通産大臣・田沼意辰の決断

 日本の首都機能は主に京都と大阪、そして一部は神戸や奈良に分散していた。

 その理由を明らかにするには明治の初め、大日本帝国の草創期にまで遡らなければならない。

 

 徳川と薩摩を中心とした諸侯の連合政権として出発した明治政府がまず考えなければならなかったのは、自らの本拠地をどこに置くかということであった。

 江戸、大阪、京都、伏見など様々な案が検討されたが、有力なのは大阪(その頃には江戸時代までの「大坂」という古い地名は、明治政府の成立を寿ぐという名目で有力商人を中心とした大坂の町衆たちの誓願により改められていた)と江戸であった。  

 両都市とも平野に位置するということで将来的な拡張の余地が大きく、それぞれ神戸、横浜といった日本有数の貿易港にも近く経済的な利点もあった。

 

 主に薩摩が大阪を推し、旧幕臣が江戸を主張した。

 大阪派が大阪という都市の経済力と、日本最大の商業勢力である大阪商人たちの支持を得やすいという利点を挙げれば(すでに江戸時代の後半から日本では商人たちが政治的にも無視し得ない存在になっていた)、江戸派は旧幕府の官僚機構がそのまま使えることを優位性を主張した。

 

 また、他の諸侯たち(実際には新政府に出仕していた諸侯の家臣たち)もそれぞれの思惑のもとに大阪派と江戸派に分かれたため、新首府をめぐる論争は新政府を分裂させかねない派閥抗争に発展する気配を見せ始めた(さらに新政府に参加していた公家の中には京都案を主張する者が多く混乱に拍車をかけた)。

 

 事態を憂慮した松平慶永、勝海舟、榎本武揚、大久保利通、西郷隆盛の五人が談合した結果、裁定を内大臣にして新政府の実質的な首班であった徳川慶喜に委ねることに決した。

 

 彼らに一任された慶喜は、明治新政府の首都をそれまでどおり京都に置くと決した。

 その理由について、本人から語られることはなかったので詳らかではない。

 ただ、勝海舟は晩年に残した談話録『氷川清話』の中で、「大阪と江戸のどちらにしても禍根を残す。ならばいっそ変えないのがいちばん良いと考えたのではないか」という趣旨のことを述べている。

 あるいは、慶喜という人物の尊王傾向の強さということも影響しているかもしれなかった。


 理由はともかく、新生日本の首府は京都に決した。

 が、この古い都市は権威と伝統に不足はないが、近代国家の首都たるべき機能は全くなかった。

 新政府は、その官僚機構を支える人材として江戸の旗本・御家人をその家族ともども数百人単位で移住させ、京都の街を西洋風に改造するところから始めなければならなかった(一九世紀中葉から始まった産業革命によって日本でも西洋風の街や近代的な工場、鉄道が建設されていたが、そんな時代でもこの街はそれこそが命綱でもでもあるかのように旧来のものを固守していた)。

 

 寺社や保守派の公家、知識人などとの軋轢を生じながらも京都は少しずつ近代的な街へとつくり変えられていったが(意外にも有力商人ら町衆は都市改造に協力的ですらあった)、四方を山に囲まれたこの古い都は、近代国家の首都機能を内包するには狭すぎた。

 日本の発展に伴い、行政機構も拡大してくると山科や伏見にまで拡大してもなお、官庁街が入り切らなくなってきた。

 

 そこで日清・日露戦争期を境に一部官庁の大阪移転が始まり、日本の首都機能は事実上、京都・大阪の二都市によって担われるようになっていったのである。主に帝国議会議事堂や大統領府と首相官邸、それに大審院といった政治中枢は京都に置かれていた。

 行政官庁は京都と大阪に分散していたが、京都にあるものとして大蔵省(主税、理財、銀行、関税の各局は除く)、外務省、内務省、文部省、警察省、陸・海軍省などがあった(これらもすべてが京都の中心街にあるわけではなく、伏見や山科にも分散している)。

 大阪には大蔵省の主税、理財、銀行の各局と国税庁(関税局は明治初期から神戸に置かれていた)、厚生省、建設省、運輸省、逓信省などがあり、行政官庁ではないが日本銀行の本店も大阪にあった(こちらは初代総裁・渋沢栄一の時代から大阪に置かれている)。

 総じて言うと大阪には経済系、現業系の官庁が多いが、同地が江戸時代から日本最大の経済都市であることを勘案すれば自然なことかもしれなかった。

 

