暖かな一滴

燈外町 猶

氷も滲む紺碧の夜

「キミの初舞台が見られないのは残念だけど」

 そう切り出して、先輩はこれからの人生計画について語った。

 遊び心の無い私の部屋で二人、いつもの座椅子に腰掛けて。正面に置かれた二十型テレビの真っ暗な液晶が隣り合った私たちを反射している。

 返す言葉が見つからず、煙草に火をつけて瞼を下ろして、コーヒーと先輩の香りをゆっくりと吸い込む。

 これからについてはこれまでに何度も二人で話し合ってきて、そして同じ景色を見ていたはずだ。

 画家を目指す先輩と役者を目指す私とでルームシェアをしようと交わした約束はどこへ行った?

 売れない二人が家賃を折半するのは合理的だから、一緒にいたって異端視されない。これは妙案だと言って浮かべたあの笑顔はなんだったんだ?

 大学を出た後もあなたとの日々が続くと浮かれていた私はなんだったんだ?

「嫌な予感がします」

 ようやく出た言葉は、彼女の後ろ髪を引くようなものだった。引き止めたいと思って逡巡したのではなく、ただただ、本心が零れた。

「私も。だけど嫌な予感はいつだって変革の時に訪れるものだ。飛び込まなかったら、間違いなく後悔する」

 学園祭で展示していた先輩の絵をいたく気に入った教授が、知り合いの財団に話を通してパトロンがついたらしい。妙に耳障りの良い文言を挙げ連ねた胡散臭い連中だった。

 資金援助の条件としてそいつらは、先輩の目を通した世界の風景画を要求した。環境保全にまつわる薄ら寒い利権が絡んでいるのは見え透いていた。

「どうせ何を選んでも後悔するなら、何で後悔するかは自分で選びたい」

 彼女だって理解しているはずだ。それでも、私だってわかってしまう。絵も芝居も、それに資本的価値を見出されることがどれだけ難しいことか。やりたいことを、やるべきことをするためには、綺麗事ばかり言っていられないことを。

「キミの初舞台が見られないのは、残念だよ」

 先輩が繰り返しそう言うと、あとは重たい沈黙が満ちていくだけ。

 私が幼い頃からずっと憧れていた劇団のオーディションに合格して、それを先輩に報告して、二人して飲めもしない酒を飲んで祝杯を上げたのはつい先月のことだった。

 しばらくは雑用係だが、三ヶ月後にはさっそく端役ではあるものの舞台に立つ。今まで観客席から眺めていた景色とは真逆の視界を遂に拝める。先輩は一番大きなスタンドフラワーを送ると言ってくれた。鼻で笑える冗談のはずなのに、目頭が熱くなり上手く笑えなかった。

 二ヶ月後にはもう、先輩は北欧から順繰りに世界を巡り始める。淡かろうが儚かろうが、私の中で綿密に予定されていた幸せな未来は今、一瞬にして失われた。

 先輩は才能があって、機会に恵まれ、飛び立つための心算こころづもりを済ませている。そんな人間を止める術を、私は知らなかった。 納得がいかないわけではない。 為す術がないことが、どうしようもなく悔しかった。

「くっついてないとここは寒いね。コーヒーでも買ってくるよ」

 いつもなら「暖を取るならこれに限るね」と言って私の背中に手のひらを押し付けるのに、先輩は立ち上がって部屋を出た。日付が変わっても、朝日が昇っても彼女が私の部屋に戻ってくることはなかった。


×


 それからの日々は、熱したナイフでバターを切るように何もかもが滞りなく進んでいった。

 自分でも驚くほど芝居の世界に没頭できている。それはつまり、現実世界への興味が著しく減退していることを示していた。

 いい加減埃っぽくなった部屋は喉に悪いと感じて久しぶりに掃除をすると、一枚のスウェットが出てきた。私が自分用に買ったものだから、先輩が着るとだらしない程オーバーサイズなのになぜかさまになっていて、結局あげた一枚だ。

 そんな、なんでもない彼女の痕跡が次々と発掘されていく。あんな終わり方なんだから当然だ。置いていった荷物を回収する口実でもなんでもいいから、彼女が再びこの部屋に訪れることを何度願ったか。

