第5章 カフェオレ 1
金曜日の夕方、私は予定したとおり、体育館方面に向かうバスに乗っていた。
「あかり、今日はなんかノリノリだね」
またしても最後尾の席の中央に座る
「そう?」
「俺、ちょっと怖くなってきた」
「誘ったのは爽太なのに」
「正直、あかりが本気になるなんて思ってなかったから」
「それで、また
「大丈夫です。私、今日はノートとペン、持ってきたんです」
私は膝の上の鞄を軽く叩いてみせる。
ついでにこの鞄の中には、大学の図書館で借りてきた剣道の本も入っている。
これで、剣道について調べものをして、レポートをまとめようとしている大学生という雰囲気が出ている。偽装工作はばっちりだ。
それに、特別なものも入っている。たぶん、
「書いたレポート、高須さんに見せてくれと言われたらどうするつもりだ?」
「もちろんそうなるのに備えて書きます。レポート」
「単位ももらえないのに」
「私、文章書くのは好きなんです」
無駄だというのはわかっている。でも颯は、楽しそうに笑みを浮かべていた。
「……そのレポート、よかったら俺も読むよ」
その言葉に、私はどきっとした。
「いいんですか? でしたらぜひ」
「おっ? 今、兄さんとあかりの好感度がふごご」
颯が爽太の頬を引っ張る。
「無意味に書かせたんだったら申し訳ないからだろ」
「いひゃいいひゃい」
バスが体育館前に着く。私は颯と爽太に続いてバスを降りて、そのまま体育館へと向かう。
「またあの姉ちゃんだ」
先に着いていた剣道クラブの子供が声を上げる。私は手を振って応じた。
そして、目当ての人はすぐに見つかった。
彩夏だ。ちょうどロビーの前に着いた車から降りて、運転してきた父親らしい男の人に手を振っている。そのまま体育館に入ろうとしたところで、彩夏は私たちに気づいた。
「あ、こんばんは」
彩夏が足を止めて、こちらに手を振ってくる。
「こんばんは。また来たよ」
私は颯と爽太から離れ、彩夏の元へと駆け寄る。
「本当に来てくれるなんて」
彩夏は、照れたように顔を少し赤くしている。
「約束だからね。それに大学の課題もあるし」
「課題、大変そう」
「そうかな? 剣道を本格的に見るの初めてだし、楽しいよ」
存在しない偽の課題だが、我ながらノリノリになってきた。彩夏を騙しているみたいなのが申し訳ないけれど。
「頑張って。私もお手伝いできることあったら、手伝うよ」
「課題は私一人でなんとかできるから、大丈夫。ところで、稽古が終わったら、親が迎えに来るんだよね」
私は言いながら、肩から提げている鞄に触れた。指先が硬いものに触れる。
「日によっては、遅くなることもあるけど」
「そう」
「あの、今日の稽古終わったら、また話しかけてもいい?」
「うん、どうしたの?」
「渡したいものがあるんだ」
玄関前で彩夏と話しているうちに、颯と爽太は先にロビーの中に入っていた。二人は玄関のガラス越しにこちらを見ている。
「あっ、寒いのにごめんなさい、私ったらこんなところで話し込んで。早く入ろうか」
「いいの。剣道やっているから、寒さには強いんだ」
ふふ、と彩夏は自慢げに笑みを浮かべてくる。
「さすが、強い子なんだね」
私と彩夏は、そのまま体育館の建物に入っていった。
「じゃあ私、着替えるから」
彩夏はロビーに上がると、そそくさと私から離れていく。
「うん、稽古頑張ってね。私も応援してる」
「ありがとう」
彩夏はそのまま、颯に挨拶すると、更衣室へと向かっていった。
私は、再び颯や爽太と一緒になった。
「なんか、今日の堂場さん、元気だな」
颯は、小走りで離れていく彩夏を見送りながらつぶやく。
「やっぱ、兄さんもそう思う? 俺だって、あいつがあそこまで笑っているのを見るの久しぶりな気がする」
「これも、舟入さんが来てくれたおかげ、かな」
颯の照れたような視線が、私を捉える。互いに目が合って、私は視線をそらした。
「そんな、私はただ来ただけです」
顔が赤くなるのを感じる。
――今、颯先輩に褒められた、のかな?
