六話 山内深雪 『花占い』 part1

―― 高一 七月二十一日(金) ホームルーム ――



 山登りへ行く人たちの言う〝空気がおいしい〟という言葉の意味がよくわからないのは、究極的に言えば、私の体力がないせいだ。

 私が山を登り切った時は例外なくバテているから、空気がおいしいとか不味いとか、そんな感性を働かせている暇がない。


 同じような話で、運動が好きな人たちの言う〝汗をかくと気持ちがいい〟という感想もよくわからない。私はそんな風に感じたことが一度もない。〝疲れた〟以外の感想を持ったことがない。


 だからみんな強がっているんじゃないかとか、噓をついているんじゃないかとか、そんなことを考えてしまう。

 運動が苦手な私にとって、彼らの言っていることは理解不能だった。


 もう少しこの話を一般化するのであれば、何かを味わったり物事を楽しんだりするためには心の余裕が必要ということである。

 これはあらゆる人が様々な場面で実感することだろう。


 例えば食事。

 忙しい朝に食べるトーストの感想は〝遅刻するかもしれない!〟だ。

 ごちそうさまと言った時、覚えているのはお腹に物が入ったという感覚だけ。おいしいとか不味いとかではなく、単にエネルギーを摂取したという事実だけ。味の感想を口にできるのは時間に余裕のあるお母さんだけ。


 食事の例であれば、自分に不釣り合いな高級料理も余裕がなくて楽しめなかった記憶がある。あれも味なんてわからない。おいしいとか不味いとか以前に、自分の食べ方が正しいのかが気になって仕方がない。食べ方に苦戦した後、金額を割り算しながら食べる料理の味は虚無である。


 そしてそれは終業式にも当てはめることができる。


 あの何とも言えない脱力感と高揚感、期待感――それを味わえるのは、実のところ学校生活に余裕のある人だけである。

 余裕のない人たちは今から一か月間、二学期への不安粒ふあんつぶを胸いっぱいに積もらせる。

 彼らにとっての長期休暇は単なる息継ぎであって、空気がおいしいとか不味いとか、そういう類のものではない。


 実体験があるからこそ自信を持って言える。



「――ちゅーことでね、一学期最後のホームルーム、はじめましょうか。委員長」

「起立。礼――」



 ちょっと古い話になるが、私はいじめを受けていたことがある。


 その内容は小さなものから大きなものまで多岐に渡った。

 教科書が無くなる、ボロボロのノートがゴミ箱から見つかる、上履きが無くなる、持久走の途中で背中に砂を入れられる、黒板消しを投げつけられる、根も葉もない下品な噂が流れる――これらはすべて小さなものにカウントされる。


 大きなものは……大きなものは……思い出したくない。こっちはまだ消化できていないことが多すぎる。


 とにかく、私はいつ底が抜けるのかわからない容器にストレスを溜め続けた。底が抜けたらどうなるのかと戦々恐々としつつ、実は底無しなんじゃないかと自分の器の大きさに期待していた。


 そして当然のように底が抜ける。


 最後の一押しは文字通り、バケツ一杯の水だった。

 トイレの個室でそれを被ったのだ。


 私は一瞬、自分の身に何が起きたのかわからなかった。

 体を支えていたエーテルのようなものが一斉に流れ落ちて、体を動かそうという意思がゼロになった。


 背骨が引っこ抜かれたのではないかと錯覚するほどの脱力感、虚無感。

 首が座らなくなり、頭を俯けたまま動けなくなった。


 前髪の毛先から一つ二つと水滴が落ちていく。

 いくつかの甲高い笑い声がトイレを出ていくのを聞きながら、私はその水滴の数をじっと数えていた。

 ただただ、数えていた――やがて水滴は止まった。



 虚ろな時空を通り抜けると、今度は後悔と焦燥感が溢れ出して止まらなくなった。



 何がいけなかったんだろう?

 どうしてこうなったんだろう?

 どうして私なの?

 何をどうすればよかったの?

 ……いや、もういい。

 大事なのはこれからのことだ。

 私はどうしていけばいいのかな?

 何かを変えないと抜け出せないってことはわかる。

 じゃあ、何を変えたらいいの?

