ペーパーリバイバル

虚影庵

隠れる木の葉(初出:2021/05/05)

 今日最後の客も、濡れた目を真っ赤に腫らして、長く拍手してくれた。

 「ありがとうございました! すごく良かった…!」

 うわずった声が本当に喜んでくれているのを伝えてくれる。

 彼は空いている手を胸に当てて、深くお辞儀した。

 芝居がかかった仕草だが、顔全体を覆うヴェネチアンマスクを演出の一部と思わせる細工だ。

 演奏者と観客が1対1で向かい合って開催されるコンサート。本来はコンサート会場で実施するものだが、彼はウェブ会議を使ってオンラインで行っている。

 客が退室するのを見届けてから、彼もログオフした。

 ほどなくしてメールが届く。今の客が追加で送金してくれた通知だ。

 「今日も儲かったな」

 傍らのバイオリンケースからくぐもった声がする。楽器の内側に宿る精霊だ。

 「いやあ、精霊さまさまだ。お前さんにも何か礼ができるといいんだが」

 「オレはバイオリンの音がたらふく聴けるだけで十分だ。自分じゃ弾けねえから」

 「早いところ、もっと上手く弾いてやれるようにならないとな」

 「まあ焦るな。人間にゃおまえの腕がどうなのか分からんよ」

 精霊は、面と向かった人間がどういう音を好むのか見抜く。彼は精霊の指示に従って弦を弾いているだけだ。たったそれだけで、規定の演奏費に上乗せして金を払うくらい人間を喜ばせるのだから、精霊は敵に回すものではないとつくづく思う。

 ヴェネチアンマスクを外して、彼は大きく伸びをした。その顔は人間のものではない。

 獣面人身の彼と、バイオリンに棲み着いた音楽の精霊は、ずっと人目につかないように生きてきた。画面越しだとはいえ、人と顔をつきあわせるのはまだ慣れない。

 その緊張でこわばり、汗で湿った顔が気持ち悪いので、急いで顔を洗う。

 顔を拭くタオルのほわほわな感触に、平穏な暮らしを改めて噛みしめた。

 人間の格言に「木の葉を隠すなら森の中に」というものがある。人間の不可思議な技のおかげで、自分という木の葉もやっと隠れることができた。

 長く生きていてよかった、早まるのを思いとどまらせてくれてよかったと、そっとバイオリンを見た。

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