一章 夜明け (3)
「歳は?」
「と、し」
「いくつ?」
「イクツ?」
反対に聞き返されてしまい、雪瀬は「……十五歳」と律儀に答えておいてからううんと難しい顔をしてすりこ木を止めた。
「俺の言うこと、理解できてる?」
ややあって、うなずくような、首を振るような、中途半端な相槌が返って来た。首をひねりかけたような位置で固まったまま、桜はううんと眉間に皺を寄せて考え込み始める。悩んでいるらしかった。――この調子だとこちらの言ってることをまったく理解できていないというわけではないようだったが、ただ知ってる言葉と使える言葉はずいぶんと限られているらしい。瀬々木に診せたとき頭のほうに異常があるとは言ってなかったから、もともと知恵を与えられなかったのか。
「……うーん。じゃあその怪我、何で?」
「けが、」
「そう、どうしたの?」
そちらのほうから状況を整理していこうと思って尋ねてみるが、桜はあまり表情というもののない顔を俯かせ、小さく首を振った。今度はわかっているが言いたくない、といった雰囲気。ようやくまともなやり取りができるかなと期待していた雪瀬は肩透かしを食らったような気分になり、嘆息をする。とたん細い肩が跳ね、桜は泣きそうな顔になってきゅっと膝に回した腕をきつくした。
「……別に、怒ってるわけじゃないから」
そんなびくびくしなくともいいのに、と小さく丸まる少女を横目に見つつ雪瀬は呟く。――白い襦袢を肌に重ねた少女は今、褥の上で半身を起こしている。朝の柔らかな光を背に受ける少女は小さくうずくまるようにしていることもあってか、眠っていたときよりもさらに幼い印象を受けた。ほっそりとした、頼りなさすら感じる身体の線に沿って流れる黒髪は腰丈ほど。これだけまっすぐで長い髪も珍しい。都の、それこそ帝の後宮に勤める女官たちくらいではないだろうか、と雪瀬は思った。そして印象的な、紅玉を思わせる深い緋色の眸。慣れない場所が落ち着かないのか、さっきからそわそわと部屋をせわしなく見回している。こうしてみると精緻な人形というよりは小さな猫とか栗鼠とかそういうものに近い。
「あ、できた。飲んで」
調合を終えた薬を薬紙に載せて、白湯と一緒に渡す。桜は一瞬ものすごく嫌そうな顔をしたあと、しぶしぶといった風に薬を受け取った。この異臭を放つ苦い薬がとても桜は嫌いなのだ。途中何度かつかえながらぜんぶ飲み下す頃には眦にうっすら涙が滲んでいた。
「……ニガイ」
白湯でこくんと薬を嚥下すると、桜は呟いた。
「そりゃあね。良薬口に苦しと言いますから?」
「……?」
意味がわからないといったように桜が首を傾げたので、雪瀬はでもきっともうすぐ治るよ、と折鶴を折りながら言った。緋色の眸がふと瞬く。ほんの少し、ほんの微かではあったけれどその空気が和いだのがわかった。だがそれは空気だけの話で、彼女の表情に直接の変化が現れることはない。ほとんど動かない表情を見て、笑い方、ちゃんと知っているのだろうか、と雪瀬はふと思った。おもむろに手を差し伸ばして桜の頬をぐいと引っ張る。びっくりして目を瞬かせた桜に、わらえばいいのに、と言ってみた。
「わらう?」
「うん。笑い方、わからない?」
意味がわからないというよりはどうしてそんなことを訊くのかわからないといった様子で桜は首を傾げていたが、やがてなんだかとても新鮮そうな顔をしてつかまれた頬を撫でさすった。その間に雪瀬は折鶴を完成させ、よいしょと腰を上げる。それを見取ったかのように開け放たれた障子戸から一陣の風が舞い込んできた。
「――
名を呼び、雪瀬は折鶴を宙へ放り投げる。白い折鶴は風に吹かれてくるりと回転し、――瞬間折鶴が消えて白い翼を持つ鷺が現れた。わ、と桜が小さな声を上げる。ぱちぱちとせわしなく目を瞬かせている少女のほうへ腕に留まった白鷺を差し出す。白鷺は物知り顔で桜の膝へ飛び移った。