 このまま学校へ通い続けられるの?

 お母さんやお父さんにいつまで隠していられるの?

 私はいつまで耐えればいいの?

 これからって、何を、どうすれば……最初に何をすればいいの……?



 答えを出せないまま、問いは手元に残る。

 考えたところでなにも解消されなかった。私が何をしても嗤われて終わり……そんな未来が容易に想像できてしまう。


 私は思考を放棄した。


 自分の身に起こっている生理現象を客観的に観察する機械となり、「こういう時って涙は出てこないんだ」とか「水を被ったせいで、体が冷えてきたみたい」とか、ドラマの登場人物に感情移入している時のような精神と肉体の乖離を生じさせていた。


 トイレで水を被るのは三回目のことであったが、こんな風に動けなくなったのは初めてのことだった。


 これが中学校一年、二学期の終業式を終えた直後の出来事。

 私はホームルームにも出ず、荷物も持たずに自宅へ帰り、そのまま自室に引きこもることとなった。


 その日のうちに学校から両親へ連絡が行き、何があったのかと問い詰められた。

 私は黙秘した。この問題を大きくしたらもう学校へは戻れないし、何より両親に惨めな学校生活の実態を知られたらガッカリされる。そう考えたら本当のことは言えなかったし、かといって上手い言い訳も出てこなかったので、黙ってやり過ごすほかなかった。


 そうしていると両親は勝手に何かを察して優しくなった。



 時は流れ、年を越し、冬休みが終わった。私はとうとう学校へ行かなかった。



 二月。担任の先生が家にやってきた。めんどくさいという雰囲気がひしひしと伝わってきた。



 三月にもなると、引きこもりというのも楽じゃないと思うようになった。


 一階のリビングで話し合っている両親の声が二階の自室に閉じこもっている自分の耳に届く。

 何を言っているのか判然としなくとも、とにかく被害妄想を膨らませてしまう。自責の念に駆られ、精神を追い込み、やがて疲れ、いつの間にか煩いと感じるまでになっていた。

 今思えば、当時の私は両親の純粋な優しさすらもストレスとして蓄積させていたのだろう。


 そして三月の初め頃、再び底が抜けた。

 久しぶりに父親と顔を合わせ、赤の他人のようなぎこちない会話を交わしたときのことだ。父の語り口は本当に優しくて、まさに腫れ物に触るという感じであった。



 ――ああ、死にたい――



 娘が学校へ戻れないと悟ったのか、父が無意識のうちに肩を落とした。


 その時、一瞬の衝動だったが、自然とそう思えた。


 もちろん自殺をしたら両親が悲しむなんてことは容易に想像できる。だがその時ばかりは、自分の心臓が脈を打つたびに有毒なガスを撒き散らしているような気がしてならなかった。



 そして、忘れもしない四月二日。



 何の抵抗もせずに新年度を迎えた後のこと、不思議な電話があった。


 相手は同じクラスの笹島君。

 要件は私と話がしたいというもので――不思議というより不自然な電話だった。


 そもそも彼は見ず知らずの人と積極的にかかわろうとする人ではない。同じクラスの孤立組として、一方的な仲間意識を感じていたからこそ言える。

 そんな彼が私の家に電話をかけてくるなんて……何かあると考えるのが自然だ。


 お母さんから電話を代わるようにと言われたが、私は拒否した。

 笹島君の裏に奴らが――私をいたぶって下品な笑い声をあげるあの人たちの姿が幻視されたから。

 つまり、この電話は罠だと思ったのだ。


 通話を断った途端、今度は別の不安が胸中に溢れた。

 もし笹島君の裏にあの人たちがいるとしたら、私は今すごく薄情なことをしたんじゃなかろうか。笹島君は助けてほしかったんじゃないか……そんなどうしようもない不安と空虚な善意が渦を巻いて、後悔を呼んだ。


 すると今度は笹島君がここへやってくるという。


 お母さんは私に着替えるようにと言い含め、いそいそと掃除機をかけだした。

 いったい何が起きているのか――混乱しつつも、念のため人前に出られる服に着替えた。



 ここからの出来事は本当に、昨日のことのように、鮮明に思い出すことができる。



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