ガラスの殻
あじさし
第1話
実家のある町へ帰るのは2年ぶりだ。任期を終えて故郷へ向かう列車に揺られていた。車内はクーラーが効いていて、人がまばらだった。窓からは、西部戦線では見ることのなかった針葉樹林の濃い緑が過ぎてゆく。
やもめの母親を振り切って駐屯地へ赴いてからこの列車に乗り込むまで、いろいろなことがあった気がするし、なにもなかった気がする。戦線に割かれている人員を補填するための徴兵にも関わらず私の所属した部隊が突然戦線へ送られたり、何回か死に目に遭ったり、同じ部隊の女ととても親しくなったり、なぜか部隊を指揮していた少尉に気に入られたり。
同じ作戦を戦った兵隊はそれぞれ来た道や見てきたものが違っていても、戦線ではみんな同じだった。違ったのは結果だけだ。四肢のどこかを欠損したり、心を壊したり、死んだりするのが私であっても不思議ではなかったはずなのだ。
母は私が就職浪人になったときも、会社で仕事ができなくて帰ってきた時も決して怒ることはなかった。彼女が唯一怒ったのは私が招集に応じた時のことだった。それまで一度も見せたことのなかった顔で怒ったり泣いたりしていた彼女は兵役から帰還した娘になにを思うのだろう。
私は帰り路でまたからっぽになったのだ。
ボックス席の反対側に置いた荷物をぱんぱんに詰めたリュックが転がりそうになる。それを押さえながら缶の中の飲み物を飲み切ってしまった。とくに尿意があったわけではなかったけれど、私は隣の客車のトイレへ行くことにした。
揺れる列車の中を進むと、化粧室は使用中のようだった。
荷物は置いてきてしまったけれど、客の少ない車内で兵役から戻る途中の女の荷物を欲しがるもの好きはいないだろう。
そう思っていると、扉が急に開いた。軽く会釈をしようとしたとき、思わず息を呑んだ。
今はもういるはずのない小学生の陰がそこにあったからだ。
「すずな」
私はその先を続けることができない。
おなかあたりまで伸びている薄茶色の髪に、淡い色をした金属縁の眼鏡。白地のロングシャツにピンク色のカーディガンを羽織り、ショートのデニムパンツを穿いた少女は身長が私の肩ほどだった。彼女は微動だにしなかったけれど、やがて目を細めて笑った。止まっていた時間が動き始めたようだ。
「すずなじゃないですよ、あたし」と彼女は言った。「お姉さんは風連さん、ですね?」
私は頭を
「やっぱり。一度会ってみたいと思ってたんです。あたし、すずなの娘でキキョウという名前です」
「キキョウちゃん、か」
よく見るとまゆの形とくちびるがすずなとは違っていた。でも、華奢な身体や髪、形の良い鼻と微笑みの作り方がとてもよく似ている。
「母からときどき風連さんの話聞いてたんです。同じ町の友だちだって」
「それだけじゃ分からないでしょう?」
「なんとなく分かっちゃったんです。それに兵役に就いているってことも聞いてたから」
国民皆兵になってから軍服を纏った女性を見かけることはそれほど珍しくはなかった。とはいえ、山間の僻地に帰る兵士自体が少ないから分かったのだろう。
「故郷の町に帰るんですよね。もしよかったら途中までご一緒しませんか?」
初対面の相手に物怖じしないところもすずなに似ていた。
私はキキョウという女の子と一緒に荷物を置いた席まで向かった。
「だいぶ荷物が少ないね」
「はい、だいたいのものは送ってしまったので。風連さんの荷物はけっこう重そうですよね」
「持ってみる?」
持ち上げてみせたリュックを少女が抱えた瞬間、少しだけ力を緩めた。
「わっ」
前につんのめった彼女をリュック越しに支えた拍子に私も倒れそうになって、背もたれを押さえる。
「はは、ごめんごめん。座ろうか」
「こんなの持ち歩いてたんですか?」
「さすがに常に持ち歩いてるわけじゃないけどね。でも訓練では何十kgもの装備を背負ってずっと歩いたり銃持って20kmも走ったりするんだ」
「やっぱ体力すごいですね。あたしは足早いほうだけど、無理かも」
「向いてることをやったほうがいいよ。私は力だけはあるから」
きみにもできるようになるよ、と言おうか少し迷った。けれど、無理なら無理なままでいいのだ。
「キキョウちゃんは町に着いたらどうするの?」
