筋肉自慢だったあの日の後悔
江崎美彩
第1話
自転車のペダルを踏み込むたび大腿四頭筋……すなわち、太ももの前面が悲鳴を上げる。
まだ朝だというのに身体に乳酸が溜まっていくのを感じた。
趣味はロードバイクだった。
休みになれば、社会人になって自分で稼いで手に入れた愛車にまたがり、多くの場所に繰り出した。
土日は近郊にある河川沿いや湖畔の整備されたサイクリングロードでのんびりポタリング。長期休暇が取れれば愛車を担いで旅に出てのロングライド。瀬戸内海の島々を橋で結ぶ憧れのしまなみ海道を、潮風を浴びながら走り抜けたのは、記憶に新しい。
サイクリストにとって、市街地の坂道なんて大したことない。
そんなことを思っていた自分は、どれだけ驕り高ぶっていたというのか。
後悔は後に立たないから後悔なのだ。
保育園に向かう坂道を、自分よりも小柄で華奢なママさんに追い越されながら独りごちる。
──電動自転車にすればよかった。
今日も大腿四頭筋を、ハムストリングを、ヒラメ筋を意識して、ママチャリのペダルを踏み込み、油断をすると物理法則に従い斜面を転がり落ちようとする自転車を前へと進めるために大胸筋と上腕二頭筋でハンドル操る。
キミを自転車の前に乗せて坂道に悪戦苦闘しているこちらを尻目に、自転車の前後に二人の子供を乗せたママさんはあっという間に坂の上だ。
「みてー!」
キミが急に振り返るものだから、バランスを崩して自転車を止め、慌てて両足を地面で踏ん張る。
「危ないよ」
「おはな、きれいよー」
注意なんて気にしないキミは、短い腕を必死に伸ばして空を指す。
かすみがかった空を見上げる。ピンク色の小さな花が咲いていた。
「桜の花だよ」
「さくらー」
ロードバイクに乗って景色を見るのが趣味だったのに、毎日自転車に乗って必死に漕ぐだけで景色を見ていなかったことに気がつく。
自転車を押し、キミの歓声を聞きながら街路樹の桜がほころびはじめた坂道を歩いた。
筋肉自慢だったあの日の後悔 江崎美彩 @misa-esaki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます