第6話 マンタ・スクランブルの陰謀

 沖縄の梅雨は、他の地域より早く始まり早く終わる。ゴールデンウィーク頃に梅雨入りし、六月の中旬には夏至南風(カーチバイ)と呼ばれる強烈な季節風が梅雨の終わりを告げ、本格的なシーズンの幕開けとなる。

「わぁ! 見て薫、海が凄くキレイよ!!」

「本当、ガイドブックの通りだね!」

 眼下に広がるのは、アクアマリンの海と白い砂浜。窓際の席の昌子は、高度を下げ始めた飛行機の中で興奮を抑え切れずにいた。

 彼らの通う鳳凰学園高校は、三年の六月下旬に修学旅行をすることになっている。何故なら、学園長がここ――石垣島随一のリゾートホテル・エルシオンリゾート石垣のオーナーと親しい仲だからである。夏休み直前なら予約が取り易く、気候も安定していて台風の心配もほとんど要らないという理由で、毎年この時期に訪れることになったのだそうだ。

 飛行機は予定通りの時刻に着陸し、生徒たちは他の観光客たちと混ざって、次々と空港内へ流れ込んでいった。昌子だけでなく、ほぼ全員がこの日を心待ちにしていたようで、速足で手荷物受取場へ向かってしまう者も少なくない。

 到着口から出てロビーに集まった生徒たちは、クラスごとに分かれて整列。それから、担任の引率に従って大きな観光バスへと乗り込み、青々と茂るサトウキビ畑の道を進んで目的地へ向かった。

 彼らが宿泊するリゾートホテルは、島の北西部に位置する川平(かびら)という有名な観光スポットの岬にある。目の前には珊瑚礁の海、夜になれば満点の星空が楽しめるという贅沢な立地だ。

「ねぇ、薫! 早く行きましょうよ、プライベートビーチ!!」

 部屋に到着するなり、窓の向こうの浜辺を指さす昌子。そこには既に、海水浴やカヤック、サップなどのマリンスポーツを楽しんでいる人々の姿がある。時刻は既に午後四時を過ぎているが、日はまだ高く、昼間のように明るい。

「もう、昌子ったら。子どもみたい」

「いいじゃない、だって修学旅行よ? 石垣島よ!?」

 はいはい、と半分呆れたように笑う薫。けれど、彼女にとってもベランダからの景色は格別だったようで、眩い日差しで目を細めながらも感嘆の声をあげた。

「でも、やっぱり素敵。来れて良かったね」

「ホント! 私、楽しみ過ぎて昨日あんまり寝れてないのよ!」

「飛行機でもずっと起きてたもんね」

 晴れ渡る空の下、笑い合う二人。爽やかな潮風が、髪とワンピースを揺らす。

「ねぇ。明日の体験ダイビングで潜るマンタのポイントって、あの辺かしら?」

「さぁ……でも、ここから近いって言ってたよね」

 初日のホテル到着後は自由時間となっているが、翌日、彼らはマンタを一目見るために体験ダイビングツアーへ参加する予定である。石垣島とその周辺の離島で豊かな自然や沖縄の文化、そして観光業について学ぶことが修学旅行の主な目的であり、石垣島での体験ダイビング・シュノーケリングツアー、三(さん)線(しん)・エイサー・伝統舞踊体験ツアー、西表島でのカヤック・サップ・トレッキングツアー、竹富島での観光ガイド体験ツアーの中から好きなものを選び、参加できるようになっていたのだ。

「せっかく石垣島に来たんだもの、やっぱりマンタを見なくちゃね!」

「でも、本当は、隼人がダイビングに参加するからでしょ?」

 意味深に微笑む薫に弱い昌子は、本心を指摘された途端あんなに元気だった口を自ら封じてしまった。

「隼人って、部活には入ってないけど、アウトドアスポーツが得意みたいだもんね。ダイビングのライセンスも持ってるなんて、かっこいいよね?」

「……べ、別に、関係ないわよ……ダイビングにだって興味あったし……」

 俯き、薫とは反対の方を向いて、耳まで赤くする昌子。余りにも分かり易過ぎるその態度に、つい揶揄いたくなってしまう薫。

「じゃあ、早速買いに行かなくちゃね」

 水着を、とわざと昌子の耳元で囁き、更に彼女の体温を上昇させる。

 水着は学校指定のものを持って来るようにと言われていたが、昌子の恋を応援しようと、薫はこう提案したのだ。それはわざと家に置いていって、ホテルの売店で刺激的な水着を買えばいい――と。

「でも、やっぱり恥ずかしいわよ……だって、他の子は皆スク水なのよ?」

「あのね、昌子。年頃の女の子たちが、大人しく学校の言うこと聞くと思う? 逆にスク水の方が目立っちゃうくらい、ビキニの子が多いんじゃないかな」

 足取りの重い昌子の手を引いて、無理矢理売店へ連れていく。マリングッズやお土産、アイスやドリンクを揃えている売店の窓からプライベートビーチの様子を伺うと、薫の言う通り、ビキニを着ている女子たちがほとんどであった。