 いよいよ掃除なんて手がつかなくなり、先輩のものとそうでないものを仕分けていた。

「もしもし」

弥生やよいさん? どうしたの?」

 やがて、明後日にはヘルシンキで荷解きをしている先輩の姿を思い浮かべて、たまらなくなり気づけば電話をかけていた。一コール目の終わり際あっけなく聞こえてきた先輩の声。何も考えていなかった私は焦って適当を紡ぐ。

「荷物、置いていかれても困ります。今すぐ取りに来てください」


×


「呆れられたと思っていたから、電話くれて嬉しかった」

 拍子抜けするほど淡白な再会だった。一ヶ月ぶりに見る彼女の頬はうっすらと痩け、白い肌のせいで目の下のクマも目立つ。

「呆れてなんかいませんよ。私は私で忙しかったんです」

「そっか、そうだよね」

「先輩、痩せました?」

「そう? キミはまた一段と綺麗になったね」

 顔色に似合わない朗らかな笑みを浮かべた先輩は、いつもの座椅子に体育座りをして、ホットコーヒーの入った紙コップを両手で包み込んでいる。

 その手指はあまりに細く、弱々しい。私が片手で軽く握り締めれば、まとめて全部の骨が折れてしまいそうだ。

「この音……」

 なんとか気の利いたことを言えないかと逡巡する私の脳みそを、断続的な破裂音が邪魔する。

「花火、ですかね」

 立ち上がった先輩に毛布を羽織らせてから二人でベランダへ出て、並んで紺碧の夜空を眺めた。

「遠いね」

「ですね」

 そもそも三階にある私の部屋から見上げたところで、視界の多くは林立するビル群により遮られている。その上実際に花火が爆ぜている場所は相当遠い。

 かすかな煌めきを、二人して必死に目で追った。

 さっきあそこだったから次はあっちだのこっちだの、久しぶりに頭を空っぽにしてはしゃいでいると、偶然、互いの手の甲がぶつかる。

 先輩がその左手をポケットにしまおうとする前に捕らえ、そのまま自分のポケットに押し込んだ。

「……暖を取るならこれに限るね」

 されるがままだった先輩がようやく、か細い力で私の手を握り返す。

「涙が出るくらい綺麗?」

 言いながら、先輩は冷たい右手の指先で私の頬を拭う。その瞬間、自分が今、泣いていること知った。

「ボヤけて何も見えませんよ」

 口を開くと堰を切ったように嗚咽が激しくなり、足の力が抜けてその場で崩れ落ちる。

「弥生さん」

 引っ張られてしゃがんだ先輩はハンカチを私に差し出した。その手を掴んで自分の頬に添える。どこもかしこも、なんて冷たい人なんだろう。

「弥生さん、私達のような人間が真っ当な道を真っ直ぐに歩むとは思えない。ぐにゃぐにゃと曲がりくねったそれぞれの道が、きっといつかまた交錯する。その日まではさよならだ」

 さよなら、さよならか。こんな場面で。人を励ますべき場面で出る言葉がさよならか。嘘でもいいから優しい言葉をかけてくれたっていいじゃないか。冷たい。この人は心も体も隅々まで氷で出来ているに違いない。だからこんなにも冷たくて、こんなにも美しいんだ。

「……その日になって」

 惨めだ。無様だ。先輩にだけはこんな姿を見せたくなかった。簡潔な人間でありたかった。けれど無理だった。ならばもういっそのこと今まで押さえつけていた弱い自分を、醜い自分を晒してしまおう。

「うん」

「その日が訪れて、道が交錯した時、私がもう先輩のことなんて忘れるくらい、他の事や物や人に溺れていたら? 先輩に気付かなかったら、見て見ぬフリをしたらどうしますか?」

 自分でも呆れるくらい、情けない駄々を捏ねている。言ってすぐに、私は鼻で笑われる覚悟を決めた。

「どうしようかな」

 先輩は即答せず、視線を花火にやった。音と光が鳴り止んだあともしばらくぼぅっと紺碧の夜空を眺めてから、ようやく再び私を見て言う。

「殴りつけるかな」

「私を?」

「まさか。今日の自分を」

 氷で出来ているはずの先輩の瞳は、微かに溶け出し、熱を滲ませている。

「弥生さん、」

 緩やかに耳元へ寄せられた唇から、もう一度、冷たい言葉が解き放たれて――

「さよなら」

 ――ぽつり。私の肩に落とされた一滴ひとしずくは、人肌と同じ暖かさをしていた。

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