここじゃ人が多過ぎる。話は後だ、まずは現場へ行かなくちゃな」


 およそ三十分後。彼らは、バスに乗って白百合山の麓へやって来た。そこには、朽ち果てる寸前の木製の鳥居。遠くから、烏の鳴き声が不気味に響いてくる。

「どうやら、ここで間違いないようだな」

「ああ。とっとと登ろうぜ」

 薄暗い山道を前に怖気づいていた昌子だったが、男子二人は構わず突き進んでいく。置いていかれるのも嫌だったので、必死になって後を追った。

「ねぇ、そろそろ話してくれてもいいんじゃない? 一体、何がわかったのよ!?」

「八重桜に椿(つばき)、文(あや)目(め)、蓮(はす)、そして紫陽花(あじさい)……それらは全て、行方不明者たちの名前に含まれてたってことだよ!」

「朝倉八重のアサクラには桜が入ってるから、名前と合わせて八重桜。春木は合わせて椿、夏(なつ)目(め)文(あや)乃(の)の目と文で文(あや)目(め)、篠原蓮のレンがハス、そして紫(し)垣(がき)陽(はる)花(か)は垣を取って紫陽花(あじさい)。行方不明者たちの共通点は、氏名に花の名前が隠れていることだった。だから、百合川もターゲットにされたんだ」

 高さの合っていない石段をひたすら上りながら、隼人に続いて良介が答えた。

「何故、氏名に隠れている花と共に撮影するようになったのかはわからないが……あれらは、恐らく全て死体だ」

「えっ……!?」

 死体。その言葉を聞いて、悪寒と恐怖に襲われる。

「なんで……どうして、そんなこと……!!」

「わからねぇ。ただ、ネクロフィリアっていう、死体に興奮する性癖の持ち主が世の中にはいるんだよ。だから、あの占い師もそうなんじゃねぇか」

「そんな……!!」

「彼女たちも、百合川と同じように聖母の泪を訪ねて来たんだろう。タロットカードでわざと縁起の悪いカードを引かせ、煽って人気のないこの山へ導き、そして殺す……そういうやり方だったに違いない。まだ、動機も殺しの手口もわからないが」

「ねぇ、じゃあ、もしかして薫は、もう……」

「決めつけんじゃねぇよ! しっかりしろ、梅宮!!」

 振り返り、再び泣きそうになった昌子を叱咤する。

「着いたぞ、ここだ」

 話しているうちに、彼らは山頂に辿り着いた。竹林に囲まれたその空間には無数のテッポウユリが咲き誇り、幻想的な光景を作り出している。

 奥には小さな滝があり、その傍らに苔の生えた古い社があった。賽銭箱の後ろの扉は鎖と南京錠で閉ざされていたが、それらは妙に真新しかった。

「良介、これ……!!」

「ああ、間違いない。百合川は、ここに監禁されているはずだ……!」

「うそ……薫、いるの? 薫、いるなら返事して!!」

 涙目のまま叫び、扉を叩く。すると、中からくぐもった声が聞こえてきた。

「薫、薫なのね!? 良かった、まだ生きてる!!」

「けど、この鍵はどうする!? あの女がいなきゃどうにも……」

「お呼びかしら?」

 振り向くと、そこには紫色のローブを着たままのメアリが立っていた。あまりの衝撃に、言葉を失う三人。

「い、いつの間に……!!」

「あら、わからなかった? 気配を消したつもりはなかったのだけれど」

 薄ら笑いを浮かべ、傍らの白百合を弄びながら答えるその姿に、寒気を覚える。

「メアリさん、何故ここに来たんですか」

「高校生探偵と名高い貴方のことだから、私の悪事なんてもうお見通しなんじゃないかと思って。だから、薫さんを解放してあげてから自首するつもりよ」

 社に近づこうとするメアリを避けて、道を開ける彼ら。

「アンタ、どうしてこんなことしようとしたんだよ……」

 呟くように隼人が問うと、静かに雨が降り始めた。ローブからはみ出たウェーブがかった髪が濡れ、滴る。

「……叶わぬ恋、失恋、不倫、離婚……そういったものに、彼女たちは悩まされていたわ。こんなに苦しい思いをするぐらいなら、いっそ死んでしまいたい……最初にそう言い出したのは、不倫によって離婚を切り出された朝倉八重さんだったわ。初めは救済のつもりで天に召し上げたのだけれど、死体の美しさに魅了されてしまってね。いつかは朽ち果ててしまうその儚げで美しい姿を永遠に残すために、写真を撮ることにしたの。朝倉八重さんの名前の中に八重桜があったのは偶然だった。ちょうど、八重桜が満開の時期だったのもね。それからは、氏名に花の名前があって、恋に苦しむ女性たちを選ぶようにしたわ。だって、その方がロマンチックじゃない?」

