第2話「だまされた!」
埴安は、高校を卒業して、四月からお菓子工場アルテミスで正社員として勤務することになった。
ドキドキの入社式。
初めて着るスーツ。
初めての仕事。
何もかも初めてのことだった。
社長室。
「そこにかけてください。簡単に会社について説明します」
社長らしき男性が会社について説明している。
僕は社長室の長椅子に座っている。
隣りに女の子がいて、僕と一緒の入社のようだ。
社長の説明では、この会社は『月の屋』と言う会社で、僕が就職したのは、主力のお菓子アルテミスだけを作る工場で、工場の隣りには、月の屋のいろいろなお菓子を販売する店舗がくっついていた。
月の屋はアルテミス以外のお菓子を作る店もあり、販売店も大型スーパーやデパート、駅や空港などがあるそうだ。
僕くは機械設備の保守点検だから工場だろう、愛想の無い僕には販売は無理だ。
隣りの女の子は販売だろうか、愛想の良さそうな可愛い子だ。
結局、入社式と言うものは無く、社長が会社の説明をして、その後、工場長が迎えに来た。
工場長と少し話しをして、会社に提出する書類を何枚も渡された。
班長と言う人が来て、僕は白い作業服をもらいさっそく仕事のようだ。
工場には、いろいろとルールがあり、
トイレに入るには薄いフード付のジャンバーを着なければならなかった。作業服にトイレの菌が付かないようにするためらしい。
トイレから出たら粘着ローラーで頭から体を転がしホコリや髪の毛が作業服に付いていないか確認をする。
その後で石けんで手洗いである。
手洗いの後で、また粘着ローラーをかけてやっと工場の中に入れた。
「この鉄板を持って、こう揺すってクッキー生地を溝の中に均等にしてくれ」
坂本さんと言う男の人が鉄板を持って揺すっている。
「このアルテミス(製品の名前)はアーモンドの粉を使っているので水分量が難しいんだ。クッキー生地は焼き上がった時に水分が残っていて柔らかかったらダメなんだ。カリッと焼き上がらないと製品としては使えない。しかし、焼き過ぎて黒くなってもダメだ。わかるか?」
「はい……」
僕は、何を言われているのかわからなかったが、とりあえず返事をしておいた。
「アルテミスは水分量が少なくて直接機械で揺すっても上手く広がらないんだ。それで手で揺すってから機械にかける。わかるか?」
「はい……」
実は、さっぱりわからなかった。
「機械で鉄板にクッキー生地が入る、それを手で揺すって均等に広げて、次にこの機械に入れて揺する。そしたら、このラックに下から入れていき、上までいったらオーブンに入れる。この繰り返しだ」
坂本さんの説明は早口でよくわからなかったが、なんだか怖そうな人で質問もしなかった。
僕は言われたとうりに肩幅より少し広い鉄板を揺すってみた。
鉄板にはクッキー生地が入るくぼみがあり、いくつもならんでいる。そのくぼみに入っているクッキー生地を揺すって均等に綺麗に入れるのだ。
鉄板に機械からクッキー生地が押し出されて出てくる。
その鉄板を取って胸の高さまで持って揺する。
鉄板と言っても薄くてたいして重たくはない。
僕は、言われるままに鉄板を揺すった。
次から次とクッキー生地の入った鉄板は流れてくる。急いで揺すって機械に入れないと間に合わない。
鉄板を揺する機械は2台あり、機械に乗せてスイッチを押すと30秒ほど鉄板がガタガタと揺すられる、それから、それをラックに入れるのだ。
僕の向かいに男の人がいて二人での作業である。
坂本さんは、もうどこかに行ってしまった。
「あの〜これ、こんな感じでいいんでしょうか?」
「はーーい」
「……?」
向かいの男の人に聞いたが、何か変な感じだ。
僕は、機械設備の保守点検で入ったはずだが……何で鉄板揺すってるのだろう?
疑問があるが、言われたままに、ひたすら鉄板を揺すっていた。
❃
「埴安くん、不良品がいっぱい出てるよ!」
坂本さんが怒っている。
坂本さんに連れられ、焼き上がったクッキーを見ると、いびつな形の物がたくさん有って、不良品として捨てられるようだ。
「こんなに不良品を出してどうするんだ、ちゃんとやれよ! クッキーの端が均等にならないとダメなんだ。薄い部分があると不良品になるんだ。わかるか?」
坂本さんは、鉄板を一枚揺すってみせただけで、端を均等にしなければならないなんて聞いていない。
僕がちゃんと出来るのを確認したわけでもなく、僕は、わけもわからずやっているので上手くできるはずもなかった。
鉄板は薄い物で、一枚は、それほど重い物ではないが、それでもやはり鉄板である。一日中、振っていればヘトヘトである。
鉄板は、クッキー生地が入ると鉄の枠で出来たラックに下から入れていき、上まで入るとすぐ横にあるオーブンで焼かれる。
オーブンは人が入れる程の大きさで3台あり、係りの人が焼き上がった物を出し、空いたら次の物を入れていく。
下から何枚も鉄板を入れていきオーブンで焼くのだが、薄いクッキーを高さの違う所で焼くのは難しく、焼き時間は数秒単位で決めているようだ。
オーブンはクッキーを焼いているので、当然熱く、埴安のいる職場は、とにかく暑かった。
埴安が手袋を脱ぐと、手袋の中に汗が溜まっていてしたたり落ちた。
何で、こんな力作業をしなければならないんだ? 僕は、機械設備の保守点検じゃないのか?
二日目。
埴安は一生懸命に鉄板を揺するが、上手く出来ないようで、坂本さんは不良品の山だと怒っている。
しかし、手取り足取りやり方を教えようとはせず、怒ってばかりだ。とにかく怒っていた。
もう嫌だ、こんな仕事を一生しろと言うのか!? 俺はだまされた!
二日目ですでに切れてしまった。
埴安は高校時代、自分のお腹の弱いのを治そうと柔道部に入っていた。
しかし、これがまずかった。
高校二年生の練習中に右肘を脱臼骨折してしまった。一年生が一本背負いの練習中の事故である。
本来、一本背負いをかける者は安全のために、相手の右腕を引かなければいけないのだが、逆に押して腕の関節を真っ直ぐにロックしたまま畳に腕を叩きつけたのだ。
埴安の右肘はバキッと言う音を立てて関節の曲がらないはずの方向に曲がった。カニの足を関節とは逆に折り曲げるように折れた。
病院でレントゲンを撮ると右肘に骨の破片が無数に写っていた。
その後、右手は動くようにはなったが、元通りというわけにはいかず、柔道部で選手は確実と言われていたのに、三年生になっても選手にはなれなかった。
埴安は美術が得意で、雑誌に絵を投稿するとよく掲載された。高校を卒業したら美術専門学校に行って将来はデザインの仕事に就きたいと思っていたが、利き手である右肘が折れた瞬間に、それは夢と消えた。
電力会社の就職試験を受けた時も健康診断で右肘のケガを医師に言ったが、不合格になった原因はこれだったのかもしれない。
埴安は、力仕事では右肘ももたないと思い。場合によっては、お菓子工場の仕事を辞める決意をして上司に相談しようと決めた。
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