「お母さんの実家へ行きます。夏休みだからしばらくおじいちゃんのところにいます。お母さんとはそこで落ち合う予定なんです」
「そっか。すると私と同じ
「そういえば母とは小中学校が同じなんですよね」
「うん。保育園から中学卒業するまで一緒だったよ」
「へぇ、そうなんだ。母ってどんな子供だったんですか?」
「うーん。難しい質問来たなぁ」
私は頭の中に浮かんだいくつもの言葉を並べ替えて吐き出した。
「そうだねぇ。小学校のころから明るくてみんなの輪の中心にいたよ。お転婆なところはあったけれど嫌いになる人はほとんどいなかったと思う。あと、誰に対しても態度が変わらなくて物怖じしない子だったなぁ。キキョウちゃんみたいにね」
「そうですかね」
キキョウちゃんは眼鏡のつるを指でなぞりながら長い髪を耳の後ろへやった。いざ自分の親のことを聞かされると気恥ずかしいのかもしれない。
「お母さんは元気にしてるかい?」
「たぶん。お母さん、忙しくて帰ってくるのはいつも遅いんですけど、とても元気ですよ」
「そっか」
幼馴染のすずなは大学在学中に同じゼミの男と結婚して子供を産んで、しばらくして離婚した。
「寂しくない?」
「ううん。よく友だち家に呼んだり、大家のおばさんと晩ご飯食べたりしてるから寂しくないですよ」
目的の駅で降りると、2年ぶりに帰ってきた駅前のロータリーは相変わらずこざっぱりとしていたけれど土産物屋の屋根は綺麗に塗られて鮮やかな水色をしていた。町のリゾート地の開発が上手くいって景気が良くなっているのかもしれない。
小さな駅なのでバス乗り場は探すまでもない。私たちはすぐ目の前に止まっているバスを見つけた。
「バスはもうすぐ発車するみたいだ」
「あっ」
「うん?なした?」
キキョウちゃんはロータリーの端っこのほうへ走り出す。
「ちょ、待ってよ」
子供というものはこんなすぐにどこかへ走り出してしまうものだろうか?
ワンボックスカーと軽自動車が2台並ぶ横にSUVが駐車されていた。キキョウちゃんはSUV車の前に行くとサイドウィンドウのガラスを叩く。
すぐそばに私の幼馴染がいるのだ。手の汗をズボンで拭う。極力声を立てないように私は咳ばらいをした。
「母ちゃん!」
「母ちゃん?」
肩の力が抜けたのと同時に、サイドウィンドウが下がってゆく。
「キキョウ。早く着いたから待ってたよ。列車、酔わなかったかい?」
「ぜんぜん平気だよ。母ちゃん、あたし風連さんと列車で一緒になったんだ」
「えっ、風連?」
私はキキョウちゃんの後ろから車の中をのぞき込んだ。
実に2年ぶりの再会だった。
「久しぶり。すずな」
口を押えたまま、キキョウちゃんの母親は運転席から外に出た。
短くカットされた黒髪に赤い口紅がきらめく。白いブラウスに灰色のジャケットを羽織って上着と同じ色のスカートを履いていた。職場から抜け出してきたばかりのように見える。もうとっくの昔に眼鏡を掛けなくなっていた彼女の目元は涼しげだった。
「おかえり、風連」
「うん。なんとか戻って来れたよ」
私がそう答えるとほんの少しまゆをくしゃっと曲げてみせた。昔から笑うちょっと前にしてみせる彼女の癖だった。
「お昼はもう食べた?」
「ううん」
「キキョウは?」
「私もまだだよ。どっかで食べる?」
「じゃあ、そうしましょうか。風連、バスの予約とか大丈夫?」
「問題ないよ。来たやつに乗るつもりだったし。けど、親子水入らずのところ悪い気もするなぁ」
「そんなことないよ。むしろちょっと楽しいなぁ。自分の子供と親友と食事する機会なんてそうそうないもん」
なぜか彼女は乗り気のようだった。それでも、なにもなかったように接してくれたことを憎からず思った。あるいは、キキョウちゃんが一緒にいるおかげかもしれない。兵役前、最後に会ったときのことを思い出さずにすむのは。
「さ、乗って。二人とも」
「はぁい。風連さん、私助手席乗ってもいい?」
「うん。いいよ」
すずなの提案で国道を南に走ったところにあるステーキ屋で昼を食べることになった。車内ではT-BOLANの『おさえきれない この気持ち』が流れている。
キキョウちゃんはすずなに似て学校の成績がいいようで、母親に誇らしげに学校のテストの話をしていた。彼女は今年5年生らしかった。
