第9話 アダンテの泥濘

「危ない!」


 そう私が叫ぶより早く、イズモが駆け出していた。

 女の子が硬い石畳へ叩きつけられる直前に滑り込み、枯れ枝のような身体を受け止める。


 彼女が何をしたのかわからないけど、子ども相手に横暴すぎる。

 主人にお灸を据えようと店先を睨みつけると……なんと彼は既に入り口を閉め、店内へ戻っていた。


 自分が放り投げた女の子がどうなろうと構わない、興味もないってこと?

 都会ってみんなこうなの?

 トルジカ村周辺から外に出たことがない私には理解できない。


 起き上がったイズモは女の子を立たせ、彼女の乱れた茶髪を手で整えながら「大丈夫か?」と問いかける。


「わ、わたしがわるいの……入っちゃいけないって、わかってたのに……」


 ニンゲンの証である丸い耳まで真っ青にした女の子は、パサついた唇を震わせてそんなことを言った。

 客商売なのに客を選んでるってこと? 確かにみすぼらしい恰好をしているけど、アダンテにドレスコードなんてあったかしら。


 女の子は痩せすぎて実年齢がわからないけど、推定十歳前後。

 頭皮が見えるほど細く抜け落ちた髪に、骨ばかりの上半身に反して異常に浮腫むくんだ下肢……生きるのに必要な栄養素が見るからに足りてない。

 極東の中でも生活水準が比較的高いアダンテには似つかわしくない健康状態だった。


「あなた、最後に食事をしたのはいつ?」

「おぼえてない……」

「……オキサキ」

「うん?」

「朝にあげたリンゴ、出して」

「ふむぅ……仕方がないのぅ」


 大きなしっぽから取り出したリンゴを受け取り、女の子に渡す。

 彼女はそれをおずおずと受け取ったが、なぜか食べようとしない。


「お母さんに、食べてほしくて……」


 そう言われて私とイズモは顔を見合わせる。

 気づけば、行先は宿屋からこの子の家に変わっていた。




 * * *




 女の子の名前はマヒナ。

 黒竜と紙袋姫の歌を聞いたことがないという、今時珍しい子だった。


 それもそのはず。

 マヒナがくぐったのは自宅の玄関ではなく、石橋の下にある下水道の門だったのだから。


「下水にまで歌は届かないものね」


 私のそんな呟きに、優しい黒竜の顔が悲壮に歪む。

 綺麗好きなオキサキと湿気に弱い石の門番ガーゴイルを橋の下に待たせ、私とイズモは彼女の後を追った。


 一歩一歩が酷く重く感じる。

 紙袋の中で治りかけの角がじんじんと痛んだ。

 清純なものを好む一角獣ユニコーンの性質上、不浄には特に敏感になる。

 この先に待ち受ける得体の知れない何かを想像して、息が詰まる思いだった。


「ここが君の家なのか?」

「うん。みんなとここでくらしてるの」

「みんな?」

無魔ムーマのみんな」


 無魔ムーマとは、生まれつき魔力を持たないニンゲン種族への蔑称。

 戦時下でしか聞いたことがないそれを、まさかアダンテで耳にするなんて。

 マヒナの回答に、イズモも表情を強張らせた。


 薄暗い下水道を、少女は明かりもなしに迷いなく進んでいく。

 匂いも空気も騒音も、何もかも最悪。白亜の街から流れ落ちた汚れが一か所に集まったような、汚物の泥濘。


 一角が騒めく。早くこの場から立ち去りたいと。


 そんな私の様子に気づいたのか、イズモは何も聞かず手を握ってくれた。

 指先から伝わる体温に不安が凪いでいく。

 一角が毒を打ち消すように、彼の純真さは一角獣にとって何よりの薬だった。


 そうしてしばらく進んで現れたのは、廃材置き場のようなスペース。

 研究所から逃げてくる間に見かけたスラム街に似ている。

 そこに捨てられていたのはもちろんゴミではなく……。


「お母さん、ただいま」


 地べたの上に申し訳程度の板を張り、カビの匂いがする不衛生な布を敷いただけの病床。そこに、虫の息の母親が伏せていた。

 生気のない茶色い顔には花びらが散るように赤い発疹が広がり、肌が見える部位には無数のしこりが浮き出ている。


「ユニファ、これって……」

「……シグル感染病の、末期症状よ」


 10年という長い潜伏期間を経て発症する、恐ろしい疫病。

 まず骨や筋肉に腫瘍を作って感染者の自由を奪い、そこから内臓に転移して全身へと広がる。腫瘍は肉を腐らせ、やがて骨と皮だけになった遺体をしこりが覆い尽くす。花が散り、種をつけた実だけが残るように。


