一譚 光
序 灯
序 灯
風花が舞う。
今はまだ暗き空の果てから、静かに、音もなく、散りゆく花のような軽やかさをもって薄闇を舞い、夜明けの町を白く染め上げていく――。
さくりとそば近くで雪を踏みしだく音が鳴り、
息を喘がせ、桜はびくんと身体を弓なりにそらす。ちょうど脇腹あたりに無骨な鉄の刀が突き出されていた。深く身体の芯を抉るようにしてそれを引き抜かれ、悲鳴なのか喚き声なのか判別もつかないような声が口をついて出る。弱々しく喘いで桜は壁にもたせかかり、しまいには雪面に倒れこんだ。
手をついて自分の前に立った二本の下駄足を仰ぐ。血の気の失った口が力なく動いた。たすけて、と言ったのだろうか。自分でもよくわからなかった。
男は答えない。代わりにひゅんと頭上で空を切る音がして刀が振り下ろされる。それを転がるようにしてよければ、刀の切っ先は桜の頬をかすめて、地面へ突っ立てられた。引き抜くのにわずか男が手間取ったのを見て、いまだ、と思う。桜は最後の力を振り絞って身を起こし、その場を逃げ出した。
口の中には鉄錆にも似た血の味が残っていた。刺された箇所はもはや痛みを訴えてはこない。痛覚は麻痺し、ただ、重苦しい疲労感だけが身体にある。桜はふらふらと壁に手をつき、雪に染まった瓦屋根の連なる町を見やった。
ここまで逃げるのにいったいどれほど走っただろうか。目を瞑ると、刀に追いかけられて走っている自分の姿がいくつも浮かんだ。都の小道を走り、港でどこへ行くとも知れない船にまぎれこみ、たどりついた船着場からまた遠くへ遠くへと逃げ、この街へ。最初に履いていた草鞋はどちらも失くしてしまい、雪を駆け回った足はところどころ擦り切れ、真っ赤になっていた。
毬街、と書かれた色褪せた看板を眺めながら、桜は人通りの少ない小道を選んで歩く。――毬街。どのあたりだろう。文字が読めない桜には見当がつかなかったが、船を乗る前にいたところとは少しばかりひとの様子も服装も変わったような気がした。それから交わされる言葉も。都とは異なる、独特のなまりのようなものが微かに混じる。もしかしたらずいぶんと遠くまで来たのかもしれない、と桜は思った。
振り返ってさっきの男が追ってきていないことを確認し、ほぅと息をこぼす。どうやらまけたようだ。でもまだ安心はできなかった。はやく、はやく、別のところに逃げなければ。だが、思いに反して、進むごとに歩みは滞り、だんだんと足裏の感覚すらおぼつかなくなってくる。血を多量に失った身体は爪先から徐々に冷たくなっていった。さむい、と桜は肩を手で抱く。ふわんと視界に薄い靄がかかり、奇妙に歪み始める。それでもなお歩こうと足を動かすのだが、身体が傾き、しまいには地面に膝をつく。
――意識をいつ手放したのかは、結局覚えていない。
*
ひらりと鼻先に雪が舞った。白い、花弁と見まごうようなそれ。
「……降ってきた」
空が曇っているので時間はわからないが、まだ開門までは幾許か待たねばならなそうだった。こんな寒い中、立っているだけでもつらいのに、さらに雪まで降り出すとは今日の自分はつくづくついていないと思う。手をこすり合わせ、羽織をたぐりよせながら雪瀬は夜が明けるのを待った。
と、ふと視界端を黒い影が横切る。門番か、と思って顔を上げれば、――違う。なんということはない、痩せた黒猫だった。まだ誰も踏んでいない新雪の上を軽やかに駆け抜けていく。その背を何とはなしに目で追っていると、不意にあちらが半身を振り返らせた。半月形の眸を細め、にゃあと一声鳴く。まるでこちらを呼んでいるかのような猫のそぶりに雪瀬は眸を眇め、腕を組んだ。
そのときの心境をどうたとえたらいいだろう。一言でいうなら、勘。勘のようなものに引かれたといっていい。雪瀬は小道の暗がりに入り込んでいった猫を追って道を曲がる。――こうして猫を追っていったらまさか一攫千金が、なんてことありませんかね。
なんとも俗なことを考えながら雪瀬は本気と冗談が半分半分くらいの心持ちでぶらぶらと歩く。雪面には猫の足跡とはまた別に、もっと大きな、ひとの足跡のようなものが残されていた。さらに足跡に混ざって赤い、血痕が落ちている。それは奥へ向かって点々と続いていた。
一攫千金どころか死体でも発見しそうである。
