交換ノート

 目を覚ますと、既に昼過ぎであった。特に腹が減っている感じはせず、食欲はない。それでも何か口にしたいと思い、コーヒーを淹れる。といっても、既に粉になっているインスタントにお湯を注ぐだけだ。


 どうやら住人の中には凝り性の人がいるらしく、豆を挽くところから淹れられる道具も一式揃っているようだが、オレは使い方を知らない。いつか淹れられるようになれば格好いいかもしれないという憧れはある。


 そんなことをやや寝ぼけた頭の隅っこで思いながら、自身の淹れたコーヒーを一口含んで、共有スペースのテーブルに付く。ぼうっとしたまま辺りを見渡す。相変わらず、雑然とした場所だなとなんとなく思う。


 コーヒーを半分ほどまで飲んだところで、ようやく今日はどうしようかという思考になる。思いついたのは、書き途中の小説のことだった。それと共に思い出したのは、数日前にした白川との会話だった。


 妙な頭痛に襲われたときのことが酷く曖昧で、思い出そうとすると急に頭にもやが掛かったように不鮮明になる。


 くっそ、変な話しやがって……。そう思うものの、今はそれをぶつけるべき白川やつがいない。


 俺は仕方なく湧き上がる恨み言を飲み込むようにコーヒーを流し込んだ。そうして気分を切り替えるように自身のスペースに置いていたノートを持ち出し、テーブルに広げた。


 それは、A5サイズのキャンパスノートだ。そこには思いついた小説に使えそうなネタや文章、他に個人的な愚痴などを書き込んでいる。雑多に書くのが好きだし落ち着くので、罫線ではなく、方眼のものを使っている。ノートを開いたのは、現在書き進めている小説の続きが書けないでいるので、そのネタ出しのためだ。


 近くに先ほどのコーヒーの入ったマグカップを置いて、思いつく限りのものをノートに書きなぐっていく。


 今書いている小説は、ジャンルでいえばミステリーもの。主人公は何でも屋をしている男で、ある日、彼の元に一人の女性が訪れる。その女性が行方不明になった婚約者を探してほしいと依頼してくるところから物語は始まる。


 オレが詰まっているのはその物語中盤だ。主人公は依頼の手掛かりとするため、女性から様々な話を聞く。その中で、二人が出会ったのは、とある春、たまたま訪れた場所に咲く花がきっかけだったことを知る。そこに何か手掛かりがないかと、主人公がそこに訪れる、といったところだ。


 二人の関係が四季を追うように変化していくことに重ねたくて、そのはじまりを春にした。きっかけとなる花は桜でいいだろうと考えていたのだが、書き進めていくうちにどうもしっくり来なくて、書く手が止まっているのだ。今は迷路の中に迷い込んだように、何をどうしたらいいのか分からないでいる。ネタを出してみたり、住人が共有スペースに置いていた植物に関する本をひっくり返して見てみたりしているが、一向に先に進める気配がない。


 しばらくノートに書き出すことをやっていたが、だんだんと集中力が切れてきて、やがて、その手も止まった。一息つくために、コーヒーの入ったマグカップへと手を伸ばす。淹れたてのような熱さはなく、随分と冷えてしまっている。淹れ直そうかなどと考えていると、オレの視界の端にあのノートを捉えた。


 数日前から始まった交換ノート――はじめは平たく、歪みのなかったはずが、既に誰かが書き込んでいるようで、その表紙はわずかに膨らんでいた。けれども、オレはそれに書き込むどころか、開いてもいない。オレはただ、ここで引きこもり生活ができれば、それでいいのだ。そう思いはすれど、やはり気になってしまうのは確かであった。


 しばし、考えあぐねた結果、交換ノートを開いてみることにした。そこには思ったとおり、既に何人かがメッセージを残していた。


 各々自己紹介をしており、趣味などと一緒に名前も書いている。中には、子供だろうか、罫線など無視した、随分と大胆に書かれているものもあった。ここ――シェアハウスには本当にいろんな人がいるようだ。


 そんな感じでペラペラとページを進めていると、ページの隅に、申し訳なさげに書かれているものがあった。そこに書かれている内容は至って普通の、何気ない日常の小さな感想だった。文章の中で「私」と書いていることや、丁寧な文字からおそらく女性なのだろう。


 文字は青のような黒のような色で書かいており、他のカラフルな色で書いているそれと比べると絶対に派手とは言えなかった。それでも、オレの目は妙に惹きつけられた。


 すると、近くに名前があるのを発見した。


「あお、ば……青葉」


 響きを舌に乗せると、初めて口にしたはずなのに、妙に聴き馴染みがあるような、不思議な感じがした。その感覚にオレは戸惑った。そわそわするような、落ち着かない気分になるのに、それが嫌ではなかったのだ。


 困ったな……。そう思いながらも、気づけばページをめくり、彼女の名前を探した。


 彼女は他の人と少しは交流があるのか、互いのメッセージにコメントを残して交流しているようだった。

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