「ホントだ……」

「でしょ? もう思い切って買っちゃおうよ」

 私もここで買うからと言われ、最早後には引けなくなり、腹を括る。

「や、やってやろうじゃないの……!!」

「あれ? 何だお前ら、水着忘れたのかよ」

 昌子が目の前のビキニを取ろうとした瞬間、背後から聞こえたのは隼人の声だった。ラッシュガードに水着、ビーチサンダルという出で立ちで、右手には飲みかけのシークワーサージュースがある。

「うん、そうなの。ねぇ隼人、良介くんはどんなのが好きかな?」

 動揺の余り固まってしまった昌子を他所に、薫はいつも通りの調子で話しかけた。

「あいつなら、どんなの着てても効果は抜群だろ。お前が好きなやつ選べばいんじゃね?」

 とても直視できるとは思えねぇけどな、と笑いながら付け加える。

「で? お前も水着姿を見せたい相手がいるのかよ、梅宮」

「……わ、私は……」

 アンタに見せたいのよ、などと言えるはずもなく、視線を泳がせ口ごもってしまう。そんな彼女の代わりに、薫が二つの商品を手に取って彼に見せた。

「昌子は、派手な色が似合うんじゃない? 赤とか、紫とか。大人っぽくていいと思うんだけど」

「ちょっと、薫!」

 彼女が選んだのは、色だけでなくデザインも過激で、男子高校生を釘付けにしそうなものだった。咄嗟に彼女の肩を掴み、制止を試みる。

 しかし、隼人は一切動じなかった。

「あー、でも、ビキニは止めといた方がいいぜ? そんなの着たら腹冷やしちまうからな。冷えは女の大敵だろ?」

 じゃあな、頑張れよ。呆然とする彼女たちを他所に、それだけ言って隼人はビーチへ戻っていった。

「ちょっと、今のどういうこと? 何で薫は良くて、私はダメなのよ!?」

 憤慨する昌子の傍らで、何か考え込んでいるのか、急に押し黙る薫。

「……ごめん、昌子。私、冷房で体冷やしちゃったみたいで、お腹痛くなっちゃった」

「えっ? ウソ、大丈夫!?」

「うん、平気。でも、トイレ行って来るね。昌子は水着選んでて」

 勿論、腹痛は昌子を残して隼人を追いかけるための口実であった。薫は屋外のトイレへ向かう振りをして、彼の姿を探す。

「隼人!」

 彼の背中を見つけた直後、薫は精一杯叫んだ。彼女にしては珍しく声を荒げているので、驚いたように振り返る。

「おう、どうした?」

 ストローから口を離し、応じる隼人。

「……少し、話したいことがあるの。二人きりで」

「…………」

 神妙な面持ちの彼女を見て、何かを悟ったのか、彼から笑顔が消える。二人は、ビーチの端の岩の陰に腰かけた。彼らの足元では、一匹の小さなヤドカリが懸命に動いている。

「で? 何だよ、話したいことって」

 空を仰ぎ、穏やかな波音を遮って切り出す隼人。

「ねぇ。本当に、何とも思わなかったの? 昌子が、水着選んでるって聞いて……」

「質問の意図がよくわかんねぇな。もっとハッキリ言ってくんねぇ?」

「……偏見かもしれないけど、あれだけ色っぽい水着を見せられたら、普通の男の子は照れたり興奮したりするものじゃない? それなのに、あなたは何の反応も見せなかった。それどころか、お腹を冷やすから着るな、なんて……そんなに興味がないの、昌子の水着姿に」

「ああ、ないね。お前の読み通り、『普通の男の子』じゃねぇからな」

 薫は絶句した。そうかもしれない、と思いはしていたものの、心のどこかでそれを否定して欲しいと期待していたからだ。

「それは……もしかして、男の子が恋愛対象ってこと……?」

 唇を震わせ、手汗を掻き、恐る恐る問う。しばらく間を置いてから、隼人は大声で笑い出した。

「ちょっと、何で笑うの? 私、真剣に聞いてるんだよ!?」

「ああ、悪(わり)ぃ悪ぃ。そう来たか、と思っちまってよ」

 謝ってはいるものの、まだ腹部を抱え、目に涙を浮かばせている隼人に誠意は見られず、頬を膨らませる。

「オレがゲイで、良介に惚れてるって思ってんのか? 安心しろ、そんなんじゃねぇから! 告白でも何でも遠慮なくやってくれ!!」

 隼人が笑いながらそう言った直後、薫は胸が痛くなった。昌子の恋心を利用して、自分が本当に聞きたかったことを引き出してしまったことに気づいたからだ。

「……じゃあ、なんでさっき、昌子をあしらうような言い方したの……?」

 不意に立ち上がり、全身を伸ばす隼人。オレンジ色に染まり始めた空を仰ぎながら、彼は問いかけた。

「薫。オレの秘密を抱えながら、梅宮を応援する覚悟はあるか?」

「えっ……」

 その言葉に隠されたもう一つの意味を、彼女はすぐに理解してしまった。彼は昌子の気持ちをわかっていながら、それに応えるつもりがないのだ。

 しばらく迷った薫だったが、覚悟を決め、ゆっくりと頷く。隼人は、一息置いて彼女に言った。

「オレ、トランスジェンダーなんだよ。体の性は男、でも性自認は女。だから、女の水着で興奮なんかしねぇんだよ」

「……じゃあ、昌子の恋は……」

「実らない。ついでに言うと、部活に入らないでバイトばっかしてんのは抗ホルモン剤を投与するためだ。保険適用外の治療だから、えらく金がかかる。親にはまだ言ってねぇから、自分で稼ぐしかねぇんだよ」

