その木の下で、僕らは出会う。

しらす丼

梅屋敷の逃亡者

 鮮やかな桃色。塀の向こう側から伸びるその花弁に僕は目を奪われていた。


 毎年この時期――三月初旬ごろになると、塀の向こうにある敷地内には美しい梅の花が開く。そのことから由来して、近隣に住まう僕を含めた人々はここを『梅屋敷』と呼んでいた。


 しかし、それ以上のことを僕は知らない。住人も、どんな家業を営んでいるのかも。


 もしかしたら大人たちは知っているのかもしれないが、ただの中学生である僕がそんなことを知る由もなかった。


「『梅一輪 一輪ほどの 暖かさ 』服部嵐雪」


 知ったようなフリをして先輩から教わったその一句を口にする。ちなみに意味はよくわかっていない。


 中学生になって俳句部に入ったものの、実はそれほど俳句に興味も愛着も湧いていないのだが、先輩が手を焼いてあれこれ僕に教えてくれるのだ。


 そのまま梅の木を見つめていると、僅かに木の枝が動いた気がした。たぶん気のせいだろう。しかし、それからすぐに空から声が降りてくる。


「よ、避けてくださいっ!」


「女の子の、声……?」


 気がついて顔をそちらに向けた時には、その声の主は僕の目の前に降ってきていた。


 声の主とぶつかることはなかったものの、驚いた僕は思わずその場に尻餅をつく。


 女の子だ。淡雪のような白い肌、薄紅色に色づいた頬。吸い寄せられそうなくらい大きな瞳。


「ごめんなさい。お怪我はないですか?」


 その麗しさに見惚れている僕の顔を覗き込みながら、彼女はそう言った。


「あ、ああ。うん。僕は。君の方こそ、大丈夫?」


 僕が問うと、彼女はハッとした顔をして「そうでした。全然大丈夫じゃないです!」とキョロキョロと辺りを見回す。それから口元に手を添えて、僕の耳元で彼女は呟いた。


「実は私、追われていて……今逃げていたところなんです」


「え?」


「あなたはこの辺にお詳しいのですか?」


「ええ、まあ」


 そう答えると、彼女は顔をグッと僕の方に寄せた。


 潤んだ瞳と長いまつ毛。そんな彼女に思わず、頬が熱くなる。


 女の子をこんな至近距離で見てことなんて、生まれてこの方一度もない。


「……お願いです! 私をかくまってくださいませんか?」


「はい?」



 ***



 かくまってほしいと頼まれた僕は、まず目を引く彼女の身なりからなんとかしようと彼女と共に僕の家へ向かっていた。


 複雑に編み込まれた黒髪に、大きな花の髪飾り。黒地に白い花がいくつも描かれている着物。現代の日本において、和装で日常生活を送る同年代の女の子がいるということに僕は驚いていた。


「着物、歩きにくくない?」


 僕はチラリと彼女を見ながら訊いた。すると彼女は微笑みを浮かべ、「慣れればあんがい楽なものですよ」と答える。


「そうなんだ」


「はい」


 それから少し沈黙があって、僕は彼女が追われている理由を尋ねた。


「私にも詳しい理由はわからないのです。急にあの屋敷に連れていかれて、そこで行われていることに恐ろしくなった私は、命からがら逃げてきたというわけで」


 そこで行われていること……?


