一章 夜明け (4)
白い羽毛に包まれた生き物が膝の上にいた。
鳥――というもの自体は桜も何度か見たことがあった。“ろうてい”が買い与えてくれたこともある。そのときもらったのは金色をした綺麗な声で歌う小鳥だったが、目の前の鳥はそれよりもぐんと大きい。色も抜け落ちたかのように白く、歌を歌ったりもしなかった。
うたうのかな?うたわないのかな?、と桜は興味を覚えて鳥の喉元あたりを指でつついてみる。鳥は嫌そうに首を振っただけだった。やっぱりうたわないのかな。そうなのかな。桜は指先でそろそろと鳥の喉元を撫ぜたり、羽毛を軽く引っ張ってみたりする。
「……っふ、」
そのとき、桜ではない、別の声が空気を震わせた。
んん? 桜はあたりを見回し、誰もいないことを確かめると気のせいだったのかなと思ってまた鳥をいじって遊び始める。腕の中の鳥がぶるぶると身を震わせ、ついに爆笑した。
「く、くすぐっ……、もう耐えられん……!」
ひぃひぃと鳥は喉を震わせ、桜の腕から抜け出してぐるぐると部屋の中を旋回する。ひとしきり笑ってから、はっとした風にこちらを見、畳の上に降り立った。羽根を閉じ、居心地悪そうにこちらを見上げたあと、「……ちゅん」と呟く。鳥のものまねをしているらしかった。鳥が、鳥のものまね。
「……もう話さないの?」
桜は畳の上に腕を乗せて鳥の顔をのぞきこむ。
「ちゅん」
「……、」
そっかもう喋ってはくれないのかぁと思って心なししゅんと肩を落とすと、
「あーあーあーあーもうわかった! ばれたんだろう!? そんなの俺だってとっくにわかってるさちくしょうっ」
今度は突然弾けたようにかちゃかちゃ嘴を動かして鳥が喋り始めた。
「やっぱり……」
「なんだ!? そうだ俺は喋る。悪いか!?」
勢い込んで畳み掛けられ、桜は瞬きを繰り返したあと、ふるふると首を振った。白鷺は肩透かしを食らった様子で「あ?」と首をひねる。
「驚いて……ないな」
「おどろくことなの?」
聞き返すと、しばし絶句したのち白鷺ははぁと大きくひとがそうするようにため息をつく仕草をした。
「普通はな。鳥が喋れば、それなりに、驚く。この家の奴らは慣れているからもう誰も声を上げもしないが」
「ふぅん……」
「薄いなぁ反応」
白鷺は調子が崩れたとばかりにぼやいた。本当にここ、つまっているんだろうな、と言って桜の頭を嘴でつついてくる。これにはさすがに嫌がって桜は白鷺をぱしぱし叩き返した。
「……な、名前、」
「うん?」
「あおぎ?」
雪瀬が最初にそう呼んだのを思い出し、桜は訊いてみる。よく覚えていたな、とそこは少し感心した風に扇がうなずいた。ぶっきらぼうな喋り方をするひと(……鳥?)だが、怖いひと(……鳥?)ではなさそうだ。ほっとして桜は毛づくろいを始めた白鷺の真向かいに座り込んだ。
「なまえ、」
「ん?」
「ここの」
ここはなんというところなのだろう、という意味をこめて桜は畳を手で叩いてみる。ぎこちない言葉の置き方ではあったけれど意図は理解してくれたらしい。ああ、と扇は嘴で羽毛を引き抜きながら言った。
「葛ヶ原だ」
「くずがはら」
「そう、この国の東の最果て。風の一族が治める領地。今この国でもっとも平和で富裕と呼ばれる場所だ」
「ふぅ、ん」
ヘーワとかフユーの意味はわからなかったが、扇の言い方からすると悪い場所ではないらしい。こくんと桜は首を振った。
「お前が落ちていたのは毬街。葛ヶ原の隣だ。雪瀬は今日は毬街の医者のほうに行ってるんじゃなかったか」
「イシャ」
「お前を診てくれた奴だ」
桜の衿元からのぞいた包帯へちらりと視線をやって扇は言った。指摘されて初めて自分の怪我を思い出し、桜は衿をそっと開いて中をのぞく。あちこちに打撲や擦り傷のあとが残っており、そのいくつか――刀による斬り傷などはきちんと手当てして包帯が巻かれていた。これ、どうなっているんだろう。桜は包帯の端をつまんで開こうとする。
「あー! やめろやめろ、傷が開くっ」
とたん扇が嘴で桜の袖を引っ張った。
「どうして?」
「どうしてってそりゃあ……」