 立ち上がり、遥か彼方の水平線を見つめる。

「だから、良介の事はハナから諦めてる。お前はいいよな、薫。正真正銘の『女の子』で」



「皆さーん、おはよーございまーす! 知(ち)花(ばな)ダイビングサービスの金(きん)城(じょう)琉(る)華(か)です、よろしくお願いしまーす!」

 翌朝。体験ダイビングツアーの希望者たちは、ホテルのロビーにやって来た肌の黒いショートヘアの女性に迎えられ、バンに乗り込んだ。

「全員乗ってるかな? 忘れ物はない!? それじゃあ、出発しんこーう!」

 胸ポケットにハイビスカスとマンタの刺繍が施されたポロシャツ、サーフパンツ、足元はビーチサンダル。頭に乗せたサングラスを目に掛けて、彼女はアクセルを踏んだ。

「みんな、今日もいい天気で良かったねー! 海も凪いでるから、船酔いし易い人も安心してねー!」

 スマホから再生されている陽気な音楽に合わせて、明るい声で話す琉華。生徒たちも楽しげに答えていたが、その中の三人――隼人、薫、そして昌子が浮かない表情を浮かべていた。そんな彼らを、怪訝な顔をして見つめる良介。

「あれれぇ、何だか暗い人たちがいるなぁー! 君たち、もしかして潜るのが怖くなってきちゃったのかなー!?」

「あ、オレ、ライセンス持ってるんで。昨日、あんま寝れなかっただけです」

「え、ライセンス持ってるの!? ランクは?」

「レスキューダイバーで、三十本くらい潜ってます」

「すごぉい、じゃあ君は一人でも余裕だねー!」

 レスキューダイバーとは、読んで字のごとく、潜水中及びその前後の事故に対応するためのスキルを習得したダイバーのことである。三十本とは、それまでに使ってきたタンクの本数。即ち、彼には三十回の潜水経験があるということだ。

「昌子も寝れなかったの?」

「え、あ、うん……」

 隼人と自分はともかく、昌子まで暗い顔をしている理由が不可解だったので尋ねた薫だったが、返事はどこか曖昧だった。

 バンは川平の集落に入ってすぐのところで止まった。一見普通の民家のような建物だったが、門には確かに『知花ダイビングサービス』と記された看板が立て掛けられていた。

「はい、とうちゃーく! みんな、足元に気を付けて降りてねー!」

 勢いよくドアを開け、ショップへ案内する琉華。色とりどりのハイビスカスが植えられている庭には椅子付きのピクニックテーブルが四つ置かれており、生徒たちはグループ毎に座るよう指示された。良介、隼人、薫、昌子の四人は、手前のテーブルに腰掛けた。

「皆さん、おはようございます! ようこそ知花ダイビングサービスへ!!」

 すると、ショップから顔のよく似た二人の青年が現れた。髪型はビジネスショート、歳は琉華と同じく二十代前半から半ばほど。彼らも彼女と同じポロシャツを着ていて、肌がよく焼けている。しかし元気に挨拶をしたのは一人だけで、もう一人は口を一切開かず、機嫌の悪そうな顔でいい加減な会釈をしただけだった。

「ボクはキヨ、知花汐(きよ)といいます! こちらは、双子の兄の潮(うしお)です! 今日はボクら三人と、今船で待っている船長の四人で皆さんをガイドします、よろしくお願いします!」

 よろしくお願いします、と生徒たちも言うと、汐はマンタの写真のフリップを出して今日のダイビングポイントの説明を始めた。

「これから皆さんと一緒に行くポイントは、『マンタ・スクランブル』と呼ばれています! 九月から十月がマンタの繁殖期で、その時に行くとまるで渋谷のスクランブル交差点のようにたくさんのマンタたちが集まることから、そのように名付けられました!」

 写真には確かに何匹ものマンタの姿があり、生徒たちは口々に感嘆の声を漏らした。

「今はまだ繫殖期じゃありませんが、ここは『クリーニング・ステーション』という、マンタが魚に体のお掃除をしてもらう場所でもあるので、見られる可能性は十分にあります! ただ、百パーセントの保障はできません! なので、マンタが見られますようにと一生懸命祈ってください!」

 そう言いながら合掌すると、生徒たちは楽しげに笑い声を上げた。

「では、早速準備に取り掛かりましょう! 今から皆さんの名前を一人ずつ呼んで、ウェットスーツとブーツを渡します! それらを装着したらもう一度バンに乗って、船が停泊している川平湾へ移動します!」

 彼らは予め用意されていたウェットスーツとマリンブーツを身に着け、川平湾へ移動した。船は、波打ち際からさほど離れていない場所に停められている。

操縦席では、貫禄十分な雰囲気を漂わせる船長兼オーナー・知花満(みつる)が、サングラスを外して白髪交じりの頭上に置き、不機嫌そうな顔を晒しながらタバコを吸っていた。

