開戦前夜

艦隊司令長官人事

 昭和一五(一九四〇)年一一月三日の明治節、世間は祝日で賑わっていた。 

 例えば大阪の梅田や江戸の銀座、名古屋の栄など大都市の繁華街では、燃料の統制で自家用車の数こそ減っていたが、通りは家族連れや、近い将来そうなりそうな人々を中心に賑わい、百貨店には棚からあふれんばかりの商品がならんでいた。

 この国が遠く離れた欧州で勃発した二度目の大戦に一〇万人規模の兵力を派遣していること――つまり戦時下にあることなど、(少なくとも表面的には)微塵も窺わせない。

 また、この年に大阪で開催予定だった五輪と、江戸で開かれるはずだった万博は中止になったが、一年を通して全国各地で関連行事が催されている「皇紀二千六百年記念祭典」の影響も、この戦時下らしからぬ「浮ついた」空気に拍車をかけていた。

 

 それもこれも、この国が明治以来(あるいは江戸以来)成し遂げた経済的成長が、欧州で戦争を遂行しつつ(といってもこの国が参加しているそれは、今のところドーバー海峡を挟んだ航空戦と、地中海や大西洋を舞台にした海上護衛戦が主であるが)、銃後の国民に戦争前とほとんど変わらぬ生活を送ることを可能にしているからこそであった。

 

 さて、国家や社会の運営と存続には、世間一般が幸福な一時的現実逃避に興じている間も淡々と現実と戦っている人々の存在が欠かせない。

 大阪府大阪市港区の天保山の一角で働く人々も、その同類であった。

 

 ここは江戸時代の寛永年間に大阪湾防備のための砲台の一つが置かれた場所であり、この時代には海軍軍令部をはじめ、海軍省大阪庁舎、国内有数の通信能力を持つ海軍大阪通信所などが置かれた、海軍の重要拠点の一つである。

 

 この日、そこにある海軍軍令本部を一人の男が訪ねようとしていた。

 背丈は大柄で恰幅もよい。

 しかし、顔の若干たれ気味の目がひどく柔和な印象をつくるのを手伝っており、大きな熊のぬいぐるみを連想させた。

 その身にまとった第一種軍装と階級章がおしえていなければ、男が海軍軍人、それも将官であるとは多くの人間は思わないだろう(ちなみに軍刀は佩いていない。陸海軍ともに儀典以外での軍刀着用は廃止されていた。代わりに将校の象徴として拳銃を携帯している)。

 男の名は山口多門。

 帝国海軍連合艦隊(GF)所属第二艦隊六航空戦隊司令の任にある海軍少将である。

 山口は軍令部総長である海軍大将の山本五十六から呼び出しを受けていた。

 

 それにしても奇妙であったのは、直属の上官である南雲第二艦隊司令長官や嶋田GF長官を飛び越えて、軍令部総長が一介の戦隊司令である自分を呼び出すということだ。

 山本とは昭和四(一九二九)年に大阪海軍軍縮会議交渉全権団の一員としてともに仕事をして以来公私ともに親しい間柄であったから、久方ぶりに飲みに行く誘いかとも思ったが、わざわざ総長名の電文まで出していたから公的な用件であると思われた。  

 その割に「一一月三日正午、総長公室に来られたし」という極めて簡素な文面であったのも奇妙であった。

 

 以上のような理由で、山口は少々訝しく思いながら、第二艦隊の母港である横須賀からはるばる夜行列車で駆けつけてきたのであった。

 その日の朝、大阪駅に副官もつれずに独りで到着した(山口はもとよりこうした単独行動が好きであった)。

 山口は、駅近くの阪急ホテル(従来の富裕層を主な客とするものではなく、中産階層向けで商用客や地方からの旅行客に重宝されている)でゆっくり朝食と食後の珈琲と読書を楽しんだあと、大阪市電(自動車交通量の増加を受けて、大阪市当局は市電の地下鉄化を推進していたが、戦争の影響もあり御堂筋線と四つ橋線、それに中央線の一部を除いて開業していなかった)に乗り大阪港駅で降りた。

 

 外は雲一つない秋晴れであった。

 駅から歩いて一〇分足らずで明治時代に建てられた瀟洒な煉瓦造りの軍令部庁舎が見えてきた。

 荷物は(と言ってもボストンバック一つであったが)ホテルに預けてきたから、手ぶらで身軽である。

 衛門に着くと立哨をしている兵に官姓名と来意を告げる。

 まさか現役の海軍少将が副官も伴わずに徒歩で来るとは思わなかったのであろう(将官ともなれば電話一つで迎えの車を呼ぶことができる)。

 修学旅行で抜き打ちの教師の見廻りに遭った生徒のような顔で「少々お待ちください」と言って詰所に戻ると、すぐに責任者らしい、四〇代くらいの下士官を連れてきた。

 「案内する」と言う下士官をやんわりと謝絶して、山口は軍令部構内、そして建物内へと入っていった(建物に入る時にも誰何を受けて、衛門と同じようなやり取りがあった)。

 山口は過去に何度か軍令部で勤務したこともあり、勝手知ったるなんとやらで、実際のところ案内など不要なのであった。

 途中で何人かとすれ違ったが(その中には連絡要員として派遣されているらしいイギリス人将校もいた)戦時とはいえ、当直要員以外は出勤していない本庁舎内は、普段の喧騒とは打って変わって静かであった。

