第23話 一本の線(3)

 一ノ瀬の班が長瀞に向けて出動するのを、敬礼で見送り、馬田は成川に声を掛ける。

「成川さん、塩野武男の手帳、俺も見たいんですけど、見せてもらってもいいですか?」

「すみません。午前中はこちらの捜査で使うので、午後まで待ってください」

「午後までですか……。わかりました」

 午前中は九時から現黒岩の取り調べが入っている。できればその前に見たかったが、塩野の手帳は鐘撞堂かねつきどう殺人の証拠品であり、担当は成川。彼女の捜査の方が優先されるのが当然だ。


 仕方ない。今回の取り調べは、今ある武器だけで臨む。


 馬田は覚悟を決めて、ノートパソコンと資料を脇に抱え、取調室に向かった。




「おはようございます。今日もよろしくお願いします」


 馬田は敢えて黒岩の名前を呼ばずに挨拶した。黙秘権があることを伝え、いつもと同じように一方的に話をする。


「昨日、私の同僚が、温泉に行ってきたそうです。羨ましい限りですよね。私も家に帰れずシャワーだけということもありますし、留置場では風呂は三日に一度ですから、貴女も早くここを出て温泉にでも行きたいでしょう。


 ちなみに、同僚が行ったのは、穴守温泉です。昨日、幽霊が出るって話をしましたね。覚えていますか? 穴守温泉は二十五年くらい前から菖蒲湯しょうぶゆを売りにしているそうです。もっとも、今は時季外れなので、普通のお湯だったそうですが。


 私も温泉に行きたくて穴守温泉のことを色々調べていたら、色々興味深いことがわかりました。


 まず、宿のご主人は穴守藤吾とうごというそうです。藤吾という字はこう書きます。藤って字が入っているでしょう? 先代である彼の父親が、息子の誕生を機に、旅館の装飾を藤に改修したそうです。


 『穴守温泉では第一子が生まれると、その子の名にちなんだ内装に改修するというのが慣わしである』と誇らしげに書いてある記事も見つけました。古い記事で、元記事は削除されてしまって、キャッシュに残っているだけだったんですけどね。


 三十七年前にも改修が行われて、その時に今の菖蒲あやめをコンセプトにした内装に変更されたそうです。でもね、藤吾さんには娘さんがいますが、彼女は二十四歳なんですよ。それに、彼女の名前は花咲さき。『花が咲く』と書いてサキと読みます。


 私は、『花咲』という漢字を見たとき、真っ先に貴女のことが思い浮かびました。


 『菖蒲華アヤメハナサク


 あまり馴染みのない言葉かもしれませんね。日本の季節の一つです。日本の季節は一般に四季とされますが、四季を二十四に分けた二十四節気というものもあります。菖蒲華は、その二十四節気を更に三等分した、七十二候の一つです。


 菖蒲華。なんとも綺麗な響きです。こんな美しい季節の呼び名があることが、もっと世に知れたらいいですね。


 何が言いたいかと言うと、私は、穴守温泉の娘である花咲さんには、三十七歳の姉がいるんじゃないかと思うんです。貴女と同じ年齢ですね。でも、だからといって、黒岩菖蒲さんが穴守花咲さんのお姉さんだなんて思っていませんよ?


 華という字が『花咲』に変えられていますから、菖蒲も別の漢字で名付けられたのではないでしょうか。私が『花咲』という漢字を選ぶ親だとしたら、菖蒲よりも『彩芽』と名付けますね。穴守彩芽。その方が、穴守花咲さんと姉妹っていう感じがします。


 そう思いませんか? 穴守彩芽さん」


 黒岩菖蒲を語る女は、その時初めて顔を上げ、馬田の目を見た。


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