 生徒たちは飛沫を上げながら浅瀬を歩き、船尾の梯子で船に上がった。船の上には、既に器材とタンクが用意されている。

 彼らは再びグループに分かれて、担当するインストラクターからダイビングの説明を受けた。良介たちを引率するのは双子の兄・潮だった。彼は終始無表情を貫き、ボソボソと暗く抑揚のない調子で話す。

「……次に、ハンドサインについてです。水中では話せないので、手話のように手でコミュニケーションをします。OK、大丈夫、問題ないという時は指で丸を作ります。俺がこのサインを出したら、OKですかという質問になります。大丈夫じゃない、トラブルです、助けてくださいという時は掌をこのように動かします。親指を立てたら浮上という意味になるので、OKサインと間違えないよう気をつけてください。……わかりましたか」

 四人が黙って頷くと、では出航までゆっくり休んでいてください、と言い残して彼は操縦席にいる満の元へ向かった。

「……取り敢えず、言ってることはわかったけど……陰気よね、あの人」

「うん、ちょっと怖いよね」

「そうか? コイツの方がよっぽど陰気臭ぇじゃねぇか!」

 笑いながら良介を指さすと、彼女たちの予想通り、脳天に拳骨を食らった隼人。

「いってぇな、少しは加減しろっつーの!!」

「お前も少しは学習することだな」

 何年幼馴染をやってると思ってるんだ、と呆れて溜め息を吐く良介。そんな二人を、物憂げな眼差しで見つめる薫。

 全グループの説明が終わると、船のエンジンが掛けられた。汐がマスク・シュノーケル・フィンを装着して海へ飛び込み、古い珊瑚に掛けていた碇を外す。その碇のロープを、船首の琉華が引き上げる。

 エメラルドグリーンの珊瑚礁を抜け、紺碧の沖へ出るとスピードが速くなった。船の上げる飛沫を浴びた生徒たちが、楽しそうに騒いでいる。

 一行は、十五分ほどでマンタ・スクランブルに到着。そこには、既に三隻のダイビング船が停泊していた。今度は全ての器材を身に纏い、船首からダイナミックに飛び込む汐。水面で琉華から下げられた碇を受け取り、そのまま海へ姿を消していく。どうやら、碇を掛けるのにちょうどいい場所を探しているようだ。

 船尾からも二つの碇が下ろされ、やがて汐が船に戻って来ると、琉華が手を叩き号令を掛けた。

「さぁ、お待たせ! マンタ・スクランブルに到着したよー!!」

 歓声に沸く船上。その様子を見て汐も嬉しそうに笑っていたが、潮はやはり固い表情のままだった。

 琉華が話していた通り波は穏やかで、船が激しく揺れることはなかった。スタッフたちは、再び担当するグループを指導し始める。

「では、まずこのウエイトベルトを腰に巻きます。着け方を見せるので、よく見ていてください。外し方も覚えましょう」

 ウエイトベルトとは、重りとなる数キロの鉛の塊を通したベルトのことである。これがなければ、ウェットスーツと人体の持つ浮力を相殺して海に潜ることができない。

 各々がウエイトベルトを装着した後、潮は良介たちを一人ずつ船尾に座らせ、器材を装着させた。顔にはマスクとシュノーケル、足にはフィン。そして、腕はBCDというジャケット状の器材に通させる。BCDは空気の出し入れによって膨らませたり萎ませたりすることが可能となっていて、背中の部分にはタンクが固定されている。

 潮のグループは最後だったので、四人目の昌子が一人船上に残された。やはりいざ潜るとなると怖気づいてしまい、中々決心がつかなかったからだ。黙々と器材を装着させていた潮だったが、不意にBCDのポケットを開け、その中にウエイトを幾つか入れ出す。

「あの、流石に重すぎなんじゃ……」

「ああ。君、スタイルいいから、軽過ぎて沈まないんじゃないかと思ってね」

「はぁ……」

 それなら、薫の方が軽いのでは――と疑問に思ったが、素人は大人しく従っていようと考え、口出しはしないことにした。

 全ての器材がセットされ、レギュレーターと呼ばれる呼吸器を咥えると、緊張がピークに達し、鼓動が激しくなる。しかし、他のメンバーは全員潜れたのに自分だけギブアップするのも嫌だったので、意を決して海へ飛び込んだ昌子。どうなることかと心配していたが、マスクに水が入ることはなく、呼吸も思ったよりスムーズにできて一安心した。

 潮に導かれ、船尾のアンカーロープを掴む。鼻を抓んで耳抜きをするようハンドサインで指示され、言われた通りにする。水圧で圧迫されていた鼓膜が楽になり、OKサインを出すと、潮は昌子のBCDの空気を抜きながら彼女と共に潜降していった。

全身が水に包まれて心地良い。聞こえるのは、自らの呼吸音と吐き出す泡の音。そんな彼女の目の前を、数匹の縞模様の魚たちが横切っていく。

 碇が下ろされていたのは、珊瑚の山の頂上だった。そこでは、先に潜った他のメンバーとスタッフが待機していた。周囲の珊瑚の山にも、他のダイビングショップの客とスタッフたちが同じようにスタンバイしている。メンバーたちは古い珊瑚にしがみつき、スタッフたちは水中で浮かびながら、ただひたすらマンタが来る時を待ち続けた。

