沼らせ男と泉の女神
北野椿
第1話
待ち合わせは学校最寄りの改札で、相手よりも必ず十分は早く来る。歩くときはさりげなく手を繋いで歩く。同じ学校の生徒が通らないマイナーな道と、そこにお
学年で有名な、女子生徒をとっかえひっかえしては沼らせる男が私にお決まりの唐突な別れを切り出すまで続けていたことで。そしてなぜか、
「ねえ、
私の顔をうるうるした瞳で見上げている
「ごめん聞いてなかった」
正直に答えてから、私は葵ちゃんが作ったお弁当をもぐもぐと食べた。私が沼らせ男こと西織セナに作っていたお弁当の数倍美味しい。俯いてものを見つめるときの癖で箸を持つ手で前髪を抑えかけたけれど、手が触れたのはちくちくと固い髪の先だった。小学生の頃から十年弱伸ばしていた髪は、先週の月曜日にセナと別れて切ったけれど、まだ慣れない。
「美味しく出来てるかな?」
少し頬を紅潮させながら、葵ちゃんが私の表情を伺ってくる。柔らかに上を向くまつ毛も長く伸ばした髪も毛先にかけて丁寧に美しい曲線を描いていた。うちの学校は校則がゆるいから、今日も今日とて葵ちゃんはバッチリとメイクをしている。悩みの種であるニキビなんて存在しないくらい、葵ちゃんはメイクが上手い。
「とっても美味しいよ。毎日早起きして作ってくれて、ありがとう」
葵ちゃんの唇がきゅっと上がる。形の良い唇は、笑うと更にきれいな形になる。
「穂波ちゃんはいつもそうやって褒めてくれるよね。嬉しい」
ちらりと見えた白い犬歯にどきりとする。いつも、なのだろうか。付き合ってから私のしていることは、セナのやっていることとほとんど同じだ。大事にしようとするとそうなってしまって、それがまた私をもどかしくさせる。
葵ちゃんが私を好きになってくれたのは、うちの学校で制服が廃止されて、葵ちゃんが初めてスカートを履いてきた日のことだったらしい。その日から、私たちはなんとなく友達の関係が始まって、私がセナに振られた翌日の、先週の月曜日に私は葵ちゃんに告白された。
友達に告白されたことは驚いたけれど、葵ちゃんが私のことを他の子よりも好きでいてくれることはなんとなく気づいていた。葵ちゃんの気持ちを確認したくてやぼな質問をして、夜まで考えさせてと持って帰って、その夜電話で、私は葵ちゃんと恋人になった。
「きっとこういう言葉が出てくるの、葵ちゃんだからだと思うんだ。私、人と付き合うの慣れてないからさ」
セナのあれは、技術的に身に着けたものなのだろう。先手に回りすぎるエスコートは私の気持ちを縮こまらせた。人と付き合うのが初めてだったというのもあるかもしれないけれど、セナと付き合っているとき、私は人形のように求められるままの姿を探していた。今まで何人もがそうだった二週間で終わるという結末から抜け出したくて、暗い沼の中をもがいて、光が差す方を探していた。結局抜け出すことはかなわなかったけれど。
「もう、慣れてないとか知らない! 慣れる必要ってあるの? わたしだからっていうのは嬉しいけど」
葵ちゃんは自分のお弁当箱から甘い目玉焼きをつまんで頬張ると、口いっぱいにしながらちょっと大げさに不満そうな顔をした。思わず私はふふっと笑いが漏れてしまう。
あの沼の中の不安感が、今葵ちゃんといるときは
お昼の予鈴がなったので、私たちは手早く片付けて歩き出した。葵ちゃんの手をすっと握る。葵ちゃんはちょっと俯く。それが顔が赤くなるのを隠すためであることを私は知っている。伝えるのは恥ずかしいけれど、私が思っているありがとうって気持ち、大事だよって気持ちが、こうやって葵ちゃんに伝わればいいと思う。
校舎の角を曲がったところで、見知った後ろ姿が視界に入った。私は思わず足を止めてしまう。セナだ。新しい彼女と教室に戻るところなんだろう。彼女の顔を下から覗き込むようにして、私の心臓を高鳴らせた微笑みを彼女に向けている。
まだ、セナを見てもどうしていいか分からない。両目に涙が滲み出すのはどうにか収まったけれど、心にぽっかり空いた穴に居心地の悪い風が吹く。
ぎゅっと強く握られて、私はセナから葵ちゃんに視線を向けた。怒った顔をしてる。セナの方を見ていた葵ちゃんの瞳が、こちらを向いた。
「私ね、もう誰にも穂波ちゃんを取られたくない」
葵ちゃんの指がセナを指す。それからその指を引いて自分の下瞼をひっぱると、
「ぜったい渡さないんだから!」
そう言って、セナの背中に向かって、葵ちゃんは思いっきり舌を出した。
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