「すごいなぁ、キキョウちゃんは」
「そんなことないですよ」
「懐かしいわね。私たちもあの学校で成績競ってたのよね」
「そんな。私は数学苦手で合計の成績も永遠の二番だったよ」
「あら、でも漢検受けたじゃない。たしか準2級までは一緒にさ」
金庫の数字を正しく合わせた瞬間のように記憶の断片が組み合って昔がよみがえる。
「そうだ。そういえば沿岸の****町まで二人で受けに行ったっけ。校長先生に送迎までしてもらって」
「そうそう。よくしてくれたよね」
「たぶん実家に帰ったらまだ賞状どこかにあると思う」
キキョウちゃんには少し申し訳なく思ったけれど、私とすずなはしばらく昔話を続けた。
やがて、国道の脇に大きな看板が立っているステーキ店の広々とした駐車場に車が停められた。店の中は天井が高く、大きな窓から真昼の日が差し込んできて明るい。週末だからか客の大半が親子連れのようだった。
「すずなはどうする?」
「ウェルダンにする」
「ウェルダンってなんだっけ」とキキョウちゃんがすずなに訊く。
「中まで火を通してるお肉のことね。」
「うーん、私はレアにしようかな」
「食べられる?ほとんど生だよ」
「大丈夫大丈夫、食べられる。と思う」
「そう。じゃ、店員さん呼ぶよ」
テーブルの向かいに並ぶ母娘を目にしていると不思議な気分になる。顔を見合わせて笑っている姿を見ると、まるで現在のすずなと昔のすずなが一緒にいるみたいだった。
ステーキの皿は三人ともほぼ同時に運ばれてきた。鉄板の皿の上では肉がとても香ばしい匂いがする。醤油とガーリックのソースが一つとバターが三個乗ったお皿が一つ付いてきた。
「わぁぁあ、おいしそう」と言うなりキキョウちゃんは肉にナイフを入れて大きめに切り、一口でかぶりついた。
「ふふっ、おなかすいてた?」
「もう、ほら口ソースこぼしたぁ」すずなが口を紙ナプキンで拭ってやる。
肉を小さめに切って最初の一口をほお張る。熱々の肉が旨味と一緒に口の中で広がる。
「めちゃくちゃうまい」
「でしょ?兵役の間、こういったものなかなか食べれなかったでしょ」得意そうに、でも慎ましく彼女が言う。
「いや。てか、すずなのお昼のチョイスが正解だったなぁって思うよ」
事前のイメージとは違い、兵役中は意外にも小休止の合間に作戦の影響が及んでいない近隣の都市へ行って、レストランで食事ができた。こちらのビーフステーキもなかなかだけれどそれ以上に西でも名産の牛肉がとてもおいしかった。
すずなにその話をするつもりはない。食事は楽しくするものだ。どんなときであれ。私はソースをかけて素敵な時間の続きを味わった。
すずなは食べるのが早かった。軍にいた私よりも先に肉をほとんど食べてしまい、お冷やを飲んでいる。
「キキョウ、なした?」すずながキキョウちゃんに声を掛ける。
彼女はバツが悪そうに肉を食みながら、こちらに上目づかいで目線をそっと合わせてきた。
「風連さん。ごめんなさい。私のお肉とばくりっこしてくれませんか」
「もう、キキョウ。言ったじゃない」
「まあまあ。何事も経験だって、すずな。こっちまだぜんぜん口付けてないからお食べ」
「ありがとうございます」
腕を組むすずなをなだめながら私はまだ半分残していた肉と皿ごと交換してあげた。
私は一生懸命肉に齧りつく子供を眺めながら、兄弟がいたらとっくに好きなものを食べられてただろうな、と子供時代のことを思い出していた。
お昼ご飯が済むと、すずなは私を実家まで送ってくれた。
「そういえば、風連のお母さんにはしばらく会ってなかったなぁ。兵役中はやり取りしてたの?」
「うん。といっても作戦が小休止したタイミングとかしか連絡する気力なかったからなぁ。最後に連絡したの、除隊が告知されたときだからもう2週間近く前だ」
「風連、お母さんにもっと連絡してあげなくちゃ。きっと心配してるよ」
「まあ、そうだよね」私はまっすぐ伸びる木々が流れてゆくサイドウィンドウを虚ろに眺めていた。「家出るときちょっと、ね」
「んー」すずなはハンドルをとんとんと叩く。「家族によっていろいろあるかもしんないけどさ。子供のことはなんやかんや生きてればそれでいいみたいなところはあるんじゃないかな。これは、娘を持った者としてもいうんだけどさ」