 真っ青な水中世界を行き交う色鮮やかな熱帯魚たちを眺めていると、目の前にカメラを構えた汐が現れ、メンバーたちに手を振った。彼らも、それに応えて手を振り返す。どうやら、動画を撮影しているようだ。

 昌子も手を振ろうとして右手を珊瑚から離すと、その瞬間体がよろけ、倒れそうになる。しかし、すぐ後ろにいた潮が彼女のタンクを支え、バランスを整えた。ありがとうございます、と言う代わりに小さく会釈する昌子。

 しばらく海水に揺られながら待っていると、突然激しい金属音が鳴り響いた。琉華が、細長い鉄の棒で背後のタンクを叩いたのだ。彼女の指さす先を見ると、こちらに接近してくる黒い影。その姿は、間違いなくマンタのものだった。横幅六メートルほどの巨体が、鰭を翼のように動かして泳いでいる。

 声を発することはできずとも、一同の興奮は肌で感じられた。マンタは数匹のコバンザメを従えて、悠々とクリーニング・ステーションの上で円舞を繰り返す。

 やがてクリーニングが終わり、マンタは海の彼方へ去っていった。ほんの数分の出来事であったが、一生の思い出になるには十分なひと時だった。

 琉華が再びタンクを叩き、全員に浮上のサインを出した。潜降した時と同じように、グループ毎にアンカーロープを伝って船へ戻っていく。

 昌子は、浮上する時も最後の一人になった。潮に手を差し出され、導かれるままにアンカーロープを掴む。途中、潮は船から戻って来た汐と交代。汐は真っ直ぐ垂れ下がった別のロープへ昌子を連れて行き、潮はアンカーロープを辿って珊瑚の山の頂上へ引き返し、碇を外した。

 汐と昌子は、難なく水面へ辿り着いた。汐はいつも通り自らのBCDと昌子のそれを膨らませようとする。しかし、昌子の体は一向に浮かび上がらなかった。

 焦り出した汐に、船上から隼人が駆け寄って叫ぶ。

「汐さん! そいつのBCD、穴空いてるんじゃないですか!?」

 汐が驚いて目を見開くのと、昌子が思わずレギュレーターを口から外してしまったのは、ほぼ同時だった。

「ちょっと、それどういう……ッ!?」

 その瞬間、波が昌子の口を襲い、彼女は大量の海水を一気に飲み込んでしまった。それがきっかけで彼女はパニックに陥り、暴れ出す。

「汐さん、そいつのウエイトベルトとBCDを外してください! 早く!!」

 突然のトラブルを前に、ただ慌てることしかできなかった汐。そんな彼を叱責するように、隼人が指示を出す。その通りに汐が器材を外すと、ウェットスーツの浮力で昌子の体は自然と浮かび上がった。彼女の両腕を掴み、船上に引き上げる隼人。

「何、どうしたの!?」

「琉華さん、こいつ、水を大量に飲み込んで呼吸が止まりました!! ビーチに救急車を呼んでください!!」

「わ、わかった!!」

「汐さん、潮さん、早く上がって! 船長さん、今すぐ船を出してください!!」

 まるで一人前のスタッフのように、的確かつ迅速に事を進めていく。次に彼が行ったのは、勿論人工呼吸と胸骨圧迫である。その動作に、躊躇いなど一切見られなかった。

 緊迫した状況の中、昌子は海水を吐き出し、呼吸を再開した。しかし、意識は戻らない。隼人は揺れる船上で、ひたすら心肺蘇生法を繰り返した。

 船が川平湾に入り、浅瀬に近づくと、碇が下ろされる前に隼人は昌子を抱えて海へ飛び込んだ。ビーチには、既に救急車が待っていた。隊員が、陸に上がった彼のもとへ駆け寄る。

「患者は、こちらの女性ですか!?」

「はい、コイツを、よろしくお願いします……!!」

 息も絶え絶えになりながらも、何とか彼女を隊員に託した隼人。救急車がサイレンを鳴らして走り去っていくのを見送ると、彼はその場に倒れ込んだ。

「隼人っ、大丈夫か!?」

 良介が、叫びながら真っ先に彼のもとへ走る。

「ああ、でも、何か……自分で、立てそうにねぇんだよな」

 はは、と苦し紛れに力なく笑う。良介は黙って手を差し伸べ、彼に肩を貸した。

 薫は船上で、ただただ昌子の無事を願い、泣きながら祈り続けていた。



「あれは事故なんかじゃねぇ。立派な殺人未遂だ」

 その日の午後。予定では別のポイントでもう一度ダイビングをするはずだったが、生徒たちは早々にホテルへ返されていた。満・潮・汐・琉華は店で警察と海上保安庁から事情聴取を受けている。

「……何故そう思う」

 浴室から出たばかりの良介が、珍しく眉間に皺を寄せてベランダの椅子に座る隼人に問いかけた。ビーチからは、変わらず楽しげな声が聞こえてくる。

「あいつのBCDにはぜってぇ穴が空いてた。けど、仮にそれが事故だったとしても、あそこまで浮かないのはおかしい。だから、BCDのポケットに余分なウエイトが入ってたはずなんだ。だとしたら、それができるのは……」