 南京錠に鍵を差し込んでから、三人の方へ振り返り、微笑む。同意を求めるその表情に、彼らは悪寒と嫌悪しか感じられなかった。

「……それで、遺体はどこに?」

「この辺りに埋めておいたわ。そうすれば、美しい白百合に生まれ変われると思って」

 ひっ、と小さく悲鳴を上げた昌子。顔は蒼白とし、脚は微かに震え出す。

 そんな彼女を他所にゆっくりと鎖を解き、扉を開いたメアリ。社の中は暗くてよく見えなかったが、そこには確かに拘束された薫がいるようだ。

「良かったわね、薫さん。お友達たちが、助けに来てくれたわよ。喉が渇いたでしょう? さぁ、これをお飲みになって」

 メアリは薫の口を封じていたガムテープを剝がし、懐からペットボトルを取り出した。その瞬間、何かを察知した良介が、大声で叫ぶ。

「飲むな、百合川! それは毒だ!!」

 直後、良介は無意識のうちに走り出していた。それに気づき舌打ちをしたメアリが、ペットボトルの水を良介の顔に掛ける。

「会長ッ!!」

「テメェ、ふざけんのも大概にしやがれ!!」

 隼人がメアリの背中を蹴り倒し、両腕を抑え身動きを封じる。

「梅宮っ、そこの鎖と南京錠取ってくれ! それから、良介を滝に連れてって顔を洗ってやってくれ、すぐにだ!!」

「え、ええ!!」

 隼人の指示通り、鎖と南京錠を渡してから急いで良介に肩を貸し、滝の水で顔を洗ってやる昌子。ハンカチで顔を拭かれてから、良介はようやく目と口を開き、すまない、と呟くように言った。

「大丈夫、会長!! どうしてあの水が毒だってわかったの!?」

「……お前も見ただろう、聖母の泪のテーブルの上で鈴蘭が活けられていたのを。鈴蘭を活けた水には、根から溶け出した猛毒が含まれている。長時間監禁された人間がまず欲するのは、間違いなく水だ。効率よく毒を摂取させる為、そして死体を傷つけない為に、奴は鈴蘭の毒を使ったんだ。自分の名前の由来になっているなら、尚更その可能性が高いと思ってな」

 コンバラトキシン、コンバラマリン、コンバロサイド――鈴蘭の花や根には数種類の毒が含まれており、青酸カリのおよそ十五倍もの強さを持つ。致死量は、体重五十キロの人間に対して僅か十五グラム。摂取してしまうと、嘔吐・頭痛・めまい・血圧低下・心臓麻痺を引き起こし、最悪の場合死に至る。ドイツでは誤って鈴蘭を活けた水を飲んでしまった子どもの死亡事故が発生しており、日本でも子どもやペットの誤飲・誤食の注意喚起がされている。

