第33話 中 約束された誤解

壁にかけられた、アンティーク時計。

コッ、コッ、とメトロノームのように時間を奏でる。

そんな誇り高き姿を、逆さまに見ていると、頭に血が上る。


「ほほほ、なかなか耐えるじゃないですか」


「アンタ、もうやめたら?」


頭に血が上るというのは比喩でない。

このブリッジの状態になってしまえば必然的にそうなる。


「いや、まだ大丈夫……。

 むっ、むしろ、十蔵さんの心配しときな」


俺がそう言って笑うと、視界の端に、虫を見るかの如き目をした明日香が映る。

もちろん逆さま。俺の腕も笑っている。


「ほほほ。ご心配なさらず。

 私はまだ余裕たっぷりですので」


十蔵さんの発言は本当だ。ブリッジはしてないし、四肢も絡まっていない。

蜘蛛のように体を広げて体勢を保っている。


「……はぁ。それじゃあ次、行くわよ?」


明日香はルーレットを回す。

グルグルと回る針を眺めながら、彼女はため息を漏らした。


──パパに勝てるわけない。アイツが、アイツなんかが。


黒咲十蔵を敬愛する人間など、雑多にいる。彼は医者であるからだ。

だが、彼を最も敬愛する人間は黒咲明日香である。

この事実に反論の余地はない。

誰も、付け入る隙のない狂信者である。


──パパは最強なの。誰にも負けない、負ける所なんて見たことない。


「赤に右手……。ふふっ、もう無理なんじゃない?」


「うるせぇ。まだっ、どうにでもなるって。

 はっ、ぐぅぅ。よし、ほらな?」


雨宮はブリッジの状態から体を捻り、ドンっと体勢を整える。

その動作のついでに、彼の右手は赤のタイルを捉えた。

ポタポタと汗が落ちる。呼吸が荒い。だが、負けていない。


「ほほほ。まだまだこれからですねぇ。

 嬉しいですよ。その方が、燃えます」


十蔵は雨宮と対象的に涼しい顔をしている。

いつのまにか赤のタイルに右手を置いているし、

蜘蛛のような格好を保っている。


静かに、刺すように、雨宮を見守っていた。


「ははっ、十蔵さんも無理しないでくださいよ。

 俺、こう見えても負けず嫌いなんで」


十蔵はひとり、心の中で呟いた。

『空元気、それで良い。』


十蔵の生き方はシンプルだ。

『負けない』たったそれだけを肝に銘ずる。

脳髄に染み渡らせて、たとえどんな勝負であっても勝つように生きる。


そう、ツイスターゲームであろうと。


誰であっても、負けない。負けない。負けたくない。

超がつくほどの負けず嫌い。やはりシンプルな人間性だ。


「それじゃあ、次、回すわよ」


十蔵と雨宮が睨み合う最中、明日香は一呼吸置いてアナウンスする。

淡々とゲームを進行し、ノイズを極限まで減らす。

それが彼女の役割だ。


「ほほほ。

 そうですね、次、お願いします」


十蔵の笑みを横顔として眺める明日香。

芽生える嫉妬を他所に置いて、ルーレットを回す。


十蔵は、娘を誑かす人間を試したかった。

それは期待から授かった感情である。彼は焦っていた。


娘が『アイドル』をやっていたから、後継がいない。

それに娘の性格上、優秀な人材でなくては靡かない。

彼女が面食いなら、どれだけ楽だったことか。


黒咲明日香は精神的な面食いだ。


だって人生の半数以上を、父の背中越しに眺めてきた。

父の向こう側にはいつも敗者がいて、項垂れ、時には涙を流す。

そんな勝者の背中を追い続ければ、自然と性癖は曲がってゆく。


「次、右足を青」


ニヤリと口角を上げて、俺を見つめる明日香。

性格わりぃな、アイツ。


俺の右足は現在、緑に乗っかっている。緑は1番端。

青も1番端。この足を向こうに持ってゆくことは簡単。

だが、次の一手で死ぬ。もう体力がない。


明日香は、それを分かっててニヤついた。


「ほほほ。

 少々、苦しいですねぇ。ふぅーーう」


十蔵さんの呼吸が深くなった。変化はそれだけ。

その後ゆっくりと青のタイルに右足を置く十蔵さん。

俺も体を軋ませながら、なんとか、足を、置く。


「あ゛あ゛ぁぁ」


何故だろう。負けたくない。

この勝負、この人にだけは負けたくない。

こうやって雛鳥みたいな声を出そうと、体がバラバラ人砕けようと、

敗北だけはしたくなかった。


「ほほほ。

 もう限界ですねぇ。そういう顔、キミにはピッタリだ」


「負け、ねぇ。負けたく、ねえ……。あ゛っ、あ゛ー」


「聞こえてないですね。いやぁ、そこまでしなくても。

 負けたって……何も起こらないですよ?」


にこやかに俺を見つめる顔。能面のよう。


あぁ、この人に『無礼をはたらいた』なんて、烏滸がましい。

俺は、最初からこの人の眼中になかった。

ゾウは蟻に、見向きもしないだろう?


井の中の蛙大海を知らず。

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