「梅宮を潜降させた、潮さんだけだ」

 良介が言い、こくりと頷く。

「梅宮が潜ったのは最後だからな。船長がずっと操縦席にいたなら、その目を盗んでウエイトを入れることは容易い」

「けど、あいつのBCDは海に置いてきちまった。回収なんかできねぇだろうな」

「梅宮の意識が戻れば、聞くことはできるだろうが……」

 良介がドライヤーで髪を乾かしている最中、隼人は両肘を膝に乗せ、左右の指を組み、思案を巡らせていた。その表情は、普段の彼からは想像できないほど険しいものだった。

「だが、ショップの人間に梅宮を狙う動機なんてあるのか?」

 テーブルを挟んで反対側の椅子に、良介も腰掛ける。

「ああ。それに、事故なんか起こしちまったら店の評判が下がるだけだからな。どう考えてもデメリットしかねぇ」

「……業務上過失傷害罪に問われるのは、間違いなく汐さんだろうな」

「まさか、梅宮じゃなくて、そっちが狙いだったってのか!?」

 立ち上がり、吠える隼人。

「溺れたのが梅宮だったのは、偶然あいつの順番が最後になったからだろう。潮さんの本当の目的は、溺水事故を誘発し、汐さんに罪を着せることだったんじゃないか?」

「……潮さんが最後のアンカーを外しに行って、途中から汐さんが梅宮を浮上させることが事前に決められてたとしたら、間違いねぇな」

「どうやら、店の内部事情を知る必要があるようだな。ショップへ戻るぞ、隼人」

 おう、と言って、隼人は良介と共にホテルの部屋を出た。


「えーっ、また事情聴取ぅー!?」

 知花ダイビングサービスを訪ねると、露骨に嫌そうな顔をした琉華に出迎えられた。しかし、二人は食い下がる。

「お願いします。オレたち、あれは偶然じゃなくて、意図的に引き起こされた事故だと思ってるんです。それに同級生が巻き込まれたから、どうしても、黙ってらんなくて……!!」

「……なぁーんちゃって。いいよ、全然! 聞きたいことがあれば何でも聞いてー!」

「は……?」

 掌を返したように態度が変わり、唖然とする二人。

「君たちさー、実はネットで結構知られてるんだよ? 私、ファンだから喜んで協力しちゃうー!」

「はぁ、どうも……」

「まぁ、座って座って。あ、パイナップルジュースとマンゴージュース、どっちがいい?」

「あ、できたらお茶か水で……」

 おっけぃ、と言って軽い足取りでショップへ向かう琉華。室内では、知花親子が深刻な面持ちで、警官と海上保安官を相手に話し合いをしているようだ。

「はい、お待たせー! 君たち、さんぴん茶は大丈夫?」

 さんぴん茶とは、ジャスミンティーとよく似ている、沖縄ではごく一般的な茶の種類である。早々に結露し始めたグラスを持ち、頂きます、と言って二人はそれで喉を潤した。

「あの……どうなるんですかね、知花さんたち」

「ああ、なんかね、あの女の子のグループを担当したのが潮くんで、パニックになった時傍にいたのが汐くんだから、あの二人が警察に連れて行かれるみたい」

「そうですか……」

「それで? 私は、何を話せばいいの?」

 両腕で頬杖をつき、目を輝かせる琉華。調子狂うな、と隼人は心中で毒づいたが、良介は構わず切り出した。

「まず……潮さんと汐さんは、仲がいいんですか?」

「全っ然! あの二人はね、犬猿の仲ならぬ、因縁の仲なの!!」

「と言うと?」

「ほら、見ただけで何となくわかるでしょ。顔は瓜二つなのに、性格は正反対! 私、幼稚園から中学までずっとあの二人の同級生だったんだけど、汐くんは人気者、潮くんは友達ゼロ! オマケに、勉強も運動も汐くんは得意で、潮くんはからっきし! だから、子どもの頃から潮くんは汐くんコンプレックスで苦しめられてきたってワケ!」

「なるほど……」

 息巻いて話す琉華とは対照的に、顔色一つ変えずメモを書き込んでいく良介。

「ところで、ショップの後継ぎが誰なのかはもう決まってるんでしょうか」

「うーん、実は、まだハッキリとは決まってなくて……なんか、難航してるみたいなんだよねー」

 曰く、潮は技量に問題はないがあの性格、汐は性格に問題はないがまだ経験不足で、しかも観察力と対応力の欠如という致命的な欠点があるからだそうだ。

「潮くんは島の工業高校を卒業してすぐここに就職したから、もう一人前のイントラなの。あ、イントラっていうのは、インストラクターの略なんだけど。でも、汐くんは那覇の高校へ行って、東京の大学出て、就職して、それからここに戻って来たから、経験が圧倒的に足りてないんだよね。だから、満さん的には、もう少し様子を見たいんじゃないかなーと思ってるんだ」

