第10話 丸山蓮華(1)

 生吹いぶき馬田まだが一体何事かと目を丸くしていると、古杉ふるすぎがしかめた顔で後ろを振り返り、悲鳴を上げた主が後ろから姿を現した。


 黒髪ショートボブの大人しそうな女性。白兎のようなふわふわした毛のセーターが太ももを隠し、下は黒のスキニージーンズ。中世的な顔立ちの美人で、背中を丸めていても生吹と同じくらいの背丈がある。シャキッと背筋を伸ばせば馬田と同じくらいになりそうだが、長身がコンプレックスなのか、おどおどした態度も影響して、やたらと小さく見える。


「丸山さん、また君か」

 いつもは温厚な古杉がため息を吐く。

「あああっ ご、ごめんなさいっっっ」

 慌てて謝ったせいで、液体入りの容器から再び中身がこぼれて床を濡らした。

「もしそれが危険な薬品だったらどうするの? 周りをよく見なさいといつも言っているよね」

 古杉が濡れたジャンパーを脱ぐ。

 危険な薬品じゃなくて何よりだが、古杉の言葉が強いような気がして、馬田は少し驚きながらも「これ使いますか?」と言い、リュックの中からスポーツタオルを取り出して古杉に渡す。

「ああ、ありがとう。来て早々すまないね」


 丸山は、カメラマンに部屋の隅に呼ばれ、両手に液体の入ったタッパーを持ったまま注意を受けている。

「これは冷蔵庫に入れるやつだから!」

「す、すみません。い、今入れてきます。あ、ゆ、床きれいにするので、まずはぞ、雑巾持ってきます」

「いいよ、ここはもう。俺がやっとくから。先にそれ冷蔵庫にしまってきて。それからお客さんにお茶出して」

 頬の引き締まった四十そこそこのカメラマンは、どうやら自分にも他人にも厳しいタイプと見える。弱点の多い人間には、その急流のような厳しさが流れていきやすいのだろう。

「はい……。本当にすみませんでした」

 丸山が目に涙を浮かべてドアから出て行く。

 見慣れた光景なのか、古杉は気に留める様子もないが、馬田は不憫に思えてならなかった。

 生吹も馬田ほどではないが、気の毒に思う。

「もしかして、古杉先生がうちに来られた時に話していたドジっ子というのは、彼女のことですか?」

 生吹の問いに、古杉はうんと答える。

丸山まるやま蓮華れんげさんっていうんだけどね、彼女はあれで知識には長けていて、大学の修士課程で出土品の保存法を研究しているんだ。既に単位を取り終えて、ここへは修論の研究を兼ねて勉強しに来ているんだよ。ついでにアルバイトとして、室内の事務的な作業を色々とやってもらっているんだが、見ての通り、いつも仕事を増やしてくれる。本人は発掘作業に携わりたいと強く希望しているんだが、デリケートな作業を任せるのは心配でね」


 その後、生吹と古杉は骨ついて語らい始め、暇になった馬田は他の作業台に並んだ出土品を見てまわった。割れた花瓶や壊れた道具をためめつすがめつしながら、どんな画材を使えば原形を復元出来るのかを考えるのは楽しい。


 集中してしばらく時間が経ったように思うが、ふと生吹と古杉を見れば、まだお茶は手元にないようだ。さっきの涙といい、丸山の様子が気になり、馬田は「ちょっと失礼します」と控えめに言って、ドアを開けて顔を覗かせた。


 すぐ目の前に階段があり、左手の奥の方から、小さな啜り泣きが聞こえた。


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