「大丈夫か、薫っ!! さっきの水、飲んでねぇだろうな!?」

 拘束を解き、脱力した薫を背負う隼人。スマートフォンで救急車と警察を呼んでから、二人に向かって叫んだ。

「薫は無事だ、でも脱水起こしてるかもしんねぇからオレは先に下りて救急車に乗せて来る! お前らはここで警察来るまで待ってて、事情を説明しといてくれ!」

「わかったわ! でも待って、アンタ薫に何か飲ませた!? 私、ミネラルウォーター持ってるわよ!」

「悪(わり)ぃ、助かる!」

 鞄を持って駆け寄り、薫に飲ませてやる昌子。何とかそれを喉に流し、朦朧とした意識の中で彼の名を口にする薫。

「良介くん……良介くんは……?」

「会長なら大丈夫よ、アンタは早く病院に行きなさい!」

 昌子が優しく背中を叩いて言うと、薫は体を震わせ、涙を流し始めた。

「ごめんね、みんな……迷惑かけて、本当にごめんなさい……」

「気にすんな! ほら、そろそろ行くぞ!」

 そう言って、軽快な足取りで山を下っていく隼人。その背中を見送っていると、麓から救急車とパトカーのサイレンが聞こえてきた。

 雨は、いつの間にか止んでいた。



「気づいたか、薫!」

 彼女が意識を取り戻したのは、救出された日の深夜だった。病室のベッドの傍らには、優しい表情の隼人と昌子。また雨が降り出しているのだろう、窓はしとどに濡れていた。

「二人とも、ずっと待っててくれてたの……?」

「ええ。さっきまで葵と渡邊もいたんだけどね、親御さんに怒られて帰っちゃったわ」

「そう……」

 良介くんは、と言いたげな瞳だったが、先に隼人がその名を口にした。

「良介なら、病室の外で待ってるぜ。ただ、その前にちょっと話しておきたいことがあってな」

「え……?」

 真剣な表情の隼人に、少し怯えた顔を向ける薫。

「まずは……悪かった。お前が不安になってあの占い師の所に行ったのは、オレのせいだ。オレがトランスジェンダーで、良介に片想いしてたなんてこと言わなければ、あんな所に行こうとはしなかっただろ?」

 両肘を開いた膝の上に置き、前屈みになって苦笑する。

「しかも、その秘密を梅宮にも知られちまったとなれば、自分のせいで梅宮を悲しませた、苦しませたって思ったんじゃねぇのか?」

「…………」

 目を泳がせ返答に迷っていると、昌子が諭すように言った。

「いいのよ、薫。正直に言って?」

「昌子……隼人、ごめんね……でも、自分たちのせいで私がこうなったなんて、思って欲しくないの……!!」

 掛け布団の端を強く握り締め、目尻に涙を溜める。

「わかったわ。わかったから、もう泣かないで。薫」

 震える白い手をそっと包み、握り締める昌子。

「……なぁ、薫。あの占い師やっぱイカサマで、タロットカードは全部死神だったんだよ。だから、結果なんて気にしなくていいって言いたいところだけどよ……そのカード、逆だったか?」

「えっ……?」

 どういうこと、と彼女が尋ねるより先に答える。

「タロットカードってのは、正位置と逆位置で意味が変わるんだよ。親父の姉ちゃん、つまり伯母さんが占い師やってるから知ってんだけどさ、逆位置の死神って、実は縁起いいんだぜ? 正位置は終焉だの破局だのっていう意味だけど、逆位置は逆の意味になるから……再生、再出発、起死回生、新展開を暗示してんだよ。つまり、急展開を迎えて全く新しい現実がやって来るってこった」

「……まぁ、そういうわけだから。頑張んなさいよ?」

 手を離し、肩にそっと触れてから立ち上がる。隼人も昌子に続いて病室から出ていくと、入れ違いで良介が彼女の前に現れた。眉間に皺を寄せ、苦しげな表情を浮かべている。

「良介くん……!」

 彼の名を呼び、思わず上半身を起こす。彼は、一瞬だけ彼女と目を合わせてからすぐに視線を逸らし、固く結っていた口を開いた。

「……事情は、全てあいつらから聞いた。こんな目に遭わせて、本当に、すまなかった……」

「待って、やめてよ、頭を上げて!」

 薫は懇願したが、彼は頭を下げたまま続けた。

「俺と隼人は本当にただの幼馴染で、それ以上でも以下でもないんだ。だが、お前があいつの秘密を知って不安になったのは、俺たちの距離が必要以上に近過ぎた所為だと思っている。悪かった、百合川……本当に」

