第7話 門出
天井の梁から乾燥薬草のスワッグがぶら下がり、壁沿いに百はありそうな小さな引き出しの棚がそびえる。液体と一緒に瓶詰された昆虫や獣の骨なんかも並んでいた。
どうやら、製薬の作業部屋らしい。
スークスは作業台に置かれた薬研や円筒状の硝子器具をどかすと、そこに薄い毛布を敷いてユニファを横たえた。
「世話になったねぇ、テンガンの末息子」
そう言って薬草を詰めた
彼女は俺の素性を知っても態度を改めない。それが却ってありがたかった。
「世話になったのは俺の方だ。ユニファがいなければ、きっと毒に負けて死んでいた」
「一角が導いたのさ。でなければ警戒心の強いこの子が紙袋を脱ぐはずがない」
根元から折れた角の
スークスの施術は見るからに手慣れていた。まるで何度も繰り返してきたように。
「女同士の関係を探るなんて、野暮だねぇ」
「……心を読まないでくれ」
「最初に言っただろう、何でもわかるって。魔女の前で本心を見せるお前さんが悪いのさ」
ぐうの音も出ない。
キンとギンがこの場にいたら散々からかわれていただろう。オキサキと一緒に店先で待機させておいて良かった。
魔女は罰が悪そうな顔をする俺を笑って、使用済みの
頭上へ吐き出した薬煙の残り香を浴びたスークスは、窓ガラスに映る自身を見つめた。
「……昔、
個人が発表する論文と違って、高名な薬師たちが名を連ねた
作者である魔女は、長引く戦争で苦しむ負傷者たちを助けたい一心だった。
それが結果的に一つの種族を絶滅へと追いやるきっかけとなったのだろう。
罪の意識で魔族を裏切り、最後の
それがトルジカの魔女・スークスだった。
魔鉱石の指輪が彩るシワだらけの指先が薄紫の前髪を撫でる。
彼女の仕草からは罪の意識以上の、たしかな愛情を感じた。
その姿を見て、頭の片隅で描いていた願望に蓋をしようとした時。
スークスの深い緑の瞳が、じっと俺を見つめる。
どれだけ目元に深いシワが刻まれようと、少女の頃の鮮やかさと煌めきを失わない。これが魔女の瞳か。
「そうかい、この子を連れていきたいと。たしかにシデ村の疫病がただの流行り病でないのなら、角の力が必要になるかもしれないねぇ」
「だから心を読まないでくれ。それに、
「ほぉ?」
「角がなくたって、ユニファにはあなたから授かった知識と技術、それに物事をやり遂げる強い心がある。そんな素晴らしい薬師だからこそ、一緒にシデ村を救ってほしいんだ」
現実主義でつっけんどんな最初の印象は、あの取っつきにくい目出し帽のようなもの。紙袋の下には、心優しい彼女が隠れている。
そんな気恥ずかしい本心までしっかり覗かれたらしく、スークスは「ウヒィッヒッヒィ〜!」と独特な引き笑いを上げた。
「どうせ初心とか純朴とか世間知らずとか言うんだろ。わかってるさ、そんなこと」
「ああ、それも規格外のねぇ! ところでお前さん、童貞かぇ?」
「薬屋なのに
何にも包まれていないド直球すぎる言葉に羞恥心が爆発して、思わず声を荒上げてしまった。
だがスークスは気にした様子もなく「そうかい、やっぱり童貞かぁ」と俺の心に直接確認を取ってニッコリ微笑む。もう嫌だ、この魔女。
「誰もが負の感情を抱えたこの国で、その
「ユニファに……?」
「選ぶのはこの子さ。清らかな心がわかる
それは、どんな褒章も霞むくらいの栄誉に思えた。
* * *
店の扉が閉まる音を聞いて、ゆっくりと瞼を開ける。
「勝手なこと言わないでよ、スークス」
「おや、起きてたのかい」
「気づいてたくせに」
白々しく笑うスークスは、私のすぐそばで薬研の車輪を動かしはじめた。
磨り潰す薬材は彼が丘陵で集めていたもの。
きっと、私の答えもわかってるんだ。
「こんな気持ち、初めてなの」
ずっと、何かに怯えていた。
私を害する者、誰かを虐げる者、欲深で善悪の区別がつかない者。
戦争に煽られた色々な種類の邪心に晒され続けて、心が疲れ切っていたんだと思う。
でも彼は、初めて会った時から邪念の欠片すら感じさせなくて。
この角を捧げてもいいと、初めて思えた。
紙袋を被ることすら忘れて無防備な姿でいられるくらい、彼の傍が心地よかった。
不安や恐怖が全部吹き飛んで、本当の自分でいられるような安心感に満たされた。
こんな気持ちになれる誰かとは、きっともう二度と巡り会えない。
「スークス」
涙ながらに大切な人の名前を呼ぶ。
スークスが私を研究所から連れ出してくれて、80年余り。
本当の年齢は知らないけど、当時は美麗だったスークスもすっかり老いた。
魔女に寿命はないって聞くけど、魔族を裏切った彼女には関係のない話なのかもしれない。
「オキサキが言ってたの。今年の冬は大寒波なんですって。だから店番する時はちゃんと着込まないとだめよ。魔女が凍死したら村中の笑い物だわ」
「違いない。ブランケットをかけてくれる奴もいないしねぇ」
「……それまでには、帰って来れるかしら」
「出発もしてないのにもうホームシックとは、困った子だ。そんなヤワな娘に育てた覚えはないよ」
だって。
あなたの傍を離れるなんて、考えたことすらなかったんだもの。
* * *
朝陽が昇ってすぐの時間。
魔女の薬屋のボロい扉を前にして、俺は深呼吸をした。
「緊張していますね、イズモ様」
「ファイトですよ、イズモ様」
めちゃくちゃデジャヴだ。
初日と違うのは、キンギンが首だけになっていること、俺が兜を脱いだこと。そして、ここに来た目的。
「いいですか。娘を嫁に送り出す母というのは身を削る思いだと聞きます。片親同然のトルジカの魔女にとって、ユニファ様は宝そのもの。くれぐれも丁重に、失礼のないように!」
「まずは徹底的に家柄をアピールしていきましょう。テンガン領広しと言えど、黒竜家ほどの良縁はありません。安定した将来像と幸せ家族計画を丁寧に説明し、御二人の緊張を解くのです!」
こいつらの頭の中だと、俺はこれからユニファに求婚するらしい。
……どうしてそうなる!?