 もっともその理由は、一年三六五日、二四時間忙しい、情報や通信部門は別館や軍令部と隣接する大阪通信所に入っていることもある。

 

 総長室は五階建ての本庁舎の三階、そのいちばん奥まったところにあった。

 正午五分前、いかにも高そうなイギリス製の室内扉を四度ノックする。

 新潟人らしい、いかにも朴訥として実直そうな見た目とは裏腹の、意外な柔らかみとかん高さを持つ声が返事をする。

 部屋に入ると第一種軍装を着た壮年の軍人が扉と同じくいかにも高そうな机で書類に判を押していた。

 

 顔を上げたその人物―山本五十六海軍軍令部総長は、目の前に山口の姿を認めると、


「おお、休日にわざわざすまんね」

と印鑑を放り出すようにしながら言った。


「閣下こそ、祝日にお仕事ですか」


「戦争が始まってこのかた、決裁書類ばかり増えてかなわんよ。おまけに政府の会議やら与野党幹部や財界のお歴々との親睦会やらで、ろくに判押しをする暇もない。だからこうして、休みの日でも判を押しているというわけでね。まっ、前線の将兵の苦労と比べたら屁でもないがね」


 そこまで言って、山口に応接セットのソファをすすめ、従兵を呼んで、珈琲を持ってくるように命じた。

 

 珈琲が来るまで二人はなんということもない世間話に興じた。

 やがて届けられた珈琲を互いに一口啜ったところで、山本が本題を切り出した。


「君も知ってのとおり来年の春までに第一航空艦隊が編成される」

 

 現在帝国海軍は八隻の正規空母を保有していたが、それらは第一、第二の両艦隊に分散して配備されていた。

 山本を始めとする海軍内の「航空主兵派」はその空母群を一つの艦隊で集中運用することを以前から提唱しており、山本の軍令部総長就任と、空母八隻体制の実現を契機として、その実現に漕ぎつけたのであった。

 ちなみに、第一航空艦隊の発足とともに第二艦隊は廃止され、そこに配備されていた主力戦艦は第一艦隊に集約されることになっていた。

 これはGFはじまって以来の大改編であるといっていい。


「ええ、もちろん」

 

 山口が相槌を打つ。


「その司令官なんだがね、君にやってもらいたい」

 

 山口が珈琲カップを口に運ぶ手を止めた。鳩が豆鉄砲をくらったような目で山本を見る。

 次の瞬間に失笑をもらす。

 

「そんな冗談を言うために私を大阪まで呼んだんですか?私はこう見えて結構忙しいんですよ」

 

  事実だった。

 山口が任されている第六航空戦隊は帝国海軍最新鋭の翔鶴級空母の三番艦“白鶴はっかく”と四番艦“紅鶴こうかく”で構成される予定であるが、“紅鶴”の就役は来春のちょうど第一航空艦隊が発足する頃の予定で、つまりはまだ編成途上なのであった。

 また、“白鶴”にしても就役から一年もたっていない。

 山口は編成完結を待たずして、「月月火水木金金」の海軍精神を体現するかのように訓練を行っていた。

 そして、山口は部下にばかり苦労をさせる上司では絶対にない。


「だろうね。心配しなくとも僕も同じなんだ。わざわざ横須賀から君を呼びつけて冗句を聞かせるほど暇じゃない」


 山本は、夕食の味噌汁を啜りながら古女房の愚痴を受け流す夫以上にあっさりした調子で言った。

「ああ、心配しなくともいい。階級は中将に昇進させる。それに米内さん(米内光政海軍大臣)、嶋田、井上君(井上成美海軍事務次官)も了承済みだ。何の障害もない」

 

 なんということだ。

 すべてお膳立てが済んでいるとは。

 自分だけ知らぬ間に縁談をまとめられた若い男のような気分で、山口は言った。

 嵌められるにしても、簡単に嵌められたくはない。


「それにしても適任は他にいくらでもいるでしょう。経験を考えても角田さんあたりが打ってつけですよ」

 

 GFには正規空母で構成された戦隊が他に三つある。

 第一航空戦隊、第二航空戦隊、第五航空戦隊。それぞれ司令官は角田覚治少将、原忠一少将、草鹿龍之介少将。

 角田と原は海兵年次は山口より上で、草鹿は一期下だが海大の同期であった。


「ああ、角田君は『山口の下でなら喜んで一武将として戦う』と言っていたよ。原君や草鹿君も似たり寄ったりだ」

 

 山本はカモをいたぶる詐欺師のような顔で言った。

 一呼吸おいてさらに続ける。


「つまりはだ、君は何の心配もなく日本初、いや世界初の航空艦隊の指揮官になれるというわけだ」

 

