絶対零度の恋

瑞葉

第1話

 部屋の中にザラメくらいの雪が舞っていた。ここは廉(れん)の部屋だ。二階にある。父が入ってこないよう厳重にドアを締め切ったその部屋の中には、腰まで届く黒髪の、背が高く美しい女がいた。

 廉のベッドに今しがたまで座っていたが、そのうち膝は折り曲げたままふわりと身体を二十センチほど浮かせて、「吐く息で雪を産む遊び」に熱中している。白いワンピースのような、むしろ下着のような、膝丈の薄い布一枚しか着ていない。

「お互い、十七歳。恋の季節よね。わたしも好きな子、できたんだぁ」

 空気に溶けそうなアルトの声で言うと、黒髪をバサリとかきあげた。宙に浮かんだまま立ち上がり、「産んだ雪」を自分の膝丈のスカートに可憐な宝石のようにまとわりつかせていた。雪を見つめるその目はどこまでも優しい。美術の教科書で見た聖母マリアの目に似ている、と廉は内心思っている。

「廉は彼女さんいるものねぇ。どう? 生贄にはもってこい?」

「相変わらず子供子供してるけれど、まあ、それがいいと言うのかなぁ」

 廉は言うと、その「彼女」と夏休みに近所のひまわり畑で撮った写真をながめた。青白いフレームの中に入ったその写真は、彼が嫌いな「夏」をどうしても思わせてしまう。

 忍田廉(しのだ・れん)。十七歳。漆黒の髪に漆黒の目。彼は雪妖と人間のハーフだった。物心ついた時からなにかとまとわりついてくるのが、紗夜(さや)。彼女は正真正銘の雪妖。性別が女だから別名、雪娘。関東地方に大雪が降った十七年前に、空から生を受けた。もちろん、名字なんてない。「重い心臓病の子なの。その子。わたしが『もうすぐ楽になれるよ』と言うと、かわいらしくうなずくわ」

 紗夜はまだ「心臓病の彼」の話をしている。部屋の空気が冷凍庫の中の温度のように凍っていく。廉にとってはこの温度が心地よい。

「人間を生贄にして、早く、新潟の山に帰ろう」  

 廉が言うと、紗夜は澄んだ声で笑って、窓からひらりと出ていった。


 廉も紗夜も、「凍れる心臓」という青い人魂のような「心臓」を持っていた。それが雪妖の寿命である。体の奥深くにあるのも、人の心臓と同じだ。寿命は約六十年。けれど、人を一人生贄にするごとに、寿命は六十年ずつ増えていく。

 廉は自分の母親を思った。齢六百四十五年で亡くなった母は、新潟の山にいて、何百年かで十人の人間を「食らった」存在だった。人間にとっては禍々しい。けれど、そんな母の血を受け継いだ自分もまた、「凍れる心臓」への生贄を探していたのだった。そして、「大切なその人間」を、およそ半年前に見つけてしまった。 

 今は十月。出会ったのは四月。桜が降る入学式の日。一年生なのが一目でわかった。彼女は初めての高校登校に緊張した顔をしていた。どこか泣き出しそうに張り詰めた目。思わず声をかけていた。

「俺は生徒会長の忍田だ。そんな顔で通学してんの、お前だけだぞ」

 心の中に生まれた、産まれたての桜の花のような想いを言葉にする術を知らなかった。そのせいもあって、キツイ言い方をしてしまったと、思い出してみてもわかる。寡黙ながらも威圧感ある生徒会長。そう。自分は、周りの評判通りの冷血人間。そのはずなのに。

「わたし、桜澤結衣(さくらざわ・ゆい)っていいます。わたしも中学校の時、生徒会の書記してました」

 思いの外明るく、結衣という少女は笑った。

「初めての場所って昔から緊張します。小学校の時からそうです。でも、高校生活が楽しいのもわかりますよ。帰り道にお腹空いたら買い食いもできますし」

 さよなら、と一言を残して、少女は身軽に駆け出していった。その頬が紅く染まっていたのをまぶしく感じた。


「忍田先輩、せっかく駅前のモックで買ったシェイクこぼれますよ、考え事なんてして」 

 結衣。今は廉の彼女であり、この高校の生徒会でも書記をやっている。九月の文化祭では、「校内美少女グランプリ」にも他薦で出て、三位なんてとっていた。

 早く生贄にしないとな。誰にも見せたくないから。

 廉が住んでいるのは、埼玉県と千葉県の境。廉たち、同じ私立高校に通っているのは埼玉県民と千葉県民がそれぞれ半数くらい。若干は茨城県民もいる。結衣はそのレアな茨城県民。電車で遠方から通学しているのだ。廉は埼玉県民だ。 