 良介が話し終えると、薫はベッドから足を出し、スリッパを履いて彼の元へ近づいた。

「いいの、二人は全然悪くなんかない。不安に勝てなかった私が悪いの」

「だが……」

 ようやく顔を上げた時、彼女は両手で良介の頬を包んだ。

「そんなことより、私、嬉しかった。良介くんが、また私を助けてくれて。あの時良介くんが飲むなって叫んでくれてなかったら、私、今頃……」

 死んでたかもしれない、と続ける前に、薫は良介に強く抱き締められた。

「りょ、良介くん!?」

「良かった。お前が無事で、本当に」

 あまりのことに気持ちがついていけなかったが、しばらくすると、良介の腕が微かに震えていることに気づいた。

「好きだ、百合川。もっと早く、俺が言えていれば……!!」

「いいの……いいの、良介くん。どうか、自分を責めないで。あなたがいてくれたから、私、助かったんだもの……」

 肩を震わせ泣いている良介の心に寄り添うように、そっと背中に触れる。彼女も、静かに涙を流していた。

「良介くん。私も、あなたのことが好きです。きっと、初めて会ったあの日から」

「有難う。だが……一つ、話さなければならないことがある」

 抱擁を解き、彼女の瞳を真っ直ぐ見つめる。

「俺は……お前と、恋人同士になることができない」

「えっ……?」

「……無理、なんだ。恋愛感情を抱くことはあっても……性行為を、することが」

 非性愛者(ノンセクシャル)――恋をすることはできても、その相手とキスやセックスができない性的マイノリティ。彼がそうであることを自覚したのは、薫と出会ってからだった。彼女に心が揺り動かされることはあっても、彼女との行為は、想像しようとするだけで嫌悪感が湧いたからだ。

「……何か、理由があるの……?」

 恐る恐る尋ねると、良介は、少し間を置いてから話し出した。

「……父親は外交官で、俺が小学生の頃、家族でベルリンに移り住んでいた。母親はヴァイオリニストだったが、俺が生まれてから父親に演奏活動をさせてもらえなかったせいか、溜まりに溜まったストレスを発散するかのように母親は他の男を求め、関係を持ったんだ。そして……」

「……もしかして、見てしまったの?」

 ああ、と良介は頷きながら答えた。

「それが原因で、両親は……離婚、したんだ。あの日、俺が見ていなければ……!」

「違う、良介くんのせいなんかじゃない! お願いだから、これ以上自分を責めないで!!」

 深く傷ついた我が子を慰めるように、今度は薫が彼を強く抱き締めた。

「でも、ありがとう……私に、話してくれて。とても、勇気の要ることだったと思うから」

「……だが、すまないと思っている。これでは、普通の恋人同士にはなれないだろうからな……」

「いいの、普通なんかじゃなくて。大切なのは、お互いに想い合えるかどうかだから。良介くん、私、ずっと待ってるよ。あなたの気持ちが決まるまで」

「……やはり、お前には敵わないな」

 でしょう、と薫が微笑むと、良介も照れ臭くなって笑った。二人の笑顔は、他の誰かに向けられることのない、特別なものだった。



 太陽と青空が拝めたのは、いつ振りのことだろう。その日、待ちに待った梅雨明けが気象庁から発表された。そのせいか、校内は昨日までよりも活気づいているように昌子は思えた。

「あれ……?」

 ふと窓の外を見遣ると、朝のホームルームの予鈴が鳴っているにも関わらず、正門の方へ歩いていく人影があった。それが誰なのかすぐにわかり、思わず教室から飛び出していく。

「霧崎!!」

 走った甲斐あって、正門から出てすぐの所で彼女は隼人に追いついた。振り向いたその顔は、普段の彼からは想像できないほど暗い。

「ちょっと、何帰ろうとしてんのよ! もうホームルーム始まってるわよ!?」

 肩で息をしながら叫んだが、予想だにしなかった答えが返って来て、彼女は更に驚かされることになる。

「梅宮。オレ、学校辞めるわ」

「は……!?」

 言葉を失った彼女は、真意を問うように見つめ返した。

「薫やお前に嫌な思いさせちまったし、紫垣に至ってはオレのせいで殺されちまったようなもんだろ? 何か、もう、学校行かねぇ方がいいんじゃねぇかって思っちまってさ……」

「ちょっと待ってよ! 紫垣さんがアンタのこと好きだったって、知ってたの!?」

「行方不明になる直前、告られたからな。多分、オレにフラれたショックでそのままあの占い師の所に行って殺されちまったんだよ……」

「何言ってんのよ、別に、アンタが責任感じることじゃないでしょ!?」

「……まぁ、ぶっちゃけ……素直に、アイツらのこと祝福できない自分が嫌でさ。もう、辛いんだよ。二人の傍に居続けるのが」

 泣き出しそうな顔で本心を打ち明け、じゃあな、と言って彼は彼女に背を向けた。彼女は、すぐにでも追いかけて引き留めたかったはずなのに、微動だにできなかった。

「……嘘、でしょ……」

 呟き、ただ立ち尽くす。

 どこからか聞こえる蝉の声が、夏の訪れを告げていた。

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