エノコの指

じゅき

第1話 エノコ

 スーツ姿の青年二人が車内で信号機を眺める。

 大通りの信号は待ち時間が長い。

 助手席の青年がぼんやりと信号機や歩行者を見つめていると、運転席の青年が話しかけてきた。

「悪いなミズキ。営業じゃないのにこんな役頼んで」

 助手席に座るのは耳元くらいの長さで切り揃えられた黒髪と銀縁眼鏡のレンズ越しに若干鋭い目つきを宿した青年だ。

「いいさ。俺も仕事に区切りがついたところだ。それに、今回の契約が取れたら俺にも関連する仕事が振られるかもしれん」

 ――いや、ここは素直に『お前との仕事が楽しい』と言うべきだったか?

 ミズキと呼ばれた青年がそんなことを思いつくと、青信号に促されて車が発進する。

 車内の二人が向かうのは彼らが務める会社の取引先。

 これまでも何度か取引をしていた相手だったのだが、今回の契約には難色を示しているとのことで、営業部からミズキに白羽の矢が立ったのである。というのも、ミズキはその外見と態度で相手方の信頼を得ることもあったが、今回の相手は過去に別件でミズキが応対してかなり評判が良かったため、営業部は彼にあやかろうとしたのである。

 今回のミズキは営業部と彼の所属する部署、双方での挨拶と今後の契約云々への打ち合わせのためという名目で同行していた。

 面倒だとは思わないが、不安は多少なりともある。

 だが、引き受けたのならやるだけだ。目的地はもう目の前だし、何より仕事なのだから。

 車が掻い潜るように走る大通りの周囲には都市部の一等地にそびえ立つ摩天楼の数々。空を切り裂き、あるいは写すその姿はある種の象徴にも見える。運転手はその一つの地下駐車場へと車をすべり込ませて――

「こんなデカいとこに就職できたら、将来安泰だなぁ」

 羨ましがる同期の社員に、ミズキは目を閉じて笑う。

「ここと契約できる力がうちの社にもあるんだ。手の届かない世界じゃない」

「確かに」

 駐車を終えた二人は早速受付を済ませ、予め知らされていた会議室へと通される。陽の光と空調で快適さを突き詰められた会議室の数々。その一室にいたのは男女一名ずつの社員だった。

 男性の方はミズキたちのよく知る人物。今回のみならず、ミズキたちの会社との取引を一身に引き受け、担当するベテランの社員だ。

 もう一人の女性はミズキどころか相方さえ知らない。

「ご足労感謝致します。まさかあなたにまで来ていただけるとは」

「いえ、御社にはよくしていただいていますので、せめてご挨拶くらいはと思った次第です」

 予め聞いていた話ではかなりの難色ということだったが、ミズキの姿を見た男性は柔和な態度だった。

 四人は向かい合って着席すると、互いに用意した資料を基に話を切り出す。

 相方は少々緊張した面持ちだったが、話し合い自体はスムーズに進んだ。

「……というわけで、弊社の方針が変わったことで、今回の契約はそのままの方向性では難しいというのが正直なところで」

 営業ではなくミズキに話すように顔を向けた男性。ミズキも真正面から受け止めて彼に返答する。

「わかりました。御社のことは弊社の営業にも申し伝えます。私の所属する部署は営業とは別ですが、もしも何かお力になれそうなことがあればいつでもご連絡ください。先日の件もありますし、営業以外でお役に立てることもあると思います」

「ありがとうございます。あっ、そうでした。彼女の紹介がまだでした。こちらの都合ばかり急いてしまって申し訳ありません」

 話が纏まったところで男性は一緒にいた女性について話し始めた。

「彼女は弊社の契約社員です。現在御社との取引に関わっている担当が別件対応しておりまして、その補助をしている彼女が代理で同席しております」

 男性の話に合わせて女性が挨拶する。

「ノシエノコと申します。今回の件で私の方からご連絡差し上げることもあるかと思いますので、その際はよろしくお願い申し上げます」

 エノコが自己紹介をしたとき、ミズキの視界は一瞬で切り替わったように感じた。冗談ではない。ミズキにとってただの一従業員という認識だったエノコが、簡潔な自己紹介をした瞬間、色鮮やかな女性として映ったのだ。

 さきほどまで意識を向けなかったミズキも、今のエノコのことははっきりと意識している。緩くウェーブのかかった髪と美しくも愛らしい猫目。歳はミズキと同じくらいだろうか。言葉遣いは丁寧だが、声はオフの日用に秘めた活発さを感じさせる。

 エノコの全てがミズキを惹きつけてやまないが、ミズキは自分がエノコに向けている意識の正体がなんなのかわからなかった。

 そうして、ミズキの意識がエノコに引き寄せられたまま、その日の会議は終了してしまう。

 帰りの車内で――

「なあ、もしもまた困ったら、俺が行ってもいい」

 ――また会えたら、ノシさんのことをもう少し知りたい。

「ホントか? 助かるぜ」

 普段は仕事に真面目なミズキだが、この日初めて不純な動機で仕事に取り組もうとする。

 ミズキのささやかな願いが叶うのは、それから少し先のことだった。

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