 だが、大阪に存在する官庁として真っ先に名前が挙がるのは、先に述べた官庁のどれでもなかった。

 貿易国家、商業国家として世界最大規模の経済力を有することになった日本の産業と貿易政策を担う官庁、すなわち「通商産業省」(通産省)であった。

 

 通産省は第二次伊藤博文内閣下の明治四三(一九一〇)年に商工省を発展・解消させる形で設置された。

 それは日露戦争の結果、大陸への進出を阻まれたことで、植民地帝国ではなく、貿易と産業で生きることを余儀なくされた日本がつくった、国際通商と国内産業政策の総合官庁なのであった。

 

 通産省は、設立以来大阪の天満橋に所在している。

 通りを挟んで大阪城と隣接しており、間近に見える天守閣は一つの名物であった。  

 が、ここを訪れた者たちの目をまず惹くのが、正門前にある田沼意次おきつぐ意知おきとも父子の銅像であった。

 

 一八世紀後半から一九世紀初頭に至るまで、半世紀以上にわたって二代で幕政を主導してきたこの父子は、結果的に見れば今日の日本の基礎を築いた最大の功労者のひとりであった。

 通産省ではその功績を顕彰すべく現行の庁舎の落成と同時期にこの二体の銅像を据え置いたのだった。

 

 さて、昭和一六年七月現在の通産省の主は、この二体の銅像の人物の子孫が務めていた。

  

 


 相良田沼家は、田沼意次が時の将軍・徳川家重に遠江国榛原郡相良に一万石の領地を与えられたことに始まる。その七代目当主である田沼意辰おきともは、華族の爵位を持つ歴とした華族で貴族院議員、そして現通産大臣である。

 

 意辰は通産大臣就任前から日本で知らぬ者がいないほどの著名人であったが、それは華族としてでも政治家としてでもなかった。

 田沼意辰といえば、没落しかかっていた実家を立て直した上、一代で「田沼自動車」と「田沼飛行機」を基幹とする「田沼財閥」を築き上げた、日本のみならず世界的にも有名な実業家なのであった。

 

 意辰は「社長室にいる時間よりも現場にいる時間の方が長い」と言われるような経営者であった。

 自社の工場に頻繁に足を運び、工員たちに混じって食堂でカレーライスを食べ、気さくに話をする社長であった。

 華族らしからぬ庶民的な振る舞いが自社の社員のみならず、広く国民に受けた。

 

 戦時内閣の通産相に抜擢された理由のひとつが、その国民人気であったが、大臣になってからもその姿勢は変わらず、地方の軍需工場などへ頻繁に視察に出向いた。

 そのため、季節を問わず意辰の肌は浅黒く日焼けしていた。

 また、若い頃は自らも油にまみれながら、自動車や飛行機の研究に打ち込み、肉体労働も厭わなかったためか、体格はいかにも頑強そうであった。


 この異色の大臣は、この日もいつものように定刻の五分前に庁舎内の大会議室に現れた。

 上着も着ずにワイシャツの袖を捲り上げた姿で(ネクタイもしていない)、居並ぶ幹部たちに片手を軽く上げて気楽に「よう」とあいさつした。

 

 七月の午後の日差しが容赦なく差し込んでいて、八月の盛夏ほどではないにせよ、扇風機を回して窓を開けたぐらいではどうにもならぬほど十分に蒸し暑かった。

 会議の出席者たちも上着を脱いでワイシャツ姿である。

 だがさすがに袖を捲り上げて、ネクタイを外しているものはいない(それでも大臣臨席であることを考えればかなりラフな方であった。通産省は日本の官界の中では頭一つ抜けて「バンカラ」であることで知られている)。

 

 今日は週に一度、通産省の方針を事実上決定する「局長会議」なのであった。

 本省の局長級以上の幹部が集まって、通産省提出の法案や政令案の他、重要事項を検討・審議する。

 この会議で裁可された事項はさらに事務次官会議や閣議を経て、政府提出の法案や閣議決定となる。いわば通産省の最高意識決定機関であった。

 

 意辰は自分の席に座って盛んに汗をぬぐい、扇子でバタバタと仰ぎながら近くの席の事務次官と世間話をする。

 程なくして議事進行役の官房長が開会を告げた。

 

 官房長の議事進行にしたがって、担当局長が議案を説明し、参加者の「異議なし」の声で原案どおり承認されていく。

 この会議にかけられるような議案はたいてい事前に事務方での調整や大臣への根回しが済まされており、ここで実質的な議論が交わされることはあまりない。

 つまるところ、局長会議とは省内のコンセンサスを得たという形をつくるための一種のセレモニーなのであった。

 