 山口はこっそりとため息をついてから言った。


「光栄ですな。しかし、そこまでして私を一航艦の長官に据えたい理由はなんです?純粋な好意でないことはわかりますが」


 戦争の影響もあって、最近は柔軟になってきたとはいえ、この国の陸軍や官公庁、そして多くの企業と同じく、帝国海軍の人事は基本的に年功序列制を採っている。

 他の実績や経験のある提督たちを差し置いて、中将に昇進させた上で、新編の一線級の艦隊を任せるというのは異常といってよかった。

 いったいどれほどの無理をしたのやら。

 ただでさえ、米内―山本ラインは人事を壟断しているという海軍内の批判がある。


「軍人の使命はつまり、祖国に勝利をもたらすこと、最悪でも負けないこと。そのために可能な限りの手段を動員することだよ」


「この無茶な人事がそうであると?」


 山口が今度は手品師のタネを見破ろうとするやたらと現実的な観客のような目で続けた。


「三国同盟ですか?」

 

 従来の日英同盟に南部連合を加えた「日英南三国同盟」は今年の九月に調印された。

 その背景には長期的なイギリスの相対的な地位の低下と、第二次欧州大戦がある。日本と南部連合の外交・国防戦略は一言で言うと「イギリスとの連携による合衆国との戦争抑止」にある。

 特に建国以来、合衆国が最大の脅威である南部連合にとっては切実な問題で、先の大戦のおりにイギリスが対独戦争で北米に介入できなくなった隙をついて、合衆国軍が南部連合に侵攻。

「第二次南北戦争」が勃発している。

 この戦争は双方が互いの首都が一度は陥落するほどの激しい攻防を繰り広げた挙句に国境付近で戦線が膠着し、その状態で欧州での大戦が終結。

 それから程なくして、南北での休戦が成立した。

 一年にわたったこの戦争で双方が得たのは、戦死者と、戦災と、それから開戦前と変わらない国境線だけであったといわれる。

 

 これを教訓にイギリスに過度に依存する国防戦略の見直しを迫られた南部連合は、新たに太平洋をはさんだ合衆国の仮想敵国であり、イギリスの同盟国である日本との提携を志向。

 昭和一一(一九三六)年に日・英・南部連合三国での武器、弾薬、その他軍事物資の融通や人的交流などを定めた「日英南防衛協定」を締結。

 さらに二度目の大戦勃発を挟んで、軍事同盟が結ばれたという運びであった。

 この同盟をめぐって日本の朝野では賛否両論の激しい議論が展開された。

 同盟の内容が、締結国のいずれかが第三国の軍事的攻撃を受けた場合に他の締結国の参戦を義務付ける完全な攻守同盟であったからであった。

 確かに合衆国が南部連合に侵攻した場合、太平洋をはさんで日本からの攻撃を受けるわけで、抑止効果は大きいように思えた(むろんこれは、日本と南部連合の立場が逆になった場合も同様である)。

 

 つまり、この同盟は実質的にイギリスを介した日本と南部連合の同盟であるといえたが、合衆国が三国ともを敵に回すリスクを冒すことを選択した場合、締結国すべてが自動的に戦争に巻き込まれる可能性があった。

 

 この同盟をめぐっては普段政治的な動きをほとんどしない山本ですら米内海相に反対を働きかけたと噂されている。

 しかし同盟は鈴木貫太郎内閣の与党であった国民自由党(国自党)と憲政党、それに社会大衆党による賛成多数で可決された。

 

 個人的にはどうであれ、正当な手続きに則って国の方針が決定された以上、軍人はその枠内で最大限に国家の負託に応えなければならない――山本が言っているのはそういうことだった。

 

「私も君も航空機こそが、次の戦争の主役になる時代がくると考えている。しかし航空機の実力が未知数であることもまた事実だ。そのような力を有効に活用できるのは、経験はあっても頭の固い『老人』ではなく、君ら若い者たちだと、私なりに無い知恵を絞って考えたのだよ――これで君の期待する説明になっているかね?」

 

 やれやれ、やはり軍人としての責務を果たさねばならないというわけか。

 まっ、本当に戦争が現実になると決まったわけでなし。

 山口は心の中では溜息をつきつつ、目に見える行動としては踵を打ち鳴らして気を付けをし、口を開いて、新任の少尉のように誓約した。


「総長閣下がそこまでお考えとあらば、小官に異議のあろうはずがありません!非才非力の身を尽くして国家の負託に応える所存であります!」

 

「わかってくれて嬉しいよ。これで肩の荷がおりたな」


 山本は心底安堵したような口調で言った。


 そして今日いちばんの笑みを――胡散臭い商人が胡散臭い商品を売り込むような顔で続けた。


「心配はいらない。可能な限りの便宜は図る。特に艦隊幹部人事については最大限取り計らうよ。さっ、今日の仕事はここまでだ。戦時とはいえ国家の下僕たる我々にも昼から酒を飲む贅沢くらい許される日もあるだろう。この近くに旨い小料理屋があるんだ」

 

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