 話を聞きつつ、隼人は道理で、と一人納得していた。昌子が溺れていた時、慌てるだけで何もできていなかったのは、まだイントラになって日が浅いからだった。

「では、潮さんには、汐さんを貶めて後継ぎの座を手に入れるという動機があるわけですね?」

「そうだねー。でも、事故のせいでお店の看板に泥を塗るなんてバカみたい! ショップが潰れたら元も子もないじゃん?」

 腕を組み、呆れたように溜め息を吐く。

「せっかく後継ぎになれても、それじゃ意味ないですもんね」

「ホントそれ。ねぇ、あとは? 何かある!?」

 前のめりになって、興奮気味に尋ねる琉華。溺水事故が起きたというのに、この無神経さは何なのだろうか――と思いはしたものの、協力的なら何でもいいか、と開き直って隼人は言い出した。

「あの、写真と動画を見せてもらえませんか? 汐さん、潜ってた時撮影してましたよね?」

「うん、してたしてた! じゃあ、カメラ持って来るね! あ、お茶も足さなきゃね!」

 急ぐ必要はないのに、再び小走りでショップへ戻る。水中カメラとさんぴん茶のピッチャーを持って、彼女はまた駆け足で戻って来た。

「はい、どうぞ! 操作の仕方は、普通のデジカメとおんなじだから!」

 ありがとうございます、と言って受け取り、データの再生ボタンを押す。

「良介、これ……!!」

 マンタを待っている最中の動画を一時停止してから、隼人が昌子と潮を指さす。それは、よろめいた昌子のバランスを潮が立て直した瞬間だった。再び再生すると、それまで映っていなかった小さな気泡の筋が、昌子のBCDから漏れ出していた。

「……穴も、どうやら意図的に空けられたようだな」

「クソッ、何て野郎だ!!」

 怒りの余り、拳をテーブルに叩きつける隼人。そんな彼に怯えながらも、琉華が一つの疑問を呈する。

「でもさぁ、そんな穴、どうやって空けたのかなぁ?」

「どうやってって……針とかじゃないですか?」

「でも、針なんてそんな危ないもの、どうやって持ってくの? 途中で失くしちゃうかもしれないし、下手すると自分の体や器材を刺しちゃうじゃん!」

「た、確かに……」

 ぐうの音も出なくなり、引き下がる隼人。

「妙だな……」

 そんな彼らを他所に、一人呟く良介。

「な、何がだよ」

「おかしいと思わないか。汐さんが動画を撮影している最中に、わざわざBCDに穴を空けるなんて」

「あっ……!」

 彼の言う通りだった。犯行の瞬間を動画に収めさせるという愚行を、誰がするというのだろうか。それは、わざわざ自らの犯した罪の決定的な証拠を残しているようなものだ。

「だが、この動画だけでは偶然その時穴が空いただけだと主張される可能性がある。やはり、物的証拠も欲しいところだな」

「でも、針なんてすぐ海に捨てちゃうんじゃない? イントラとしてはあるまじきことだけど、犯行の証拠をわざわざ持って帰るバカはいないよね」

「チッ、証拠は全部海か……!!」

 舌打ちをした隼人の傍らで、良介は口元に手を添え、思考を巡らせていた。

「隼人、ちょっといいか」

 カメラを受け取り、瞬きの間を惜しんで再び先程の動画を凝視する良介。隼人と琉華が固唾を飲んで見守っていると、勝機を掴んだのか、良介は突然勝気な笑みを浮かべた。

「大丈夫だ、証拠はまだ船に一つ残っている。そして、真犯人は今夜、人目を忍んでそれを回収しに行くだろう」



 午前0時過ぎ。星々が瞬く闇の中、波音だけがビーチに響いている。

 そんな中、何者かが懐中電灯を持って現れた。周囲に人気がないことを確認してからゆっくりと浅瀬を進み、知花ダイビングサービスの船へ向かう。夜光虫の放つ淡く青い光が、足跡をつけるように輝く。

「そこまでだ!!」

 船上に上がると、別の光が当てられ目が眩んだ。その姿を捉えたのは、良介の懐中電灯だった。

「やっぱり、あなただったんですね。知花満さん」

「……っ!」

 そこにいたのは、確かに知花ダイビングサービスの店長にして双子の父親である満だった。光を掌で遮りながら、悔しげに顔を歪める。

「アンタが取りに来たのは、コレだろ?」

 傍らで控えていた隼人が、得意げな表情でウエイトベルトを見せつける。それはマンタ・スクランブルで潮が身に着けていたもので、針を通した跡らしき二つの小さな穴が残されていた。

「普通、これに穴が空くなんてことは有り得ねぇ。それに、警察署に連れてかれた潮さんの代わりにアンタがコレを回収しに来たってことは、あの事故はアンタと潮さんによる共犯だったっつー何よりの証になる。そうだろ?」

「……何もかも、お見通しというわけか」

 項垂れ、しゃがれた声を出して満は苦笑した。

「ところで、何故私だとわかったんだ? 琉華から潮と汐の話を聞いて、カメラの動画を見たなら、犯人は潮ただ一人だと思うはずだが」

「確かに、初めはそう思っていました。ですが、潮さん一人の犯行なら、わざわざ梅宮のBCDに穴を空ける瞬間を汐さんに撮影させるわけがないでしょう。汐さんにその現場の映像を撮らせたのは、梅宮のBCDから泡が出ていることを彼に気づかせるため。そして、潮さんが計画通りに任務を遂行しているかどうかを、あなたが確かめるためだった」

