後編『どぶ川のローレライ』
思い出したのは、数日経った頃だ。夜の屋台で相席したドレモン先輩が、地味な幽霊話を紹介した。怪奇色が薄く、オチもないショートストーリーである。
「お堀の近くで歌が聞こえるんだと」
先輩が言うお堀とは運河のことだ。川よりも的確な表現で、安宿連中の何人かはそう呼ぶ。幽霊話が地味なのは、聞こえる歌が暢気な民謡のモーラムという点である。日本の演歌に相当し、恨めしくも何ともない。
「宿の女たちも馬鹿にしてたような、そんなレトロな歌ですよね」
ラジオで何回か聞かされた経験があった。この国の東北部が発祥で、屋台の売子がよく聴いているのだ。歌詞の内容も、惚れた腫れた系のロマンスや故郷が恋しいといった定番ものが大半を占め、若者には受けが悪い。
ちなみに、モーラムが精霊信仰と深い関わりがあって、近代以前は歌手がシャーマンの役割を果たしていたことを随分と後になって知った。また宿付きの娼婦たちが山岳部の出身で、東北地方の人々とは民族的な違いがあることなど当時は知る由もなかった。
「近所の家のラジオかテレビか、そんなのが聴こえて来たんじゃないのかな」
「いや、いつも同じ歌なんだ。都会は嫌なところで早く古里に帰りたいとか、そんな歌。聴こえる人もいれば、聴こえない人もいるんだって」
聴こえないのは単に耳が遠いだけなのだろうか。
「不思議な歌が聴こえる近くの橋で、女の霊がたびたび目撃されているって話もある。夜も昼もいつも同じ格好の、ピンクのワンピース」
橋という単語にぴくりと反応したが、幽霊の目撃例は食傷気味だ。ピンク色とか派手で風情がない…そう苦笑しつつ、奇妙な連想が頭に浮かんだ。橋のたもとで歌を歌う亡霊。そして船の事故。ローレライの伝説と似てなくもない。
ローレライは岩山のてっぺんに座り、船乗りを魅了する。歌うわけではないが、船乗りは放心し、渦に巻かれて船が沈む。彼女が現れるのは、ドイツ中部ライン川沿いの風光明媚な場所だ。どぶ川とは対照的と言える。それでも強引に結び付けたいような気持ちに捕らわれた。
運河ボートで働く
事故が続発した為か、橋の付近では神経を使っているように見えた。船頭は青年が座っていても、警笛を鳴らす。不注意から事故が起きるとは思えない。彼らが船上でぼうっと立ち尽くすような失態を犯すことは通常有り得ないと断言できる。
桃色ワンピース女はさて置き、何物かに魅入られて、動けなくなってしまったとも考えられる。
翌日、チャイナ・タウン北端の安物衣料品市場に行った帰り、女の幽霊が出るとされる橋に立ち寄った。曇り空の好い日和で、散歩ついでに遠回りしたのだが、タイミングが最悪だった。
水死体引き揚げの最中だったのだ。太った女性に見えた。作業の終盤で、浮いている姿を目の当たりにしなかったのが、せめてもの救いだった。亡骸は直ちにシートに包まれ、警察のものらしき車両に積み込まれた。
「また、ここだ」
見物人の一人、バイクタクシーの兄ちゃんが、教えてくれた。便利な通訳が一緒にいなかった為、細かい部分は不明だが、同じこの場所で繰り返し水死体が見つかるのだと言う。原因は不明だ。
運河は直線に延び、付近に障害物は見当たらない。水が澱み、ゴミが蝟集しているわけでもなかった。元から流れの早い運河ではなく、この時は上げ潮の時間帯だった為か、逆流しているようにも見えた。
忌まわしい場所ゆえに幽霊話が出たのか、それとも、ワンピースの女が引き寄せているのか。ふと橋に目を
小さな鏡だ。八角形の魔除けの鏡が、吊り下げられていた。偶然ではないだろう。バイタクの青年に尋ねてみようと思って振り向いたが、いつの間にか去っていた。
その瞬間、遠くからモーラムの歌声が聴こえてきたような気がした。慌てて耳を澄ましたが、届くのは車の騒音だけだった。
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