「俺が彼女と成し遂げたいのは、求婚ではなく救国だ!」
シデ村の病を放置すれば、どこまで余波が及ぶかわからない。それにバジリスクの出現も気がかりだ。何か、とても嫌な予感がする。
だから俺はユニファの力を借りて、この国の不穏な影を取り除きたいだけなのに!
テンガン領は紅葉が終わりかけ、葉が落ちた木々が目立つ季節。これから厳しい立冬が始まる。
だが一足先に越冬してすっかり春満開な二人に力説していると、建て付けの悪い扉がギィ、と開いた。
「朝からうるさいわよ」
そこには、紙袋目出し帽を被った一角乙女が。
昨日の茶色い紙袋ではなく、色違いの白だ。隅には『タマモベーカリー』と緑のスタンプが押してある。もしかして、備蓄してるのか?
「ユニファ、元気そうでよかった! もう具合は大丈夫なのか?」
「スークスの薬はすごいんだから、当然でしょ。……それより、遅い!」
何が、と問う間もなく渡されたのは、収納量を完全に超越したパツパツな巨大リュック。
あまりの重量によろけながら受け取ったそれと彼女と見比べる。
「約束した抗炎症剤と解熱鎮痛剤、それと役に立ちそうな薬をありったけ。あとは製薬に必要な道具が一式詰まってるから、くれぐれも丁重に扱ってよね」
「ちょ、待ってくれ! それはどういう……」
混乱する俺を無視して、彼女は小さなポシェットを肩にかけて歩き出した。
「ほら、行くんでしょ? ……イズモ」
「……!」
俺の名前を初めて呼ぶ彼女の表情は、紙袋に隠されて見ることが叶わない。
一つ確かなことは、ぶかぶかなブーツの爪先がシデ村に向かう東門へ向いていること。それだけで十分だった。
熱くなる胸の内に打ち震えていると、スークスが薬屋の奥から姿を現した。
黒い尖がり帽の影になった目元は、少しだけ赤くなっている。
「あの子が選んだ黒竜に、これを」
そう言って差し出されたのは、小瓶に詰められたシロップ漬けの葉っぱだった。
「世界樹の葉だよ。死をも超越する奇跡の自然薬さ。樹は戦争で燃やされちまったから、これが最後の一瓶だ」
「そんな貴重なものを、俺に……?」
「お前さんには『選択』の相が出てる。近い将来、何か大きな決断を下す時が来るだろう。その時のお守りみたいなもんさ。あたしからの餞別だ、受け取っておくれ」
スークスは俺の手を取ると、瓶を握り込ませる。
ユニファに世界樹の葉に、俺は彼女から身に余るものを受け取ってばかりだ。
「必ずユニファをあなたの元へお返しする」
「いや、そのまま嫁に貰ってくれると助かるんだがねぇ」
「……選ぶのはユニファなんだろ?」
「ウィッヒッヒッヒッ! その通り!」
その独特な笑い声が届いたのか、先に歩き始めたユニファが「イズモ!」と急かすように呼ぶ。
名を呼ばれるだけでこんなにも胸が高鳴るのだから、そんな未来が訪れたら幸せで爆散してしまうんじゃないだろうか。
スークスに礼を言って、彼女の元へ小走りで駆け出した。
「もう、何ぐずぐずしてるの」
「すまない。でも、本当に良いのか?」
「行くって決めたのは私だもの。働いた分の報酬はたんまり貰うけどね」
さっそく
羞恥を誤魔化すように咳払いをして、改めて思案する。
「報酬か……そう言えば考えてなかったな。何か欲しい品はあるだろうか? モリオンの名産は谷から掘り出した金塊や宝石なんだが」
すると、数歩先を歩いていた紙袋がゆっくりとこちらを振り返った。
そして出会った時と同じように、フィンガーレス手袋をつけた指をびしっと突き立てる。
「金塊? 宝石? そんなものいらないわ。報酬はタマモベーカリーの紙袋一択! 焼きたての塩パンが入ってたものならなおよし!」
だから、何で紙袋なんだよ。
そんな会話から始まったシデ村への旅路。
東門で待ち構えていた
* * *
「見てみなテンガン、時代の門出だよ」
一人残された薬屋の店先で、魔女がそう呟く。
彼女は黒い尖がり帽の鍔を上げ、村の門へ向かう二人の後ろ姿を見つめた。
あらわになったその額には、黒光りする竜の金眼がギョロリと浮かぶ。一角乙女にすら秘密の、極東の見張り役を賜った魔女の第三の眼が。
「老いは薬では治せない不治の病だ。あたしらの時代もじき終わる。そうだろう?」
返事はない。
領内にバジリスクの侵入を許すほど力が衰えた黒竜は、魔女に与えた眼から末息子の旅立ちを眺めることしかできなかった。
「春が来るのが先か、あたしらが力尽きるのが先か……見ものだねぇ。ウヒィッヒッヒィ!」
『極東の門トルジカ』―完―
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