 その言葉には何やらきな臭いような響きがあった。


 しかし、僕にはそれを掘り下げるほどの勇気はない。それとなく濁して、話題を移すことにした。


「そういえば、名前。訊いていなかったね。僕は鈴木って言うんだ。君は?」


 僕が問うと彼女は少し思案顔になり、「ウメコ」とだけ答えた。


「梅の子って書いて、梅子?」


「はい。その梅子です」


 梅子は楽しそうに笑う。


 和装のうえに古風な名前。彼女はいったい何者なのだろう。極道の娘、とかではないことを祈りたい。


 とはいえ、それが一番可能性の高い考えのような感じもする。和装や着物の女性といえば、任侠ドラマだろう。いささか偏見すぎるかもしれないが。


 兎に角、厄介ごとに巻き込まれてしまった感じが否めないことは確かだ。


「はあ」


「鈴木くん、ため息が深いですよ」


「ごめん。僕の選択が正しかったのかどうか悩み始めてる」


「正しいですよ。こんなにか弱く可憐な女の子を助けるだなんて、鈴木くんは立派な日本男児です」


 笑みを崩さぬまま、梅子は言った。


 日本男児とか言っているよ。やはり、彼女はそう、なのか。


「ありがとう。そう思うことにするよ」


 そんな会話をしているうちに、僕の家の前に到着した。


 僕は肩掛け鞄の中から鍵を取り出し、玄関扉の錠を開ける。もちろん家から誰の声もない。


 今、家族は誰も家にはいないのである。父と母、それから妹の三人は今朝早くから揃って熱海まで温泉旅行に出ているからだ。帰宅は明日の夜だとか。


「誰もいないようですが……」


「うん、家族みんなで旅行中だからね。僕はあした部活があるからって断ったけれど」


「えっ!? それじゃ、鈴木くんと誰もいない家で二人きりですか?」


 そう言って怪訝そうな目で梅子は僕を見る。


 そんな目で見るなよ、とは思ったが初対面の男の家に上がるほど、梅子は尻軽でもないようだ。


 しかし、ここで僕が何かをやらかしたとしたら、僕の命も梅子の家の人達――なんかオラオラした感じの――にやられかねないだろう。だからもちろん彼女に危害を加えるつもりなんて毛ほどもないのである。


「ここには着替えをとりにきただけ。そんな服装じゃ目立つだろう」


 僕が言うと、梅子は全身をぐるりと見つめてから頷いた。


「確かに、そうですね」


「着替えを持ってくるから、リビングで待っていてよ」


「はい」


 そして僕は自分の部屋の箪笥の中から綺麗そうな白のTシャツとジーンズパンツ、箪笥の上に置いてあったグレーのキャップを持ち出した。


「着物を家に置いておくわけにもいかないよな……」とクローゼットに入っているリュックサックも取り出し、僕はリビングへ向かう。


 僕がリビングへいくと、梅子は棚の上に並べられている僕が家族と映る写真をまじまじと見つめていた。


「どうした?」


「いえ。鈴木くんのうちは家族仲がよろしいのだなと思いまして」


「梅子嬢のところは違うの?」


「不仲というわけではないのですが、みんないろいろと忙しくて。たまにしか構ってもらえないのです」


 寂しそうな顔で彼女はそう言った。


 僕のような一般家庭ではとうてい分かりもしない何かが、彼女の家庭にはあるのだろう。


 きっと聞いたって理解することも共感することもできない僕は、ただ頷くことくらいしかできない。


「ちょっとしんみりしちゃいましたね、ごめんなさい。それで、着替えというのは?」


 梅子は僕のほうを向くなり、笑みをつくってそう言った。


「ああ、これ」


 と僕が手に持っていた服とリュックサックを渡すと、梅子は小首を傾げてから受け取り、「なるほど。あちらで着替えてきますね」と廊下の方へと向かった。


 それから数分で、梅子は先ほどの和装とは真逆のカジュアルな服装で現れた。


「少し大きいようですが……これで大丈夫でしょうか?」


 梅子は恥ずかしいらしく、自分の身体をずっとキョロキョロと見ている。


「うん、いいね。そのキャップで髪を隠せば、梅子嬢が女の子だってことはバレないんじゃない」


「そのための帽子だったのですね! なるほど……」


 そう言いながら梅子はキャップを被り直し、着物を入れて膨らんだリュックサックを背負った。


「じゃあ出かけようか。なるべく梅子嬢の追手に気づかれないようなところがいいね」


「ええ、はい。その前に。さっきから気になっているのですが、その『梅子嬢』とは?」


「え? うーん、僕が感じた君の印象からそう呼んでみただけだけど……嫌ならやめようか?」


「いえ。それでいいですよ」


 梅子はそう言ってクスクスと笑った。


「梅子嬢、なんだか素敵です」


「まあ、喜んでもらえているのなら何より」


「ええ。それでは改めて。鈴木くん、よろしくお願いします」


 そう言って彼女は深々と頭を下げる。


 なんだかとんでもないことに巻き込まれてしまったけれど、大事にならなきゃいいな――と思いつつ、頭を上げた梅子に僕は微笑み返したのだった。

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