Ill weeds grow apace
穂塚
第1話
雨戸は頭から滴り落ちる血も意に介さず、冷静に頭を下げた。地面にポツリポツリと小さな赤い水玉ができる。水玉の横には同じく赤い水玉をワンポイントにした割れた花瓶が転がっていた。
「程度の低い場所にはやっぱり同じく程度の低い人間が集まるのか? それともお前の程度が低いだけ? どっちだ?」
つい数秒前に雨戸の頭を殴打した支店長が謝罪するでもなく、鼻息荒くなおもまくし立てる。その表情を見れば、いかに今の自分の状況を呪っているのかは誰の目にも明らかだった。雨戸を叱責する合間にも、その目はチラチラと窓の方、正確に言えば窓から見える一本の道を挟んだ向こう側に忌々しげに向けられていた。つまりは「洞」に。
グローバル化が完成してからの数十年。言葉や通貨はひとつに統一され、国境などというものは名目上のものに成り果てた。事実、この支店を見渡しただけでも、肌の色は様々で、また誰一人としてそのことを気にしているものはいなかった。だがその結果として、富める者と貧しいもの、善と悪、平和と闘争、そういったものが世界各地に再配置された。世界屈指の治安を誇っているはずの日本もその例に漏れることはなかった。それどころか、皮肉にも世界屈指のスラムをその身に抱えることとなっていた。穏やかで安全なこの国に場違いに存在するこの場所はいつしか侮蔑の意味合いも込めて「洞」と呼ばれるようになっていた。ならず者からは羨望を、その他からは嫌悪を一身に受ける無法の聖地、それが洞という場所だった。
道を挟んだ向こうにクソの掃き溜めが見えているというのはエリート街道を歩んできた大銀行の支店長には耐え難いものであるようで、中央へと返り咲くことを心待ちにしているらしい。そのため、部下の失敗は決して許さず、体罰も厭わない暴君と化しているのだった。とはいえ、いま雨戸が指導という名の私刑を受けているのは、雨戸の失敗によるものではなく、ただ雨戸の笑顔が気に入らないという当てつけのような理由に過ぎなかった。この笑顔というのは、(掃き溜めの近くであるとはいえ)堅実で真っ当な銀行という場所に居続けるための雨戸なりの努力であり、事実育ちが悪く教養もない雨戸を曲がりなりにもこの場所につなぎ止めてくれているものだった。
同僚の様子を伺うような視線を後頭部に感じながら、雨戸は心の中で乾いた息を吐いた。支店長以外の人間は決して悪い人たちではない。一緒になって暴力を振るわないというだけで、このあたりにいる人間としては聖人の部類に入る。
支店の営業時間は終わりシャッターは降りている。当然支店内に客の姿もない。この折檻はしばらく続くだろう。雨戸は少しだけ気が滅入った。そうは言っても、雨戸にとってはやっとの思いで手に入れた場所であり、たかだか花瓶で頭をかち割られた程度で捨てるなどという選択肢はなかった。少し迷ったが、仏頂面よりはましだろうと思い、また笑顔を作った。
「大変申し訳ありませんでした。ご指導ありがとうございます」
支店長は血を流しながら、狼狽えるどころか笑顔を作った雨戸に気味の悪そうな目を向けたが、手を止めるほどではなかったらしく、右手を大きく振りかぶった。
その時、シャッターを激しく叩く音が支店内に響いた。きっと営業時間は自分以外に適用されるものだと思っている客だろう。月に数回はそういう客が来る。珍しい話ではなかった。
「──チッ。おい、雨戸開けてこい。居座られたら堪らん。さっさと入れて、さっさとお引取り願え」
突然の音にも動じることなくしっかりと右の拳を雨戸の頬に叩き込んだ後、支店長が言った。雨戸は笑顔を苦笑いに変え、シャッターの横にある時間外出入り口に行こうとしたが、「私が」と同僚の女性が先に行ってしまった。同僚のツンツンと自分の頭を突くジェスチャーで雨戸は自分が血を流している最中であったことを思い出し、慌てて死角に隠れた。様子だけはわかるように少しだけ顔をのぞかせる。
「どうもー、こんにちはー。営業時間外にすいませんね」