「これから俺は出かけるから、」
衣桁にかかった羽織を肩に引っ掛けながら、雪瀬は膝に乗った白鷺を驚いたように見つめている桜へ言置く。
「桜は扇と留守番、よろしくね」
「るすばん」
「うん。夕方には帰ってくるから」
雪瀬は一度かがみこみ、かちかちと何か物言いたげに嘴を動かす白鷺の頭を撫ぜた。それから桜のほうへ目を合わせる。
「俺がいない間、好きにしてていいけど、ただ何があってもこの部屋からだけは出ちゃだめ。それだけ、『約束』。できる?」
無垢な眸がふと細まる。桜はこちらを仰いで、こくんを首を振った。よしいい子、と笑うと、やっぱり不機嫌そうな白鷺をもう一度撫ぜて雪瀬は足を返した。
*
桜と白鷺を置いて部屋を出ると、雪瀬は足早に廻り廊下を歩いていく。離れから母屋に出て、自室のほうへと向かっていると、
「きーよせっ!」
中庭のほうから呼び止める声があった。見ればちょうど前方からひとりの少年が手を振って駆けてくる。同年代に比べるとやや小柄な体躯をしたその少年は名を
「もうどこ行ってたのー? 僕ね、とっても探しちゃ、」
言っている最中にふと透一が視界から消えた。溶け残った雪に足を滑らせ、ずべっと地面に突っ込んだのだ。
「――……」
「み、見てないでたすけてよー」
こちらへ恨みがましい視線を寄越し、透一がむくりと起き上がる。子犬のように頭を振って薄茶の髪についた雪を払いながら、きみってさぁと透一が言った。
「ほんっと薄情! 最悪!」
転んだのはそっちなのになぁと思いながら、ああごめんと雪瀬は答える。心も何もこもったもんじゃなかった。
「ふんだ、そんなことちっとも思ってないくせにー!」
当然透一はむくれっ面のまま袴をぱんぱんと二度三度払った。もうだのこれだから橘はだのぶちぶちと独語に近い文句を続けるものの、しかしこの少年の場合、苛立ちは寸秒と持たない。それでさ、とこちらを向き直る頃にはもとの表情に戻っている。雪瀬が思わず苦笑してしまうと、本人は不思議そうに目を瞬かせた。
「な、何?」
「いや、別に。そちらこそ何?」
雪瀬は透一が自分を呼び止めたことを思い出して尋ねる。
「あー、んとね、
下駄を脱いで廻り廊下にのぼりこみ、透一が言った。
「雪瀬知ってる?」
「いや。見てないけど」
「そっかぁ。困ったな」
雪瀬と“八代さま”があまり仲のよろしくないことを知っている透一はそれ以上深追いはせず、ううんと腕を組む。
「
「何? 何かあったの?」
次々に一族の名が上がるので、雪瀬はいぶかしんで尋ねた。いや、と透一は考え込むように頬をかき、視線をそらす。
「うーん何というか、ね。都のほうの脱走兵。うちへ入り込んだらしいんだよ」
「脱走兵って。毬街との間の関所は? 引っかからなかったの」
「それがね。どうやら行商の荷車に隠れて入ったみたいで」
「何それ。杜撰だなー」
「このまま鎮守の森のほうへ抜けてくれればいいんだけど。どうだろう。都のほうからは捕縛命令が出てる」
捕縛命令、となると穏やかでない。さりとてここ
「雪瀬はこれから? どこか行くの?」
外行きの羽織に気付いて透一が尋ねる。
「あー、うん。ちょっと瀬々木のところにさ」
「瀬々木さん? 雪瀬具合悪いの?」
「そういうわけではないんだけども。……そういうわけでもあるんだけども」
こちらのどっちつかずの言い方に透一ははてなと首を傾げる。雪瀬は首をすくめて言葉を切り、雲の覆い始めている空へと目を上げた。脱走兵か、と呟く。少し引っかかりはするけど、まぁ屋敷にいるぶんにはたぶん。平気だろう、と片付け、雪瀬は歩き出す。それが浅慮だと気付いたのは帰ったあとのことだった。
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