第38話 最奥の少女(6)

「あの時、父を殺していたら、あやちゃんは今も生きていて、『お母さん』を『あやちゃんのお母さん』と呼んでいて、私は穴守彩芽のままで、『花咲さん』を『花咲』と呼んでいたと思います」


「黒岩菖蒲さんは、あなたのお父さんに、殺されたんですか?」

「わかりません。殺すところは見ませんでした」


 でも、と言って黙ると、はたはたと涙がこぼれ落ちた。


「私がいけなかったんです。父に歯向かったから。私が悪かったんです」


 再び瞳が揺れ始め、馬田は錯乱を予感した。心理学に基づいた正しい対処法は知らないが、意識を逸らせることで現実に引き留めようと試みる。


「歯向かった、というと、抵抗したんですね? どうやって抵抗したんですか?」


「……ある時、常連のお客さんから、他のお客さんの忘れ物を預かりました。髭剃りのようなものでが、両端に金属の突起がついていました。これは何かと不思議に思っていたら、届けてくれた人がスタンガンだと教えてくれました。色々なことに詳しい人で、『改造されているみたいだ。強力な物のようだから、このボタンは絶対に触らないで、お父さんに渡して』と言われました」


「でも私は、それをあの部屋の鏡台に隠しておきました。威力を確かめるために、何度か使ったこともあります。小さな犬は電圧が強すぎて死んでしまいました。でも、大きな犬は死ななくて、人は殺せないんだとがっかりしたのを覚えています。でも、一つ武器を手に入れたことには違いなかった」


「何回か試した後のことです。隠していたスタンガンが見つかってしまって、何に使うつもりだったのかと問い正されました。突き飛ばされた時、鏡台に突っ込んで、鏡が割れて、右目の上をざっくり切りました。血が水のように滴って、目にも入って視界がかすみました」


「父は血を流す私を見て、後ろめたくなったのか、背を向けて胡坐をかきました。父がスタンガンを手放して、私はそれを奪って父の首に当てました。父が倒れて、私は怖くなって、部屋の外へ逃げたのです。その姿を誰かに見られてしまったのでしょうね。『最奥の少女』の話は、その時の私を目撃した人が書いたのだと思います」


「その後、父は目を覚まし、夜遅くまで仕事をしていました。私は結局どこにも行くことができなくて、父からの報復を恐れて残りの一日を過ごしました。その夜は何もなかった。怖いくらいに何もありませんでした」


「翌朝、私はいつも通りに学校へ行きました。午後からは大雨でした。私は図書館が閉まるまで学校にいました。宿にいる時間をなるべく減らすためだけに、図書部に入っていたんです。私が宿に帰るまで、父が何をしていたのかは知りません。仕事、人攫い、人殺し、だったのかもしれません」


「その夜、私は父に呼ばれて、山中のぬかるみの中を歩き、あの穴まで連れて行かれました。父の顔は見られませんでした。ただ俯いて、父の照らす懐中電灯の灯りを見て歩きました」


「穴の前で立ち止まると、父は屈んでその中に入りました。私は続いて入り、懐中電灯が照らすのが、土から石に変わったことに気付きました。灯りが、おむろに人の手を照らしました。爪に赤いマニキュアをしていると思いましたが、違いました。赤いのは指の腹の方でした。そして、父は懐中電灯の向きを変え、その手が誰のものか、私に見えるようにしました。でも、顔は、分からなかった。どうしてだか、分かりますか?」


「……分かります。塩野武男さんも、同じ殺され方を」

「そうですか」


 穴守彩芽は、塩野武男の惨殺を聞かされた時、心当たりがあったのだろう。だから身をすくませて、落ち着かない素振りを見せた。


「顔は分かりませんでしたが、それが誰かはすぐに分かりました。私は言葉を失い、その場に崩れ落ちてしまって。そんな私に、父は言いました。『こうなったのはお前のせいだ』 そう言って、私をその場に置いて行ってしまいました」


「あやちゃんが殺された。私が父を怒らせたのに、なぜあやちゃんが殺されてしまったのか、分かりませんでした。なぜ殺されたのが私じゃなかったんでしょう。でも、私が父に歯向かったせいで、あやちゃんが殺されたことだけは理解しました。私は、命も顔も失ってしまったあやちゃんに、一晩中泣いて謝りました。そして、その後は一切、抵抗するのをやめました。『神様、私に身代わりをください』『神様、私に身代わりをください』そればかりを願って、生まれてくるきょうだいが女の子だと知るまで」

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