 結衣から告白されたのは六月だった。生徒会書記に立候補して当選してくれた彼女は、生徒会業務の初日に、お手製のパウンドケーキを家から持ってきてくれた。廉だけのために。二人きりの生徒会室で「告白」を受けた。「入学式の日、声をかけてもらって嬉しくて」と言われた。

「ありがとう」と無難にやり過ごそうとしたのに、結衣のその少し幼い顔に隠された、芯の強そうな感じに興味を惹かれてしまった。そう、彼女は真剣な目で自分を見ていた。炎のような熱を帯びた目で。「少し、二人で話すか。ここじゃ誰か来るかもしれないからな」 

 と誘い、屋上に出た。二年間も高校にいたのに、屋上に出るのは初めてだった。空中菜園になっているのを初めて知った。熱心な生物部員たちが植えているのだろうミニトマト。それに触れようとして 思いとどまる。自分の手の冷気を植物も嫌うのだ。せっかく育ってるのに枯れてしまうのではないか、と怯える気持ち。

「先輩、こんなにたくさん実があるんですし。一個、二個くらいもいじゃいましょう」  

 結衣は人差し指を立てて内緒のポーズをすると、熟れ始めて柔らかくなっているミニトマトを二個、素早くもいだ。屋上脇に流しがあったため、そこで洗っている。ミニトマトを差し出された時、指がわずかに触れてしまった。暖かみが流れ込んできて胸が苦しくなる。

「ありがとな」 

 言いながら、目を逸らす。胸の奥がドクンドクンと熱い。柔らかなミニトマトを食べ、飲み込んで、それさえも熱く感じたのだ。早く、階下のコンビニでアイスを買おうか。自分はおかしいのだ。

「先輩、少し赤くなってますね。なんか、思いの外、可愛い」 

 結衣はクスクスと笑っていた。付き合う、付き合わないはその日は曖昧にして済ませたけれど、その後一週間くらい、他の生徒会員には「業務の一環だ」とごまかして、二人でいろんな場所を校内散策した。美術部のいる美術室。吹奏楽部のいる音楽室。放送部のいる放送室。校内生活で困っていることのヒアリング、という名目であちこちの部活を回る。

「なんか、楽しいです」 

 結衣は明るい声で言う。そのメモ帳には、端正な綺麗な字で、産まれたての言葉が並んでいく。ヒアリング結果を走り書きしている割に、こんな綺麗な字が生まれるとは、さすが書記だけあった。

「あまり、お前だけ特別扱いもできんな。そろそろ戻るか」 

 三階から二階に降りる。生徒会室は二階にあるから。踊り場のところで結衣は立ち止まる。

「先輩。告白の返事は?」

 不安そうな目をして自分を見ていた。その目に儚く揺らぐ炎のような感情を抱きしめたいと強く感じた。

 もし自分が抱き締めたなら、この子は死んでしまうのだ。自分の冷気で凍えてしまう。 

 いや。自分も十七歳だ。この五月五日に、父が七本のポッキーを蝋燭がわりにコンビニのケーキに立てて祝ってくれた。

「いっそ、付き合うか。なんて呼べばいい? 結衣、でいいか」

 軽く聞こえるように意識した。けれど、言ったそばから、自分の中には「欲」が産まれた。 

 頬を染めて恥じらっている少女。彼女への想い。これを恋と呼ぶならば。 相手を一番美しい「今」のまま、その燃える炎のような想いごと氷漬けにして、誰にも見せたくない、と思うこの気持ちが、雪妖のさがと言うならば。

 逃げられてはならない。 

 十月の満月の日まで。


 今も変わらず、心の奥に湧き上がるゲスな欲望。周りの空気がそれを察知して冷えていく。

「やだ。秋だからかな。寒いね」

 登校中の周りの生徒たちが反応してる。冷気をこれ以上放出しないように気をつけなければ。

「先輩の手、冷たいですね。シェイクのせいなんかじゃないです」 

 結衣が廉の手を取る。その手は柔らかくて暖かい。

「触んなよ」 

 短く言って、廉はシェイクで体を冷やした。一気に飲み終えたシェイクのカップを、校門脇のゴミ箱に投げ捨てる。

「わたし、この間、帰り道に流山のショッピングモールで手袋買ってきたんです。十月から手袋なんてしないかもしれないけれど、冷えるの良くないですから」 

 結衣が、綺麗に自分でラッピングしたのだろう包みを渡してくれた。

「そうか。もらっておく」

 廉は包みを受け取ってそっと笑った。手袋なんて雪妖にはいらないのに。 

 心の奥底に、熱湯を注がれるような鋭い痛みが走った。

 君は、自分の心配をした方がいい。次の満月には命がないんだぞ。

 自分の中には人間の暖かい部分があって、その部分を乗り越えなければ、一人前の雪妖にはなれない。

 かりそめの生徒会長ももうすぐ終わりだ。任期を半ばで放り投げて山に帰ろう。 新潟県松代の雪山。懐かしいふるさとへ。




 

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