 私がスークスの名前で発表したのが、この感染病に関する論文だった。


 周囲の暗がりをよく見ると、末期の病床は下水道の奥へ無数に続いている。

 いったいどれだけのニンゲンが暮らしているのか。

 想像を絶する地獄に言葉を失った。


「お姉ちゃんがリンゴをくれたの。たべれる?」

「あ゛……んたが、おた、べ……」


 喉にも腫瘍ができているのか、酷く掠れた声だった。

 ここまで症状が進んでいたら、もう……。


「君の薬でどうにかできないのか?」

「私が開発したのは、病原体の変異を遅らせて発症を抑える薬よ。一度発芽したら枯らすことはできない。だから予防薬の義務化を論文で推奨したんじゃない。アダンテの薬師はいったい何をしているの?」


 苛立つ私の声に、マヒナの母親が目だけでギョロリと反応した。


「このま゛ち、には……巫女しか、い゛、ない……」

「巫女……?」

「ボンの、むす、め゛……治癒魔法の……ウ゛ェッ、オ゛ッ、ゲホッ!」


 イズモの問に答えようとして咳き込み、水も受け付けない喉が裂けて喀血する。

 駆け寄ろうとする彼の手を掴んで引き止めた。シグル感染病は血液や粘膜との接触で感染する。そして潜伏期間に妊娠していた場合は、子どもにまで。


「わたしたちみたいな無魔ムーマは、巫女さまに治してもらえないの」


  マヒナは汚れたワンピースの袖で、母親の口元を拭う。

 年齢から逆算すると、彼女もいつ発症してもおかしくない。


「でもね、キルデさまがいつも内緒でお薬をくれるの。だからわたし、お礼がしたくてあのお店に……」

「キルデ……もしかして、アダンテの代表、ボン・ツグワーズの長女か?」

「イズモ、知ってるの?」

「三番目の兄によく縁談の手紙が届くんだ。もっとも、手紙と一緒に入ってる写真は双子の妹であるシルデ嬢ばかりだが……」


 四男四女の黒龍家三男ってことは……ラジラトリ砂漠と極東を預かるタンザ様? 

 そもそも黒竜家へ直々に縁談を申し込むなんて。街の代表とは言え、どれだけ面の皮が厚いのよ。


「そう言えば、シルデ嬢は治癒魔法に長けていると自慢気に綴られていたな。たしか……白癒びゃくゆの巫女と呼ばれているとか」

白癒びゃくゆの巫女……」


 治癒魔法を扱える者は希少だから信仰的な扱いになるのはわかるけど、ずいぶん仰々しい二つ名ね。

 神格的な妹を持つキルデが、下水に閉じ込められたニンゲンたちに薬を配っているのも気になる。


「キルデがくれた薬、見せてくれる?」

「いいよ」


 マヒナは首に下げていた小袋を差し出した。

 中に入っていたのは、花の蜜の香りがする痛み止めの黒い丸薬。家庭で作れる簡易的なもので、シグル感染病の患者に服用させてもあまり意味はない。

 どうやら、キルデは薬学に長けているというわけではなさそうね。


 小袋を返すと、どこか誇らし気にマヒナが笑う。


「キルデさまのお薬、すごいでしょ? これを飲むとね、お母さんがぐっすり眠れるんだよ」


 治癒魔法の恩恵を受けられないここの患者たちにとって、キルデの薬は希望そのもの。

 それは時として本来の効能以上の力を発揮する。


「……ええ、そうね。とっても良い薬だわ」


 それでも。

 魂を救うことはできても、命を助けることはできない。



 糞尿と腐乱臭が漂う地獄に押し込められたニンゲンたち、白癒びゃくゆの巫女、無魔ムーマ、そしてキルデの薬。



 小奇麗なアダンテの地下に屯す悪夢を察して、酷く心が騒めいた。


「イズモ、私……」


 あれだけ彼のお人好しに釘を刺したくせに。

 自分勝手だってわかってるけど、でも……。


「ボン氏に話を聞きに行こう。俺だってこんな惨状を見逃すことはできない」


 竜に縋りたくなる村人の気持ちが、今ならわかる。

 こんな地獄の中でさえ、彼がいればきっと大丈夫だなんて思えるのだから。

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