「こいつのわがままに振りまわされただけだけどな」
颯が、爽太の頭をこねくりまわす。
「やめろよ。本当はあかりが来てくれて嬉しいくせに」
「うるさい」
颯はさらに爽太の髪を撫でまわす。
「仲いい」
二人の様子を見て、私はつぶやく。
私の独り言に反応したように、颯は手を止めた。さらさらな髪をぼさぼさにされた爽太は、慌てた様子で髪を直していく。
「ちょっと、うらやましいです。私一人っ子ですから」
弟がいると賑やかそうだ。
まあ、さんざん振りまわされて大変そうではあるけれど。
「まあ、嫌ということはないな」
「嬉しそうだな兄さん」
爽太が、兄にいたずらな目を向ける。
「爽太、先生がもう来られたぞ。お前も急いで着替えろ」
駐車場には、義友の車が入ってきたところだ。
「今日の兄さん、おもしろ。じゃあごゆっくり」
へへ、と爽太は笑って、私と颯から離れていった。他の剣道クラブの子供たちに手を振りながら、更衣室のほうへと向かっていく。
入れ替わるようにして、駐車場に車を止めた義友が、体育館のロビーに入ってきた。私は颯と並んで、ぺこりと頭を下げる。
「今日も見学に来てくれるなんてな。うちの子たちの頑張っている様子、ちゃんと見ていけよ」
「はい」
実力のある子たちを率いているからか、義友の言葉には余裕がある。
その日も試合稽古があったが、彩夏は爽太から一本が取れなかった。
遠慮しているみたいに。
今日も、稽古が終わる。義友と一列に並んだ子供たちが相対して座礼し、解散となったところで、私は席を立った。急いでロビーへと向かう。
目的の人物は、すぐさまロビーに出てきていた。
「おつかれ、堂場さん」
私は声をかける。彩夏は、私を見つけると近寄ってきた。
「渡したいものって?」
稽古疲れで息を荒くしながら、期待している。
私は鞄を開けた。中からステンレスの水筒を取り出す。私はその水筒を、彩夏に手渡した。
「何? これ?」
「
水筒の中身を知って、彩夏は目を輝かせる。
「いいの? 私あそこの飲んでみたかったんだ」
「本当はコーヒーをと言いたいけど、まだきついからね」
「でも嬉しい。ありがとう」
さやかは、水筒を持ったまま更衣室のほうへと向かった。
剣道クラブの男子勢は、後からのんびりとロビーに出てくる。
「ん、あかり、堂場と何か話していたのか?」
先頭を歩いていた爽太が、私に話しかけてくる。
「うん、ちょっとね」
私は言いながら、更衣室に入っていく彩夏の後姿を見つめていた。大事そうにカフェオレが入った水筒を抱えている。
おいしく飲んでくれるだろうか。
剣道クラブの男の子たちが、着替えをして、そしてロビーに出て、何人か先に帰った頃、彩夏が更衣室から出てきた。
長ズボンにジャンパーを着た彩夏は、更衣室の近くのベンチに腰かけている私を見つける。
「
彩夏は、水筒を渡してきた。カフェオレで重かった水筒は、今は軽くなっている。
「おいしかった」
「私も、飲んでくれて嬉しい。コーヒー苦手だったらどうしようって思ってたから」
「そんなことないよ。これ、舟入さんが淹れたんだよね。すごいな。オシャレで」
「ほかにも、おいしいメニューがたくさんあるからね。家族と一緒においで」
私は軽いノリで言った。
「じゃあ、明日、煉瓦珈琲に行ってもいい? 私一人で」
「えっ?」
煉瓦珈琲に来てくれるのはいい。私も大歓迎だ。でもまさか、一人で行くと言い出すとは。
「本当に一人で?」
「できれば舟入さんと二人だけでお話ししたいの」
「いいのかな」
「お父さんには、私から言っておくから。だめって言うことはないし」
まあ、親がちゃんと許可するならいいか。うちの店、大人びた雰囲気がたまらないのか、彩夏くらいの歳の女の子たちがグループで来店することもよくあるし。
「明日、午前中に働いているから」
「よかった。稽古は午後だから時間がある」
ちょうど、ロビー前に車が到着した。
「お父さんが迎えに来たから、じゃあね」
彩夏はそう言って、私から離れていった。軽い足取りで、ロビーから出ていく。
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