鼻につくほど明るい声とともに入ってきた客は、ほとんど確実に客ではなかった。四人はこの時間に銀行に来る客としては多すぎるし、目出し帽をかぶっていて顔は見えない。何より全員が銃を構えていた。軽薄そうな声で話す男は左手に拳銃を、後ろから入ってきた三人の巨漢たちはそれぞれ大型の銃を抱えていた。
扉を開けた女性行員が小さく悲鳴を上げたが、「はーい、ちょっと静かにしててね」と口に銃を突っ込まれ、それ以上の声は出なくなった。
「──バン!」
男が叫ぶと、口に銃身を突っ込まれた同僚は、失禁し、意識を失った。かわいそうに、と雨戸は僅かに顔をしかめた。だが、まあ死んでいないだけましといえるだろう。男は倒れ込んだ同僚を見ながらカラカラと笑い、そのまま窓口に近づいた。屈強な男たちも男に付き従うように続いた。
雨戸は嫌な予感を感じながら、なるべく身を縮めた。
「お、お前らはなんだ! 目的はなんだ?」
支店長は足を震わせながらも果敢に男たちに言った。強盗である以上むやみに殺しはしないだろうし、金を渡せば立ち去るだろう。毅然とした態度で対応すれば、表彰もあり得る、とでも考えているに違いない。
まったく馬鹿な男だと雨戸は冷めた視線を送った。その机の下のボタンを押しさえすれば数分で警察が飛んでくるだろうに、目先のことで手一杯でそこまで気が回らないらしい。ただ、気が回らないのはほかの同僚たちも同じなようだ。
「金が欲しいんだな? 準備する。だからほかの行員には手を出さないでくれ。私の大切な部下たちなんだ。金が手に入ればそれでいいだろう? いくら準備すればいいんだ?」
拳銃の男は軽薄そうな態度そのままに支店長に近づくと、人を馬鹿にしたような大ぶりで拳を支店長の腹に叩き込んだ。男の右腕が支店長の醜く膨れ上がった腹に、拳が埋もれて見えなくなるほど深くめり込んだ。
支店長はうめき声とともに前のめりに倒れた。男は支店長の顔が床につくのと合わせるようにその後頭部を踏みつけた。鈍い音に合わせて鮮血があたりに散る。男は踏み足りなかった分を補うかのように二度、三度と力いっぱい頭を踏みつけた。二度目までですべて出し切ったのか、三度目の踏みつけでは血が飛び散ることはなかった。
行員たちは悲鳴を上げることすらも忘れて、呆然とその様子を眺めている。
「ほかに質問がある奴は?」
男の質問に誰もが口をつぐみ、目に涙を浮かべた首を振った。
雨戸は男が奥に入って来てしまったので、身をかがめながら新たな死角を探していた。が、その最中で男と目が合った。数秒見つめ合った後、目出し帽からのぞく男の目がニイッと不快に笑った。笑った、が何を言うでもなく、控えている三人に指示を出した。
「お前ら、全員隅に集めて手足を縛っとけ。そこのかくれんぼ好きの卑怯者は荷物持ちをさせるから縛らなくていい。終わったら全員を見張ってろ」
「荷物運びって、それくらい俺らだけでできるぜ」
男は再び支店長の頭を強く踏みつけた。男は鈍い音が染み渡るのを待ってから仲間たちをじっと見つめた。
「ほかに意見は?」
巨体の男たちは凍えたかのように身を震わせると、仕事に取り掛かった。逆らう者は誰もおらず、縛る方も縛られる方も羊のように従順だった。
一人だけ取り残されてしまった雨戸は手持ち無沙汰にぼんやりと男を眺めた。
男は動かない支店長や、ほかの行員からICカードを奪い取ると、スムーズに金庫を開け、金をボストンバッグに放り込んでいった。意外にも下調べはバッチリらしいことに雨戸は驚く。それと同時に、怒りも湧き上がった。銀行なんていくらでもあるだろう。何も俺がいる銀行じゃなくてもいいじゃないか。怒りに呼応するように雨戸から表情は消えていったが、誰もがそれどころではなく、雨戸の変化に気づいたものはいないようだった。
「よーし、全部詰め込んだぞ。やっぱり、今時銀行の金庫なんて大した額入ってないね」
男はボストンバッグを抱えて出てきたが、確かにその膨らみは十分とは言えない。それでも、男の声はさして残念がる様子もない。予想の範疇であったようだった。だったら強盗なんかするな、と雨戸はまた内心悪態をつく。
「大した額じゃないって、おい頼むぜ。リスクを負ってあんたと来たんだ。それに見合うくらいの報酬は貰わねえと」
