小説を書く理由

にーどれす

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 小説を書く。寂寞とした室内には天井へあがってゆく真白な軌跡。頬へと毎秒迫る摂氏八百度の塊は眼間で発する光量のなかに次々と打擲されてゆく細い黒い文字列たちの出現速度と比例していた。期限はない、好きでもない、理由もない。小説を書くというものは、一種の自己判断、自己解釈の延長線上であると位置づける。自らが自らを律するための道具、手段でしかない。作者はそれを文字媒体にして世界に共有することによって、自己の存在を知らしめたいと考える矮小で醜悪な人間でなければならない。醜さのなかに華美を持たなければならない。物事の本質を本質足らしめている理由を、曲解させることにより、読者に考えさせることができる。時間の消費を世間は声を大にして無駄だと叫ぶ。なんということだ。時間の無駄、思考の邪魔、人生の悪路こそ人間が人間である証左だ。指先を動かすという意識は既にない。押せば文字が生まれ、自己表現を可能にする媒体。画面に映る自らと会話をしている。口端へ迫りつつある煙草は、椿の如くぽろりと落ちた。

 私は自己を否定する。

 私という個人の証明は既に諦めた。個人は個人でしかなく、ひとりという人間はひとりという単位でしか図れない。他者は他者だし自分は自分だ。夢もなく理由もなく生き甲斐もないが、自死を選ばない。無になることが恐ろしく、無とは翻っても無だ。零は零だし一は一。但し零点一という言葉もある。マイナスであり続けた人生を、せめて零へと押し上げたい。生死の希望や過程結果の絶望などは私が私であるための証明にはなり得ないのだ。

 背後で紙を捲る音が聞こえた。いや、修正する。絶えず一定の秒数を挟んで聞こえていたものだった。

「……先生、いまよろしいですか」妙に子供染みた、常人よりもほんの少し高いソプラノが、洟を啜っていう。「主人公は最期どうなるんですか」

「死ぬよ、ひとは最期はきっと死ぬ」

「そういうことではなく、物語としてですよ」

「死ぬよ、私はそういう物語しか書けない」

「そうですか」言いながら恐らく印刷した原稿用紙へ筆を入れているのだろう。強い筆圧で文字を辷らせる挙措が聞こえる。煙草の火種は終着地点になると焦げ臭いものに変貌を遂げた。画面から眼を離さず適当な机の上で火種を揉み消す。几帳面な女史にとっては惨憺足る状況だろうと漫ろ笑む。私は他人の厭がることが好物だった。幼稚園時代の好きな児にも、よく虫の死骸を衣嚢に入れたものだ。相手の顔や声といった特徴は覚えていないのに、匂いは微かながら記憶している。それもどういった表現をすればいいのかは不明瞭であり、自らの力不足を感じずにはいられない。

「先生と呼ぶのはやめてくれと云ったけれどね」画面の左下に了という文字を打ち終え、回転式の椅子を廻した。見下ろす恰好となり申し開きの仕様もない。下位に思っているわけではない。きっと私はそこまで落ちぶれてはいない。「売れていない作家だし、なにか賞をとったわけでもない。周りよりもほんの少しだけ言葉に対する扱いが上手なだけだよ」口端が空となっている現状に心が躍る。専用の箱には入っていない、煙草の一本を銜えてオイルライターを開ける。

「先生、煙草吸い過ぎですよう。空気清浄機が常に真っ赤です、副流煙のせいで早死にしちゃうかも」

「ひとはいつか死ぬよ、大丈夫。心配しなくても良い」

「……であれば先生のせいで死ぬということでは。まあいいや。初稿の確認いたしました。文章表現や描写の確認、誤字脱字の確認も今し方終わらせました。このあと打合せしてもよろしいでしょうか。それとも寝ますか」

「ええ、寝なくとも結構。煙草が私にとっての栄養素だからね、貴重貴重」

「では時間を決めます、今から五分ほど時間を空けまして、そのあと一時間を目途にしましょうか」

 彼女は左腕に巻いてある時計を見ながらそう云った。煙草を堪能する時間にしよう。打合せを終えれば少なくなった煙草を買いに出て行ってもいい。近頃は通販が利便に働き、食材などは全て済ませてしまっている。外出するときは、煙草を買うときと、彼女が外で打合せをしたいというときくらいだった。天井を見上げる、白い筋が魂の腕のように伸びて、先端で渦を巻いては消えていった。

 こういう程度のものなのかもしれない。知らず私は漫ろ笑みをしていた。それに気づいたのは彼女の発言だった。裡側の肉を歯へ押し付けるようにして笑みを揉む。

 彼女は筆を持ちながら、開口した。

 私は煙草を吸いながら、閉口する。











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