い、嫌だなぁ、と心なし及び腰になりながら、それでも今さら引き返すこともできず、雪瀬はさらに奥へと踏み込んだ。 猫が足を止める。そのかたわらにちらりとひとの手のひらが見えた。小さな、子供のような手だ。力なく地面に落とされているそれは興味を引かれたらしい黒猫が赤い舌先で舐めてみてもぴくりとも動かない。あたりには積もった雪を赤く染めるほどの血痕が広がっていた。
覚悟を決めて一歩を踏み出す。壁に背をもたせかけ、力なく四肢を投げ出しているのは――まだ年端もいかない少女であった。死んで、いるのだろうか。長い睫毛は伏せられ、その髪や肩には雪が薄く積もり始めていた。
雪瀬は少女のかたわらにかがみこみ、そっと雪の積もった細い肩に触れてみる。とたんわずかではあったが、少女が身じろぎした。伏せられていた長い睫毛が微かに震える。やがてゆるりと開かれた眸は、深い緋色をしていた。
「――緋」
「……、」
その色の珍しさに思わず呟きを漏らせば、こちらに気付いたのか、色を失った唇が動いてかすれがちの声が返される。何?、と問い返してみた。けれど少女は喘ぐような吐息をこぼすだけで、それきりぐったり壁にもたせかかってしまう。見れば、かろうじて眸を開いてはいるもののその色はどこか紗がかかったようで表情も虚ろだ。それでも少女が壁にすがって身じろぎをしようとするので、雪瀬はぴしゃりと言った。
「――動かないで。動くと傷、開く」
ひと目見てまずい状態だというのがわかった。破れかけ、ぼろ布のようになった衣にはあちこちに血が付着し、ところどころに生々しい傷口が見え隠れしている。特に肩と脇腹に負った傷が深い。未だ塞がらず、血を流し続けている傷を見て、雪瀬は眉を寄せた。医者に運ぼうかと思ったが、先に止血だけでもしてしまったほうがいいだろうか。そう考えている間にも少女は壁に手をついてなんとか身を起こそうとしている。
「ちょ、」
何をしているのだ、と思って雪瀬は少女の肩をとり身体を引きとめようとする。だが肩に触れたとたん、それまでどこか虚ろだった緋色の眸に激しい怯えの色がよぎった。か細い悲鳴が上がり、次の瞬間、少女にはそぐわぬ無骨な銃口がこちらへまっすぐ向けられる。ぱん、と乾いた銃声が撃ち鳴った。残響が尾を引き、朝の静けさに波紋を投じる。
「……何、」
雪瀬はひとつ眸を瞬かせ、今しがた銃弾がかすめた肩口を押さえた。五指の間を細い血の筋が伝う。背後を振り返ると、対面の漆喰の壁に小さな弾がめりこんでいた。まさか今にも死にかけそうになっている少女がこんな武器を持っているとは誰も思うまい。心臓を射抜かれなかったことに少しばかり感謝しつつ、雪瀬は少女のほうへ目を戻した。
「へーなぁに、俺を殺そうって? その身体で?」
すごい度胸、と苦笑し、雪瀬はかたかたと震える少女の手から銃を奪い取った。
「や……っ、」
「なら外しちゃだめだと思う。一発目は」
淡然と言い放ってそれを自分の帯元に挿すと、雪瀬は歯向かってきた少女の手をつかみ、背後の壁に押し付けた。それで彼女はぴくりとも動けなくなる。緋色の眸が威嚇するようにこちらへ跳ね上げられた。まるで罠に囚われてもがきまわる子狐か何かみたいだ。抵抗を重ねるうち、少女はぐったりと疲れた風に壁に頭を乗せた。雪瀬は少女の手首をつかんでいた力を緩める。自然こちらのほうへ持たせかかってきた小さな身体を受け止め、脱いだ羽織でくるんでやった。
「へいき。怖くない。少し、手当てをするだけだから」
ふるふると腕の中で彼女は頑なに首を振る。
「何もしない。大丈夫。大丈夫」
繰り返していれば、徐々に首を振る力もなくなってきてしまったらしく少女はこちらをただ見つめた。獣が敵を見定めようとしているような目だった。その眸もやがて輝きを失い、睫毛が落ちて閉ざされた。ほとりと寄りかかってきた身体を抱えて雪瀬は立ち上がる。
――冬の終わり、春のはじまり。夜の終わり、そして朝のはじまり。風は無く、ただただ静寂に包まれた蒼き空の下。おおきなおおきな喪失の果てに、彼と彼女は出逢った。
これは、西の大陸から「空白の東」、「東の果ての地」と呼ばれた、蒼き海に浮かぶ小さな国。――腐敗を迎えた二百年王朝と、その末代の狂った帝の治める国での物語。その国の名はすでに残っていない。ただ、風のみぞ語り継ぐ、そこで生きた、果てた、生き抜いた、ひとびとの物語。
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