行員を見張っている男たちの中でも一際体の大きな男が言った。少し怯えているのか、バッグを抱えた男と目を合わせようとはしなかった。
「……いくらあったんだよ?」
また別の男が散弾銃を僅かに持ち直しながら口を開いた。ほかの三人と違い、その声には警戒心はあれども恐怖は感じられない。バッグを抱えた男は指を三本立てながら軽い声で答えた。
「んー、全部で五千万くらいかな」
なんで指三本なんだ、その指は一本いくらなんだと、雨戸はさらに苛立ちを募らせた。この木偶の坊どもはなんでスルーしてるんだ、と思った矢先に数発の爆音が轟いた。行員たちの悲鳴と同時に二つの大きな影が地面に伏した。散弾銃を抱えた男が、敵意がないことを示すかのように引き金から手を外し、拳銃の男に向き合う。
「じゃあ、これであんたと俺で二千五百ずつだ。おっと、銃は向けないでくれ、あんたとやり合う気はないんだ。俺もそこまで恐れ知らずなわけじゃない」
「別に向けてねえだろ」
男はバッグを雨戸の足元に投げながら苦笑いを浮かべた。拾えということらしい。その横暴な態度がまた雨戸の癪に障る。
「おいおい、だからそのくらいの量ならそいつに持たせる必要もねえだろ」
「荷物持つの嫌いなんだよ」
「はあ。わかった俺が持つ。それでいいだろ?」
「死体がどうやって荷物を持つんだよ」
「は? だからさっきから何を──」
音が鳴った。
男は流れるような自然な動作で引き金を引いていた。
この場にいるほとんどの人間は、不自然に言葉を切った男といつの間にか硝煙を上げる拳銃を見て初めてその音が銃声であったことに気づいたに違いない。特段早撃ちというわけではなかったが、それほどに自然な動きだった。
男 は何が起こったのかわからないとでも言いたげに血を吹き出す自分の胸と微かに煙を上げる拳銃の先端を交互に眺めた。そんな奴がよくも引き金から手を離せたものだ、と雨戸は動かなくなった巨漢に哀れみを向けた。
「弾入れ忘れてて、この一発しかなかったのよ。手間が省けて助かった」
ケラケラと笑う男を無視して、雨戸はバッグを拾った。
「お、迅速でいいね。落とすなよ、奴隷くん」
雨戸はその言葉も無視し、裏口の方へ向かう。行員たちの視線が背中に刺さったが、この状況から一刻も早く脱したいという気持ちで足早に進む。ケラケラとした不快な声もすぐ後ろをついてきた。
裏口を抜けて、境界線とも言える道路を横切る。片道三車線の大きな道にも関わらずその道を通る車は一台たりとも見当たらない。見た目以上に離れた洞という場所を表したような景色だった。雨戸は苛立ち混じりに歩調を早め洞に入った。
洞に一歩踏み込んだ瞬間に景色はまるで別次元であるかのように変わった。建物は途端に寂れ、地面には空き瓶に空き缶に加えて、この街でなかったならそれひとつで警察が動くようなゴミが散らばっている。僅かに見える舗装されているはずの地面は、何層にも重なった赤黒い汚れで不愉快な凹凸を作っていた。死体に紛れるようにして、建物を背に座り込む浮浪者たちから放たれる興味なさげな視線を無視して雨戸は歩を進めた。
移動の間も不快な笑い声は「ほら、運べ運べ」とか「重いか? なあ、重いか?」などと雨戸を的確に煽る。
もういいだろう。限界だ。雨戸は地面に落ちていた瓶を瞬時に広い、すぐ後ろに向けて振り下ろした。小気味のいい音とともに瓶は砕け、男は頭を抑えて呻く。雨戸は間髪入れずもう一本振り下ろした。そして、射殺さんばかりの目で男を睨み言った。
「荒屋、お前わざわざ俺の職場を狙いやがったな」
荒屋はふらつきながら立ち上がると覆面を外した。中性的に整った顔に血を滴らせている。瞳を左右に小刻みに揺らしながらも、荒屋は瓶を拾い、軽い調子で言った。
「まだ意識はあるぞ。やっぱ衰えたな?」
「洞の瓶が脆くなったんだろ」
洞の入口に瓶の砕ける音が連鎖する。道を一本挟んだ向こう側なら、とっくに通報され、警察が飛んで来ていたことだろう。だが、小一時間は続いたこの喧嘩が誰かに邪魔されることはなかった。雨戸はまたこの場所に戻ってきてしまったことを実感し、肩を落とした。
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