 官房長が次の議題を告げた。


「外務省よりの申し入れ。合衆国への臨時石油輸出の件。担当の資源局長、説明を」

 

 今次大戦の勃発に伴い、国内の石油をはじめとする重要資源はすべて通産省の管理下に入った。

 資源局はその実務を行うためにつくられた部署だった。

 石油の国外への持ち出しは原則として禁止され、輸出には通産大臣(実質的には資源局)の許可が必要である。

 

 指名された岸という名の資源局長が立ち上がる。

 山口出身の男で次期事務次官と噂される切れ者だった。


「先般、外務省より内々の申し入れとして、国内に備蓄されている原油の一部を合衆国に輸出されたいとの要請がありました。今行われている石油交渉に関連するものとのことでしたが、皆様もご承知のとおり、我が国は目下戦時下にあるため、今後石油の需要はますます増大する見込みです。よって資源局としてはこの要請を断る方針であります」

 

 資源局長は現状と方針を端的に要約した。

 それに対して異を唱えたのは通商局長であった。

 鶴を連想させる痩身の資源局長とは違い、やや太り気味の眼鏡をかけた男だった。

 

「その判断は少し早急ではないだろうか?先日経企庁(経済企画庁)から回ってきたレポートにもあったように連中は隠しているが、合衆国の石油事情は逼迫している可能性が高い。ここでにべもなく断ると、何をするか分からん」

 

 それにすかさず岸が反論した。


「しかし、現実問題として我が国にそのようなない。現状では南部連合、中東、蘭印からの輸入と北樺太油田から産出される原油でなんとか必要量を賄っているに過ぎない。」

 

 居並ぶ幹部たちが口々に意見を述べ初めて、局長会議には珍しい喧騒が生まれていた。

 それを沈黙させたのは、意辰の声だった。

「岸君、外務省からの要請というが、そもそもの起こりはどこの国かね?合衆国かね?」

 岸は咳払いして応えた。


「外務省の米州局長も明言はしていませんでしたが……口ぶりから察するにどうも南部連合が言ってきた話のようです」

 

 「どうしてまた南部連合が?」と繊維雑貨局長。


「おそらく、国内の問題だろう。自国の石油を合衆国に売るのがもっとも単純ではあるが、歴史歴な経緯からしてあの国の世論と議会がそれを容認するとも思えんからな」

 

 そう言ったのは意辰である。それからやや沈黙してから再び、口を開いた。


「岸君、現状国内に備蓄されている原油は必要量の何年分に相当するかね?」


「消費量が現状と大きく変わらにと仮定して、一年乃至一年半といったところでしょう」


「ふむ。山下君、北満洲の共同開発油田は何年くらいから生産開始できるかね?」

 

 唐突に話を振られた山下という鉱業局長はやや戸惑いながらも応えた。


「昭和一八年中には生産開始見込みと報告を受けております」

 

 日本と満洲自治政府では一九三〇年代初頭から石油資源の共同開発を始めており、二年前に黒竜江省で有望な油田が発見されていた。

 かなり大規模な油田らしかった。


「それ、一年前倒しできんかね?」


「待ってください。現状でもスケジュールを一年前倒しさせているのですよ。それはいくら何でも無茶と言うものです」


「完全にではなくとも構わん。とにかく一刻も早くそこから取れる石油を我が国に入れるのだ」

 

 多くの出席者たちは皆、話の急展開について行けないようだった。意辰は全員に話すように言った。


「いいかね、諸君。例えば我が国に入ってくる石油の半分を合衆国に輸出する。足りない分は備蓄で補えば、二年かそこらはやっていけるだろう。その間に北満洲の油田の生産を開始すればよいのだ」

 

 あまりに大胆な提案に一同は顔を見合わせた。意辰はさらに続けた。


「無論、我々が合衆国に売った分の石油は南部連合産の石油で可能な限り補わせる。岸君、外務省にもそう伝えてくれ」

 

 産業局長がおずおずと発言した。


「しかし……我が国が合衆国のためにそこまでする必要があるのでしょうか?それに国内的にも説得できるかどうか……」

 

 意辰はそれに応えた。


「いいかね、三国関係が最終的にどうなるにせよ、我が国が戦争回避のために最大限努力したという実績が必要なのだよ。心配ない、政府と産業界の矢面には私が立つ。君らはそれを実現するために所要の措置を取ってくれたまえ」

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