「兄弟の行動をカメラによって確認する必要があるのは、あの時唯一水中にいなかった満さん、アンタだけってわけだ!」

「……困ったものだ。非の打ち所がまるでない」

 噂には聞いていたが、大したものだ。そう言って、彼はズボンのポケットからタバコとライターを取り出し、煙を吸い始めた。

「満さん。何故、こんなことをしたんですか。下手をすれば、俺たちの仲間が溺死したかもしれないんですよ」

「……私は、客を溺れさせろなんて言っていない。ただ、汐を試したかっただけなんだ」

 夜空を仰ぎ、天の川に向かって紫煙を吐く。

「あの子は兎に角人当たりが良く、接客業をさせるには十分な素質を持っていた。だが、ダイビングインストラクターは人の命を預かる仕事だ。観察力と対応力の欠如という短所を克服しないことには、店はおろか仕事すら任せられない」

 だからこそ、潮も彼に店を継がせることには納得できなかった。例え彼にそんな欠点がなくとも、潮は絶対に譲ろうとはしなかっただろうけれど。

「言わば、あれは汐を店長候補にするかどうかの試験のようなものだった。客のBCDから泡が出ていることに気づけば合格、気づかなければ不合格。そうでもしなければ、潮の不満も解消できないだろうと思ってな。だが……」

「それでは飽き足らず、勝手に梅宮のBCDに余分なウエイトを入れ、溺水事故の発生を目論んでしまった……」

 良介が言うと、満はタバコを携帯灰皿に入れながら小さく頷いた。

「バカなヤツだな。上手くウエイトを回収して誤魔化すことができたとしても、梅宮が証言すれば罪に問われるのは自分だってのに」

「私もそう思う。だが、奴はやはり、弟の存在そのものがどうしても許せなかったのだろう。君たちを巻き込んでしまって、本当に、すまなかった……!!」

 膝を折り、手を着いたかと思うと、満は深く頭を下げて二人に土下座した。その肩は、微かに震えていた。

「ふざけんじゃねぇぞ……息子が勝手なことをしたとは言え、揃いも揃って自分たちの都合で客の命弄んでんじゃねぇよ!!」

「よせ、隼人!!」

 満に殴りかかろうとした隼人を、羽交い締めにして止める良介。その瞬間、良介のスマートフォンが着信音を鳴らした。市街地の病院で、ずっと昌子の傍に居続けていた薫からだった。彼は、スピーカーモードにして彼女の声を二人に聞かせた。

『良介くん、今ね、やっと昌子の意識が戻ったの。お医者さんも、もう心配ないって……!!』

 音声だけでも、彼女が喜びの涙で頬を濡らしていることが伝わってくる。隼人の拳から力は抜けたが、満はただひたすらに謝り続けていた。

 満天の夜空に、流れ星が煌めいた。しかし、それに気づいた者は誰一人としていなかった。



「昌子、昌子!! 無事で良かった、本当に、本当に……!!」

「……薫、アンタ、ずっと傍にいてくれたの……?」

 昌子の手を取り、涙で頬を濡らす薫。そんな彼女を、まだおぼろげな瞳で見つめる。

「だって、心配で心配で……もし昌子が死んじゃったらと思うと、私、私……っ」

「……ごめんね、薫。ありがとう……」

 ゆっくりと上半身を起こし、昌子は彼女を宥めるように抱き締めた。

「そういえば、霧崎と会長は?」

「二人はね、ダイビングショップに行ってる。あれは仕組まれた事故だったんじゃないかって隼人が言って、良介くんと一緒に色々調べ始めたの」

「……それで、調査は終わったの?」

「うん。ダイビングショップの店長とその長男が逮捕されるって」

「そう……二人に、お礼を言わなくちゃね」

「……昌子。実は、隼人にはもう一つ、お礼を言わなくちゃいけないことがあるの」

「えっ?」

 抱擁を解き、真意を問うように薫の目を見つめる。

「昌子を助けてくれたのはね、隼人なの。船の上で心肺蘇生法をして、お姫様抱っこで救急車まで運んでくれたんだよ」

「……何でよ……」

「……昌子?」

 顔を赤くして恥じらうかと思いきや、彼女は表情を曇らせ、怒りを孕んだような低い声を放った。

「何でよ? どうしてアイツは、私のことなんか興味ないクセに何度も助けたりするのよ!?」

「ちょっと、どうしたの、落ち着いて!!」

 突如感情を爆発させた昌子の肩を掴み、必死に静めようとする薫。

「どうしてそんなこと言い切れるの、まだ告白もしてないのに!!」

「……聞いてたのよ、私。アンタとアイツが、ビーチで話してたこと」

「え……」

 息を荒げ、涙を滲ませる昌子の顔を、絶望した瞳に映す。

「だから、ダイビングに行く時、暗い顔をしていたの……?」

 こくり、と小さく首を縦に振る。

「もうイヤ……私、アイツがわからない……!!」

 これから一体、どうしたらいいの――ベッドの上で両膝を立て、その間に顔を埋めながら、昌子は声を殺して泣き続けた。

 薫は何も言うことができず、ただ白い天井を見上げ、胸元の十字架を強く握り締めていた。

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