「うぅん、でもどうやって声を掛けたらいいんだろうなぁって少し考えちゃうよ」
「そんなの、ただいまって言えばいいんじゃない?」
「そう?」
「うん。きっとあのお母さんなら風連の無事を確認したらその場で『京橋』のお寿司でも取ってくれるよ、きっと」
『京橋』は地元唯一の寿司屋だ。
「そう。そっかぁ」
牧場が窓から見えてくる。
「ちょっと、危ないから窓から顔出しちゃだめだからね」
「もう、分かってるよ母ちゃん」
草を一心に食べ続けたり、こちらを一瞥をくれる馬たちにキキョウちゃんは興味深々のようだった。
「あたし将来牧場で働きたい」
「えぇ、大丈夫?朝早く起きて働かなきゃだめだし、生き物の面倒みるのは365日休みなしだよ」
「うぅん。ちょっと考える」
めいっぱい陽が照らす大地でめいめいの行動に没頭する栗色の馬たちを眺めながら、私は長い夢から覚めたような感じがしていた。
実家のトタン屋根の戸建ては2年前と同じように木の壁が黒ずんだり、屋根がはがれかけてはいたけれど、それでも建っていた。玄関の呼び鈴を鳴らしてみたけれど、母が出てくる気配はしなかった。
実家は畑作をしていた。小さいながらも、そこそこ出荷もしていたし、じゃが芋と米に関しては家で食べる1年分の量は充分に賄えるほどだった。
今時期は作業がひと段落しているはずだから家にいるかと思ったけれど、市街へ買い物にでも行ってるのかもしれない。
「裏の井戸、見てくる」私はすずなにそう告げた。
「井戸?こういうの」とキキョウちゃんはその場で空想のポンプらしきものを漕いでみせた。
「ううん。昔は手で押してたけれど、私が中学生のときにはもう電気で汲み上げる仕組みだったよ」
「そうなんだ」
裏手に回ると、そこには母親が立っていた。自分の勘があっさり当たってしまったことに拍子抜けしてしまう。洗濯物をロープに干しているところだった。
「母さん」
母はこちらを振り向かない。でも、作業の手を止めてこちらの気配をうかがっているようだ。もともと細かった母親はさらにその体重が軽くなってしまったような印象を背中から感じる。
「帰って来たんだね。まさみ」
「ただいま」
一歩ずつ近づいてゆくと、音を立てないで母が振り返る。少し雰囲気は変わったけれど、それは私の母に変わりなかった。そのことに少しほっとしていると、それを感じ取ったかのように母が私の手を両手で包んだ。
「よく帰って来たね。まさみ」
年と皺を重ねた彼女の顔は笑っているのか泣いているのか分からない表情で私の顔を食い入るように見る。まるで自分の子供の帰還が幻でないことを確かめようとするように。
2年ぶりに私の顔をまじまじと眺めた母は、満足したような顔をして洗濯物籠を抱え、鉄砲水のようにいろいろな質問を投げかけた。それを押さえながら、小中学校で同級生だった赤川さんと一緒に来たと言うとますます饒舌になった。
「そういうことは先に言いなさいよ。ったくこったらおめぇ」
「言ったでしょ、今」
「だいたいろくに連絡もしないでどれだけ心配したか」
「通信状況も悪いときあったし……」
「せめて手紙の一つも書けばよかったしょや!まったくこの子は親をなんだと」
「おばさん。お久しぶりです。覚えてますかぁ?中学まで同じクラスだった」見かねたのか、すずなが助け舟を出してくれた。
「あぁ、すずなちゃん久しぶりだねぇ。またぁ、立派になってぇ。あら、そちらは?」
「娘です。ほら、キキョウ」
「こんにちは。キキョウです」
「かわいいねぇ。何年生だい?」
「小学5年です」
母はしばらく赤川母娘と他愛のない話に花を咲かせていた。
「お茶淹れるから良かったらどうぞ」
「母さん。赤川さんもお父さんの家に今日帰るところだったんだよ」
「なにさ、こんなところで立ち話させてるのも悪いでしょ」
「だから」
「まあまあ。せっかくだし少しお邪魔することにします、おばさん」
「さ、上がって。今日この子帰ってくるちゅて『京橋』のお寿司も取ったから。よかったら持ってってちょうだい。どうせ食べきれないし」
私はすずなと顔を見合わせた。彼女の勘もまた冴えていたのだ。
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