言いかけた刹那、白鷺の声に覆いかぶさるようにしてけたたましい鐘の音が鳴り響く。地を震わすその音に桜と扇はしばし手を止めて固まった。だが次の反応は扇のほうが早い。
「――なんだ? 侵入者か!?」
ちっと舌打ちし、扇は否や身を翻す。
「桜。ちょっとそこの障子、開けてくれ」
切羽詰った声に急き立てられ、桜は未だ若干危うい足取りで扇を追いかけ、障子戸を開ける。桜の髪をふわりと舞い上げ、扇が外に飛び出した。初めて現れたときと同じ、一陣の風のようだ。
「俺は母屋のほうへ行って話を聞いてくる。いいか。お前はくれぐれも、この部屋を出るなよ。何があっても、絶対だ」
今までとは異なるどこか威圧的な口調だった。気圧され、桜は言葉を咀嚼しきれないまま、ただ顎だけを引く。絶対だぞ、と念を押し、扇は庭の向こうへ飛んで行ってしまった。いつの間にか夕闇に染まり始めていた空を仰ぎ、桜はこつんと障子戸に額をあてる。
――夕刻に帰る、と雪瀬は言っていた。早くかえってこないかなぁ、と桜は思った。
*
けれど雪瀬は日が落ち、あたりが薄闇に包まれ始めても帰ってくることはなかった。桜はひとり褥の上にうずくまって、時折近くをひとが走るような音を聞いてはびくりと心臓を跳ね上がらせ、静かになってはほっとするというのを繰り返した。音が立ってはびっくりして、だんだんと心臓のほうがもたなくなってきてしまいそうだ。
扇もあれきり戻ってこない。ふたりともどうしたんだろう、と桜は抱えた膝にしょぼんと頬を乗せる。――ふと、既視感のようなものが意識の端を引っかいた。前にもあっただろうか、こんなこと。あまり多いとはいえない記憶をたどると、その光景はするりと、驚くほど容易に、桜の前に立ち現れた。
――あのとき。親切なひとに匿ってもらったあのときも、目を覚ましたら誰もいなくて、不安に思って部屋を出たら、そこに、――そこに、黒い羽織を着た男のひとがいたんだ。刀を持って、追いかけてきたんだ。何もしてないのに、肩を斬られたんだ。すごく、すごく。痛かったんだ――。
それまで緩んでいた緊張がぴんと背筋に張る。桜は注意深くあたりを見回し、聞き耳を立てた。まさかまた部屋の外に黒羽織の男が立っているんではないか、そう思ったのである。桜は畳を這っていき、さっき扇が出て行った障子戸に恐る恐る手をかける。
部屋を出てはいけない。ふたりはそう言ったけれど、障子戸を開けちゃいけないとまでは言っていない。桜はそろそろと障子戸を横に引いた。冷たい夜風がすっと鼻先をかすめる。遠くのほうにちろちろと揺れる光を見つけて桜は目を細めた。なんだろう、動いている気がする。
「いたか!?」
とすぐ間近で声が上がり、危うく桜は悲鳴を上げそうになった。口元を手で覆ってなんとかその場をしのぐ。眼前を騒がしい足音を立てて何人かの男のひとたちが走り去っていった。その手に松明と、腰に刀の鞘が佩かれているのを見つけて桜は今度こそか細い悲鳴を上げた。障子戸に背を預けてぎゅっと己の肩を抱きしめる。心臓がどくどくとうるさく鳴った。刀だ、と桜は思う。黒い羽織を着てはいなかったけれど、あのひとたち刀を持っている。
肩を指が食い込むほど強く抱くと、あのとき斬られた傷が鋭く痛んだ。その痛みが引き金だった。
「………っ、」
身体ががくがく震え、歯の根が合わなくなる。怖い、怖い、怖い、怖い。忘れていた恐怖心が頭をもたげ、いてもたってもいられない気分になる。桜はせわしなくあたりに視線をめぐらせ、にげなきゃ、と半ば本能のごとく思った。ここから逃げなきゃ。もう痛いのは嫌だ。斬られるのは嫌だ……っ。
桜は障子戸を開き、外へ這い出る。
視界を蒼い月光が満たす。樹々は濡れ濡れとした色を帯び、まだらな雪の残る白い地面が夜闇にぼうと浮かび上がるようだった。雪面には足跡がいくつか残されていたが、男たちはひとまずいなくなったらしく人気はない。桜は濡れ縁から中庭へと降りる。足の裏を雪面の凍るような感触が刺す。吹き付ける夜風に小さく身体を震わせてから、桜は中庭を歩き始めた。
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